れんだいじさんが精力的にアップされていますが、この頃の学生運動に関わっていたものとしては、同感できるところ出来ないところあい半ば、という感じがします。
時間的には「全共闘」が先になりますが、れんだいじさんが言っている「東大-日大闘争」というは単に社会的な注目度が大きかった大学闘争と言うだけで、このころは日本中のほとんどの大学で多かれ少なかれ「闘争」「紛争」がおこっていました。日大と東大では背景に違いが多すぎてとても一つの括弧で括ることができるようなものではなかったです。
れんだいじさんがとりあげたかったのは、「全共闘」という運動体なのでしょうが、それも東大では(旧)社学同全国書記局派の旧活動家が理論的にも組織的にも核となっていたのにたいし、日大では右翼系暴力にたいする自然発生的な活動家、ではなく、活動的学生の集合体であって、共産党系の「銀鷲行動隊」も参加していた、というのが実態でした。したがって東大の場合は安保ブンドの「大衆運動の前衛からの独立」思想(となってしまった、実は情緒だと思うのですが)が当初から確固としており、これに「自立の思想」「自己否定」だの、「大学コンミューン」「大学解体」だの、「日常性からの脱却」だのといった雑多で錯綜したエモーショナルな空論が絡まっていったわけですが、これはこれで相当の学生の共感をえたわけです。この「大衆的」ともいえる運動に「新左翼」各セクトが指導権を獲得すべくなだれ込んだ訳ですが、党派性をもったセクトと党派性への嫌悪から発生した「全共闘」とは最後まで融合することはなかったですね。最終局面ではセクト間の(とくに革マルvs青解/中核)主導権争い、内ゲバの頻発で「全」共闘が崩壊する訳ですが、組織の出自から(以下、文字化け・・・編集部)。共産党のこの頃の大学問題に対する政策は「大学の民主的改革」ということで、具体的には大学の運営への学生の参加を機構化することだったわけです。
学生運動の実際面では「正当防衛論」ということで、ある程度の実力行使もやむを得ない、とされました。実際に、セクト各派は徹底した議論の中での多数派を指導部とする、などという「ブルジョア民主主義」は当初から念頭になく、自治会、寮、文化祭や生協の代議員会において多数派である自分達が少数になる可能性がある、あるいは逆に自分達が現在は少数派でも多数派を握れる状況とみれば反対派を単純に暴力で排除する、最初から会場へ入れない、という行動に出るので、代議員会自体が正常に機能しなくなる訳です。さらにエスカレートすると反対派は大学構内で見かけただけで襲撃するというところまでいってしまいます。われわれも当初は暴力反対、ということでビラや立て看板での応戦をしていたのですが、上のような主に自治会関係の指導部争いのほかにも、「XX問題での日共の方針を自己批判しろ」とか言って突然ヘルメット/ゲバ棒で襲撃してくる、単に自分達の拠点が必要だからというだけでサークル室を占拠してしまう、という自体が日常茶飯になると左の頬を差し出す代わりにヘルメットを着用しよう、となってしまうわけでこれは本当に「正当防衛」とし(以下、文字化け・・・編集部)。東大でも同様でした。当初は「全共闘」も思想運動の側面が強かったと思いますがセクトのなだれ込みと同時に、全都動員だ、全国動員だのの組織戦に変容してゆきました。われわれも「都学連行動隊」として駒場や本郷での泊まり込みの毎日でした(ちなみに宮崎学さんの「突破者」で使われている”あかつき行動隊”という言葉は、学生運動に労働者党員がゲバ要員として動員されている、として革マルなどが言い出したデマで、そんなものは存在しません――会社休んでゲバ、なんてできません)。それ自体が目的でしかない「全学封鎖」の阻止、代議員会の防衛、拠点自治会の防衛などなど、我々にとっては議論の場は実力をもってしか確保することができなかったのです。
これまでのところで、当時の学生運動に関わっていなかった方におわかりいただきたいのは、マスコミにともすれば花々しく取り上げられた暴力問題と言うのは、じつは事の流れからいえば馬鹿馬鹿しい程に単純な、大学問題とは全く関係のない、異次元のことであったということです。問題は大学をどうするか、ということで「全共闘」にしても反日共系セクトにしてもそれにたいしてはなんらの積極的政策はもっていなかった、あるいは組織構造からして持ち得なかった、あったのは「叛XX」という情緒/エモーションだけであった、ということです。
実はこれからが私個人の問題です。大学問題についてなんらかの提案をできたのは共産党だけでした。このことは冷静になって観察して見れば単純な事実です。しかし、「情緒」をベースとしてかなりの数の学生が「全共闘」運動に参加していったのも事実です。論争になれば我々は必ず勝ちます。でも熱狂している彼等に、これが通用しなかった、ということをどう考えれば良いのか、「左翼小児病」は対処の方法がないのか、今もよくわかりません。いわゆるトロツキストの活動家を徹底した理論攻めで何人かをこちらの陣営に入れることはできました。法学部系で理屈が優先の人たちでした。それにはとても長い時間を要したのですが、「全共闘」が短期間に影響できた数には遠いものがありました。ほぼ同じことでしょうが、共産党系の学生運動はこの種の熱狂、情緒を盛り上げるのがあまりうまくないと思います。当時は「平時の民青、戦時の三派」などといわれたものでした。
長くなりましたので後は簡単に書きますが、「新日和見主義」について思うのはまず、党指導部にはなんらかの誤解があったのでは、ということです。再建全学連の初代委員長川上さんとか都学連の早乙女さん、宮崎さんとが反党分派などを考えていたとは全然思えません。なぜ党指導部がそんな誤解をしたのかはわかりません。「査問」を読むと、川上さん自身が最後まで「なぜ?」と思っておられる様です。彼等が当時の他の青年/学生運動の幹部とくらべて優秀な運動指導者であったかはわかりませんが、まちがいなく無私と善意の人たちであったと思います。極左暴力傾向と言う批判もありましたが、上に書いたようにそんなことが本質に関わる問題だと考えている活動家なんかいませんでした。この際、誤解とそれに基づく不名誉な取扱いを謝罪して、明日を共有した方が良いと思うのですが。まあ、ことのなりゆきで、言い過ぎはお互いにあったと思います。所詮は人間がした判断ですから、まちがいは避けられないでしょう。
これは私のまったく個人的な感覚なのですが、じつはあの人たちは先に書いた青年/学生の「情緒」と運動の発展についてなんらかの――無意識かも知れませんが――所感を持っている人たちではないでしょうか。これが正しい方針/政策である、その実現のプロセスはこうこうである、と人から(上から)言われて動ける人と、そうかも知れないがまず自分で考えさせてくれ、という人たちがいますから、この後の人たちへどう働きかけるか、それを考えていたのが「新日和見主義」の人たちではなかったのか、と、まあ彼等の内の何人かの知りあった人との交際から感じているわけです。
私は今は党外の応援団のオジさんですが、昨年の政治状況など見ていて、なにかしなきゃあ、と思っているところです。そのなかでも若い人にとって魅力に溢れた党になってもらいたい、と思っているところです。あのころの党は輝いていました。