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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

考察その四、(①)「新日和見主義事件」概観

2000/1/22 れんだいじ、40代、会社経営

 いよいよ 新日和見主義事件の考察に入るところまでやって来た。以下の記述は、「赤旗」、著書「査問」・「汚名」・「突破者」、「さざ波通信」、「宮地健一HP」等々を参照させて頂いた。
 新日和見主義事件とは、70年代初頭に党-民青同盟-民青同系全学連の一部に現れていた戦闘的傾向に対し、宮本顕治氏の直接指示の下に党中央が摘発に乗り出したことから始まる。党は、71年12月第6回中委を開き、合理的な理由もないままに突如「民青の対象年齢引き下げ」を決定し、その押しつけを民青同に迫っていくことになった。党中央は、これを「踏み絵」にしつつ反対派を浮き彫りにさせていった。72年5.7日民青同幹部の党員会議が開かれたが当然のように紛糾した。党中央は、会議直後用意周到に準備させた査問者リストの手筈に従い一斉に「査問」に着手した。民青同系全学連初代委員長・民青同中央執行委員川上徹氏始め有数の幹部達が補足され、分派活動をしていたという理由づけで一網打尽的に処分を受けることとなった。これが新日和見主義事件であり、「日本共産党の戦後史において、現在の綱領路線を確立した以降に起きた事件の中で最も否定的な影響を及ぼし、現在にいたるもなお深刻な影を投げ続けているのが、1972年に起きた新日和見主義事件である」(「さざ波通信」)と言われているものである。「実に共産党系の青年学生運動の根幹部分で起こった査問事件であった」(「査問」前書き)、「共産党の閉鎖的な体質が最も顕著にあらわれたものの一つが、この『事件』だったと考える」(「汚名」)と今日事件の当事者が語っているところのものである。
 この時の「川上徹氏始め有数の幹部達」とは、「60年安保闘争」以降に育った大衆運動畑の青年党員活動家達であり、この間①.革共同・ブント生成期の際にも、②.春日(庄)らの構造改革派分派の際にも、③.志賀らの「日本の声」ソ連派分派の際にも、④.多岐な動きを見せた中国派分派の際にも、⑤.全共闘運動の際にも動揺せず、むしろ愚頓直なまでに「宮本顕治と日本共産党の旗」を護り、党に結集していたいわばゴリゴリの民青同活動家達であった。この連中が一網打尽されたというのが新日和見主義事件の本質であると思われる。「党最高幹部は年齢問題の仕掛けをつくることで、新日和見主義『分派』のあぶり出しに成功した。そして、本質的には良質で、党に忠実ではあるが、自主的・主体的に物事を判断しようとする人々を排除した」(「汚名」200P)という観点こそが、この事件のキーであると私も同意する。
 新日和見主義事件は、今日の党を実質的に支配する二重構造を改めて露呈させているということにおいて考察に値打ちが認められる。党の二重構造とは、背後に君臨するのが宮本式の治安維持法的陰険狡猾な統制秩序であり、これに依拠しつつ表舞台で活躍するのが不破式スマイルによるソフト路線であり、この両者はあうんの呼吸で一対をなしていることを指す。新日和見主義事件は、この裏の構造が出っ張った事件となった。宮本氏の音頭取りで直接の指揮の下直伝の「査問」が行なわれたが、この経過から見えてくるものは、宮本氏が戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑致死事件」に何らの反省をしていないばかりか、引き続きここ一番の常套手法にしている様が見えてくるということである。同時に氏が次代を担う青年組織に用意周到に常に警察的な目を光らせている様が自ずと見えてくることにもなる。個々の特徴としては、①.この「査問」が理由づけが何であれ、党指導下の青年運動組織に対する党の露骨な介入以外の何ものでもなかったということ、②.その介入ぶりが「非同志的査問=前近代的警察的訊問」手法を通して行なわれたということ、③.被査問者達がその後マークされ続け、陰湿ないじめられぶりを明らかにしていること、④.この時の査問関係者に警察のスパイが複数いたという事実、⑤.この事件で主要な役割を果たし真相を熟知している査問官茨木氏・諏訪氏が共に「過労死」しており、査問者側の真相告白の機会が失われてしまったことが惜しい、といったことに認められる。
 それでは、その川上氏らがどのような分派活動をしていたのか見てみよう。事件の概要とコメントが「『新日和見主義』の分派活動とは何だったか─川上徹著『査問』について―」(1998.1.20日付「しんぶん赤旗」.菅原正伯記者)で為されているので、これを参照しつつ私流のコメントで応戦して見たい。菅原記者は、新日和見主義分派の理論について次のように解説している。概要「川上氏らは、当時、党中央委員だった広谷俊二(元青年学生部長)らを中心に、党の『人民的議会主義』の立場に反対して『私的研究会』を党にかくれて継続的にもち、広谷らがふりまく党中央や党幹部へのひぼう・中傷などを『雲の上の情報』などといって、民青同盟内の党員や全学連その他にひろげ、党への不信をあおっていた」、「川上氏らは、その活動のさい、ある党員評論家(川端治氏のことと思われる-私の注)らを理論的支柱としていた」、「この評論家らは、ニクソン米大統領の訪中計画の発表(71年7月)や、ドルの国際的な値打ちを引き下げたドル防衛策(同年8月、“ドル・ショック”といわれた)、72年の沖縄返還協定の締結など、内外の情勢の変動をとらえて、特異な情勢論を展開し、党の路線、方針に反する主張をひろめていました。アメリカが中国との接近・対話を始めたのは、アメリカの弱体化のあらわれだとして、ベトナム侵略をつよめるアメリカの策動を軽視する『アメリカガタガタ論』、沖縄返還協定で日本軍国主義は全面復活し、これとの闘争こそが中心になったとして、日米安保体制とのたたかいを弱める『日本軍国主義主敵論』、さらには革新・平和・民主の運動が議会闘争をふくむ多様な闘争形態をもって発展することを否定し、街頭デモなどの闘争形態だけに熱中する一面的な『沖縄決戦論』など、どの主張も、運動に混乱をもちこむ有害なものでした」、「川上氏らは、こうした主張の影響をうけて“日本共産党は沖縄闘争をたたかわない”“人民的議会主義はブルジョア議会主義だ”などと党にたいするひぼうと不信を民青同盟内にひろげた」、「しかも自分たちの議論を党や民青同盟の機関の会議などできちんと主張するようなことは避け、党や民青同盟の機関にかくれて『こころ派』などと自称する自分たちの会合を、自宅や喫茶店、温泉などで継続的にもって、党の路線に反対する勢力の結集をはかりました」と言う。
 私は、こういう歪曲と捏造とすり替えを見るたびに、既述連作投稿した戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑致死事件」での宮本氏の詭弁を思い出す。というよりそっくりの論法に気づかされる。赤旗記者とは宮本論法を如何に上手に身につけたかを紙面で競う提灯記事の競い屋かも知れない。新日和見主義者達は、菅原記者が書いているような意味で『アメリカガタガタ論』・『日本軍国主義主敵論』・『沖縄決戦論』を本当に鼓吹していたのか。本当に新日和見主義者達が居たとした場合、彼らに紙上反論権が認められ、その見解が一度でも良いから赤旗で記事掲載されたことがあるのか。そういう事も問題にされぬまま、実際を知らせもせぬまま闇に葬むってしまうやり方はオカシクはないのか。こういう手法は党ならではに通用する封建的な「お白州」政治ではないのだろうか。
 ところで、広谷俊二の無念の死が川上氏の「査問」文中にて明らかにされているが、川端治氏のその後の動静については記述がない。何らかの配慮があるものと思われるが、私は知りたい。いかにもオールドボリシェビキ風の雰囲気を持った軍事評論家であったが、どなたか氏の査問のされ方、その後の様子について教えて頂けたら有り難い。健在なら良いのだけれども。