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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

考察その四、(②)「新日和見主義者の解析私論」

2000/1/24 れんだいじ、40代、会社経営

 「新日和見主義者」達とは何者であったのか? あるいはまた「新日和見主義者」達が摘発される寸前の状況はどんなものであったのだろうか? 解析をしてみたい。私は、「新日和見主義研究は、全共闘など新左翼諸派の影響下にあった青年を含む時代と青年情況の検証抜きには語れない」(「汚名」262P)という観点に全く同意する。「新左翼諸派の影響下にある群衆に、単にトロッキズムないし反共主義のレッテル貼りだけではしのげないし、青年大衆の未定形の不満に対して、切り捨てるのではなく正面から対応すべきとする、と柔軟な感性の必要性を述べていた」というV記の作者(「汚名」262P)の感性を至当としたい。事実は、「新日和見主義者達とは未形成なままに存在していた民青同の闘う分子」であり、「この時点まで党の呼び掛ける民主連合政府樹立をマジに信じてその実現のために労苦を厭おうとしない一群の熱血型同盟員達」であった。でないと、新日和見主義者達は自己撞着に陥る恐れがあった。新左翼運動が衰退しつつあったこの時こそ民青同の出番となっていた訳であり、この出番で民主連合政府樹立運動に向かわないとすれば、一体全体ゲバ民化してまで全共闘運動と競り合った従来の行為の正当性がなしえず、大きな不義以外の何ものでもないことが自 明であったから。
 そういうこともあって、あの頃民青同の闘う分子は本気で民主連合政府樹立を目指そうとし、そのために闘うことを欲していた。闘争課題は何でも良かったような気もする。「冷えかかった背後の空気を感じながら、私たちは沖縄闘争を闘っていた。まるでそれは、60年代から引き継いだこの灯を消して仕舞ったら、永遠の静けさの世界がやって来るのではなかろうかという、恐れに近いものでもあったろう」、「新日和見主義『一派』に括られた者たちの一部、主に学生運動の分野には、明らかにそうした傾向があった。運動の重さを辛うじて跳ね返し、なんとか闘争のヤマをつくりかけたさなかであった72年5月、新日和見事件が起こった」(「査問」206P)という語りはさすがに往時の指導者としての状況認識を的確リアルに示しており至当と思われる。
 次のような見方もある。「戦後民主主義の欠陥を指摘する新左翼には、それなりに状況を反映する感性がありました。問題なのは、新左翼の側には感性しかなかったということでしょう。そして、新左翼と正面から闘う民青であったのですが、前衛党の末端機関としての在り方に満足するのでなく、社会状況に主体的に対応する大衆的組織としての道を選ぶ限り、組織形態としては、理念において対決する新左翼と同じ多元構造を内部に取り込む課題が不可避なのでした。新日和見主義とは、日本共産党の内部に浸潤してきた新左翼的発想にほかならかったのですが、宮本顕治氏は、前衛組織防衛の本能を発揮し、民青に現れたその動向を『双葉のうちに摘み取った』のです。しかし、この摘み取り作業の結果、日本共産党は、新左翼的感性を取り込むことがないまま旧型左翼として旧世代の支持にのみ依拠する党となり、若者世代から見放される存在となっていったと私は見ています」(川上徹著『査問』の合評会.高橋彦博.1998.3.9日)。こういう高橋氏の好意的見方は伝わるが、少々評論的過ぎるように受け取らせて頂く。「新日和見主義とは、日本共産党の内部に浸潤してきた新左翼的発想にほかならかった」というこの見方は、闘おうとする意欲の源泉をこの絡みで見ようとする点で同意しうるが、「新左翼と正面から闘う民青」とその方向に指導した宮本-不破執行部体制に付きまとう胡散臭さに対する批判的観点を基点にしない限り喧嘩両成敗に帰着させられてしまう。新日和見主義の本質は、油井氏の喝破しているように「本質的には良質で、党に忠実ではあるが、自主的・主体的に物事を判断しようとする」70年代初頭に立ち現れた党-民青同盟-民青同系全学連の一群の戦闘的傾向、この傾向には「新左翼と正面から闘う民青」論理の不毛性を突破させ確実な闘争課題に勝利していくことで実質的に社会変革を担おうとする戦闘的分子が混交しており、この動きに対して、元々反動的な宮本一派が正体を露わにさせて乾坤一擲の粛清に着手した事件であったとみなさない限りヴィヴィドな視点が確立されえない。
 事実、70年代を迎えて新左翼運動の瓦解現象が発生したが、党は、これと軌を一にしつつ既にかっての熱意で民主連合政府樹立を説かなくなっていた。この落差に気づいた私の場合、民主連合政府樹立スローガンが全共闘運動を鎮めるために党が用意した狡知であったということを認めるまでに相応の時間を要した。私の政治意識が遅れていたということであろうが、認めたくない気持ちが相応の時間を必要とすることになった。党がこの頃から替わりに努力し始めたことは、「社会的階級的道義」の名で道徳教育の徳目のようなことの強調であり、まるで幼児を諭すようにして党員達に対する注意が徹底されていった。概要「70年代にはいると共に、党内での教育制度がきめ細かく制度化されるようになった。初級、中級、上級といったランク化された試験制度が定められ、それぞれの講師資格を取得することが奨励され始めた。党員全体に独習指定文献が掲げられ、専従活動家はそれを読了することが義務化された」、「党組織全体が巨大な学校のようになった。民青組織においてもその小型版が模倣されるようになっていった。私には到底堪えられる制度ではなかった」(「査問」207P)。私は吐き気を覚えた。
 ところで、宮本氏はこの辺りの変節に対して自覚的であり、意識的に事を進めているように思われる。この冷静さが尋常ではないと私は思っている。氏の眼は、民青同の中に闘おうと胎動しつつあった雰囲気を見逃さなかった。ホントこの御仁の嗅覚は警察的であり、この当時の公安側の憂慮と一体のものとなっている。70年安保闘争後のこの当時に青年運動レベルにおいて勢力を維持しつつ無傷で残ったのは民青同と革マル派であった。革マル派については別稿で考察しようと思うので割愛するが、70年以降「左」に対する学内憲兵隊として反動的役割をより露骨化させていったのが特徴である。となると、残るのは民青同の処置である。元々民青同は青年運動の穏和化に一定の役目を負わされていたように思われる。ところが、この頃民青同は、「新左翼系学生との闘争を通じ、“ゲバ民”のなかには、自分たちの青年学生運動のやり方に自信をもち、また他方で新左翼的思想傾向の一定の影響も出てきました。そして、共産党中央の上意下達式対民青方針への意見、不満も出るようになりました」、「宮本氏にとって、70年安保闘争、大学紛争、“ゲバ民”後の川上氏らの民青中央委員会や民青中央グループの態度は、“分派ではない”ものの、反中央傾向に発展する危険性をもつと映りました」(宮地健一HP)とある通り、新左翼運動を目の当たりにした相互作用からか幾分か戦闘的な意欲を強めつつあった。沖縄返還運動に対してその兆しが見えつつあった。党の議会闘争も成果を挙げつつあり、共産党の選挙での躍進を通じて全国的地方レベルでの革新自治体の誕生と広がり、地方議員の誕生等々が並行して進行していた。
 このような背景を前提にして宮本氏の出番となる。“ゲバ民”武装闘争体験者である川上氏の民青同指導が党の統制の枠を離れて指導部を形成し始め、民主連合政府の樹立に向けての本格的な動きを志向しつつあった、ように宮本氏の眼に映った。恐らく、70年代の青年学生運動の流れを俯瞰したとき、組織的に無傷で温存された民青同は20万人の組織に成長し一人勝ちの流れに乗ろうとしていた。この動きは、対全共闘的運動の圧殺に成功した公安警察側の最後の心配の種であった。既に戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑致死事件」で解析したように宮本氏の奇態な党指導者性からすれば、当局のこうした意向が地下から伝えられ、これを汲み取ることは訳はない。
 こうして、宮本氏の嗅覚は“分派のふたばの芽”を嗅ぎ取ることとなり、後はご存じの通り“例の”党内清掃事業に乗り出すことになった。この清掃事業に対して、新日和見主義者達は「何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかった」(「査問」226P)。長い自問自答の熟考の末、事件の主役として査問された川上氏は、好意的に次のように理解しようとしている。「共産党はこの『事件』をきっかけにし(ある意味では利用し)、自覚的にか無自覚的にか、自身が一種の『生まれ変わり』を果たそうとしたのではないかと考える。一つの時代の区切りをつけたかったのではないかと。それを『右旋回』と呼ぶか『官僚化』と呼ぶか『柔軟化』と呼ぶかはその人の立場によって異なるであろう」(「査問」152P)。つまり、被査問者達は、宮本-不破ラインの党をなお信用しようとしており、自分たちが党の新路線問題で粛清されたと理解したがっているようである。しかしこうでも考えないと今だに「当事者達が何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかったのである」ということであろう。
 こういう結論に至る背景には、私には根深い宮本神話の健在と宮本式論理の汚染が影響しているように思われる。宮本神話については次のように告白されている。「あの『事件』がおきる一年くらい前まで、私自身は『熱狂的』ともいえる宮本顕治崇拝者であった」、「頼りになるのは宮本顕治だけだと考えた。宮本の話したり書いたりした一言一句といえどもおろそかにしてはならぬと信じたし、これに異議をとなえるものは『思想的に問題がある』と信じた」。この連中に他ならぬ宮本氏その人の指示で襲ったのが「新日和見事件」であった。この衝撃の落差を埋め合わせるのに各自相応の歳月を要したようである。私は既に公言しているように、宮本氏の戦前-戦後-現在の過程の一切を疑惑しているので、この事件の解明はそう難しくはない。現党執行部が公安内通性の然らしめるところ党内戦闘的分子(又はその可能性のある者)を分派活動の理由で処分したものと理解することが出来る。川上氏は現在この立場での認識を獲得しているように思える。今日においては「あれほどコケにされた体験」と公言している。漸く「アノ世界からあれほどコケにされた体験」を客観化し得、この瞬間から「コケにした者達」への疑惑を確信したものと推測される。
 こうした認識上の延長からこそ以下に記す事態の凄みが伝わってくる。「査問」に先だって用意周到な首実検の場面が川上氏の体験で持って明かされている。72年初の新年の旗開きの席のことである。宮本氏は、彼らの“傾向”を直接観察するための場として、代々木の共産党中央本部で党本部幹部多数と民青同中央常任委員の合同レセプションを開いた。その場の宮本氏について次のように書かかれている。「私の眼は、会場のいちばん角の薄暗くなっている一角にじっと座っている、大きな人影を見つけだした。……私はそれまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。冷たいものが走る、という言い方がある。そのときに自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか。誰もいない小さなその部屋で、私は、あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」(川上著「査問」13P)。