新日和見主義事件は、民青同の「年齢引き下げ問題」から端を発した。つまり、「新日和見主義者」達が規約問題で党と対立したことが摘発の原因となったということであるが、既述したように実際にはこれは党より用意周到に仕掛けられた罠であり、そうとは知らぬ「新日和見主義者」達は予想通り反発を見せたことにより事件へと誘い込まれることになった。つまり、「年齢引き下げ問題」は党中央による挑発でありこじつけでしかないので、その是非をいくら党に弁明したところで「新日和見主義者」達の抗弁は通用しない。「新日和見主義者」達は、「70年安保闘争」以降の闘う主体としてありえていたからこそ粛清されねばならぬ情況にあり、その主役を引きずり降ろすことにより運動の芽を潰そうと企図した、公安と党中央との内通により作動したという観点からアプローチしない限り事態が把握できない。そう、宮本執行部の胡散臭さが認識されない限りヴェールに包まれてしまうということだ。
暫くこの動きを見ると次のような経過があったようである。それは、“ゲバ民”活動から1年後の1971年12月第6回中委が開かれ、「民主青年同盟に対する指導と援助の問題について」の決議が採択された。この決議で「民青の対象年齢引き下げ方針」の一方的決定がなされた。民青同加入年齢限度を従来の28歳から25歳、民青同幹部年齢限度を32歳から30歳に引き下げるというものであった。この突然の「民青の対象年齢引き下げ方針」に特段の理由があった訳ではない。28歳までという従来の年齢枠は、1960年の民青同再建大会となった第6回全国大会以来12年間にわたって維持されてきていた体制であり、このこと自体何らの問題を発生させていた訳でもなく、むしろ運動能力の継承という意味では合理的かつ歴史的試練に耐えたものであった。「それは、労働組合青年婦人部の年齢とも対応していました。民青内の指導・活動経験継承システム上でも合理性がありました」(「さざ波通信」)とあるように実践で鍛えられ確かめられた制度であった。従って、突如として「民青の対象年齢引き下げ方針」の一方的決定と押しつけは、民青同に対する「仕組まれた言いがかり」的観点から把握しない限り理解不能となる。
この「民青の対象年齢引き下げ方針」の問題性は、その導入に当たり予備期間を設ける等一定の経過措置を講ずる手だてもないままにいきなり導入されようとしていた点においても強権的であった。運動の継承と人的引継ぎ等を考慮すればあまりにも現場を無視した暴挙であった。これも、民青同に対する「仕組まれた言いがかり」的観点から把握しない限り理解不能となる。
第6回中委決議を受けてその直後に民青同幹部の党員会議が開かれ、このたびの党の決定の承認が図られた。しかし、この短兵急な党の決定を無条件で受け入れるには正当性がなさすぎた。自分たちの利害に関係しすぎていたことと民青同の組織的発展に難があることが明白であったため、党員会議は従来通りのようなベルト式無条件承認をなしえず、むしろ承認は時期尚早として結論を後日に持ち越すこととした。「党幹部は党指導部の提案が無条件に通らなかったことに衝撃を受け、その背後に陰謀を感じとりはじめた」とあるが、真相は逆であろう。党中央にとって織り込み済みの「衝撃」であり、会議後直ちに内部調査に乗り出し、首謀者相関図の作成に取りかかったというのが真相であろう。この頃党中央により赤旗紙面で新日和見主義事件の発生が告げられはじめていた。この時民青同幹部は、まさか自分たちが新日和見主義事件の首謀者として想定されていることなぞ知る由もなかった。
先の会議より半年後の1972年5月7日に民青同幹部の党員会議が再召集された。後から分かることは、この時党中央は既に腹を括って権力を発動しており、この時の会議は摘発前夜の最後の様子見であったことになる。会議の主宰者は、党中央の青年対策部門責任者・茨木良和幹部会委員だった。茨木氏の報告を受けて議論が始まった。そうとは知らぬ「新日和見主義者」達は、党のこのたびの強引なやり方に対して次から次と疑問、批判を噴出させた。これを機会に「みんなが日頃胸につかえていたことを、言いたいだけ言った」風があった。「汚名」の著者油井氏は一番長く発言したとのことである。この熱烈愛党発言が、後の「査問」時においての油井氏イジメの要因となったようである。かく査問官が意思統一していた節が伺える。そのことはともかく、会議は民青中央委員108人の半数以上が党中央決定に異論を示す事態となった。反対派の主張は、「年齢引き下げを行う場合、私の見解は経過的措置を含む柔軟で弾力的な運用をはかるべきだ、ということであった」、「この年齢問題自体の是非は、当時の状況の具体性に即して考察すべき問題であって、何らかの政治的原則にかかわるものではない。のちに新日和見主義事件に巻き込まれる民青幹部たちは、この年齢引き下げに原則的には同意しながらも、その実施にあたっては慎重を期すこと、機械的・拙速的に実施しないことを求めるという態度をとった」とある(「汚名」139P)。
会議を主宰した茨木良和はなかなかの役者のようで、次々と出る慎重論にいらだちを隠さなかった。「査問」では、「これでは労働組合の会議だ」という茨木氏の怒気が含まれた発言が紹介されている。茨木氏は途中席を外ししばしば党中央と連絡を取っていたともある。こうして正論がぶたれ、不満が発せられたが、これが党の側からの挑発であったことまでは知る由もない「新日和見主義者」達であった。
この党員会議以降事態は急速に新日和見主義事件へと発展していくことになる。「おそらく、この党員会議の以前から、党幹部は、民青幹部や全学連幹部の中に、自立的な志向、時には上級批判につながるような不満の雰囲気が広がりつつあることを察知していたのだろう。党中央は、背後で操る分派の首謀者が存在すると見た。しかし、党幹部は、この党員会議までは、この志向や雰囲気がどこまで組織的なものなのか確信を持てなかった。しかし、この党員会議において、あいついで異論や慎重意見が出され、党指導部の提案した方針が通らずに、結局保留になるという『異常事態』(党内民主主義が実際に機能している政党においては、ごく普通の現象なのだが)に直面して、党幹部は、民青幹部の中に分派的な潮流が存在しているという確信を抱くようになったにちがいない」(「ささ波通信」)とあるが、やや評論気味の理解のように思われる。この経過で押さえておくべきは次のことである。この時点で既に、党中央の鉄の意思による断固たる「新日和見主義者」摘発闘争が発動されており、これを促したのはドン宮本氏の「分派は双葉のうちに摘み取れ」の号令一下であった。つまり、5月7日の民青同幹部の党員会議の紛糾結果によって「昨日、若造にやられたから」というにわか拵えの権力発動レベルのものではないということが踏まえられなければならないということだ。ここを確認しなければ真実が見えてこない。
ただし、この見方も、宮本式統制手法は証拠を残さないように巧妙になされるので、結局は推測に頼らざるをえないという欠点を持ってはいる。状況証拠から言えば上述の推論が成り立つということだ。宮本氏の常套手段は、問題の在処を的確に認識しつつもこれに正面から取り組まず、からめ手の裏口から形式的手続きの問題を通して用意周到にチクチク神経戦を伴って襲ってくるという特徴を持つ。その手法は病理的なまでに意識的であるが、そういう癖があるだけに現場論議では尻尾しか見えてこない。この尻尾をたぐり寄せて本音の所まで辿り着かないと本質に迫れないという狡知が仕掛けられている。そのことはともかく、党中央は、こうして異論・批判者を入念にチェックしつつ「新日和見主義者」達を浮き彫りにさせていった結果、5月7日の民青同幹部の党員会議時点においては、後は「査問」を待つばかりとなっていたものと推測し得る。
この辺りの経過については、「汚名」(油井喜夫著、毎日新聞社、1600円)が詳しい。昨年末に木村さんよりご推薦頂き、ようやく店頭で見つけることが出来ました。かくして「汚名」は、私にとって記念すべき新千年紀の新年読書の第一冊目となりました。読む前までは「査問」の二番煎じだろうという思いこみがありましたが、読んでみて木村さんのご忠言に感謝しています。この場をお借りしまして御礼申し上げます。なお、『さざ波通信』で「汚名」が紹介されたとき本屋に立ち寄りましたが新書コーナーにありませんでした。何度か別の本屋にも回りましたが同様でした。今や党関係の諸本がかくも人気が無いのかとも思いましたが、「汚名」読了後の私の気分はなぜ?という疑問を生じさせています。単に発行元の毎日新聞社の営業努力不足かも知れませんが、「汚名」は党関係者必読本のように思います。都会の書店ではどうだったのかは分かりませんが、地方の中小書店では取り寄せない限り手に入らない様子にあり、この不都合さは改善されねばならないように思います。
こうした党の押しつけに対して民青同中央は次のように対応したらしい。赤旗記事であるのでどこまでが本当かどうかは判らないが、他に資料もないのでこれを検討する。概要「民青同盟の活動における学習活動の重視、幹部の年齢制限など、民青同盟の発展のために党が提起した方針(71年12月、第11回大会6中総で決定)を大衆闘争軽視だなどとねじまげ、これに反対するため、民青同盟中央内での多数派工作、地方にいる役員へのはたらきかけ、民青同盟中央委員会の会議が開かれる前の発言内容の意思統一や“票読み”活動、さらには民青同盟三役の不信任問題や次期委員長候補の選定を話し合うまでになりました」、「新日和見主義の分派には、広谷俊二らのグループ、新日和見主義の理論的支柱とされた評論家たち、川上氏らの民青同盟中央の一部集団などいくつかのグループがありましたが、それぞれの行動が、党の方針に反対することを目的に、党規約をふみにじった分派活動であることは明白です。彼らは互いに講師活動や執筆活動などで気脈を通じていましたが、とくに川上氏はいろいろのグループのいわば“結節点”にいた中心人物の一人として、この分派活動で重要な役割をはたしました。川上氏自身、当時、この状況を『多角的重層共闘』とか『問題別共闘』とか称していました」(赤旗.菅原記者)とある。
これに対して党がどう動いたかが次のように明かされている。事態は急速に動いた。会議から2日後に出された5月9日の常任幹部会声明にはすでに、「干渉者」の存在を云々するとともに、これらの分子による「きわめて陰険で狡猾な暗躍」と闘うよう訴える一文が含まれていた。「陰険で狡猾」とは、調査してみてもはっきりしなかったという意味である。ちなみにこの時既に川上氏の「査問」が開始されていた。この点は注意を要する。「査問」に拠れば、5月9日9時過ぎに民青同本部にやって来た川上氏は「即刻、代々木の本部に行って欲しい」と告げられ、訝りながら党本部へ詣でた様子を明らかにしている。5月11日の『赤旗』は大きなスペースを割いて、「トロツキストとの無原則的な野合」をし、「党の内部を撹乱するために労働運動、青年・学生運動などのなかで党への中傷と不信をもちこみつつある」対外盲従分子や反党分子に対する厳しい警告を発していた。
ところで、「トロツキストとの無原則的な野合」とあるが、具体的な記述がない。どこのセクトとどのような野合をしようとしていたのか今からでも明らかにして貰いたいところだ。「新日和見主義者」摘発闘争は、宮本氏の号令一下現執行部総出でれっきとして不破・上田をも巻き込んだ党中央直々に関与した事件であるし、その党中央がいい加減なデマ記事を垂れ流していたということになれば、これも充分な責任問題に発展しうるように思うから。
こうして、「72年5月、党中央は川上氏らの分派活動の動きを知り、常任幹部会の決定のもとに、ただちに調査と事情聴取をおこない、事実の究明にあたりました」(赤旗.菅原記者)とある。「赤旗」外信部にいた新保寿雄が最初の事情聴取を受けたのは5.12日、この頃から民青本部の者たち約30名に対する査問が順次始まった。かなり「さみだれ」的だったようである。「汚名」の著者油井氏はその頃肝臓病で入院中であった。この油井氏に対して5月15日、代々木の党本部へ出頭するよう呼び出しがきたと明かしている。査問官が執拗にこだわったのは、「分派相関図」であり、誰と誰がどのように関わっているのかを見極めようとした。「分派相関図は、当初から全国的規模をもって作成されていたと思われる。そして、その分派の内容としては、かねてから相当に訓練された、高度の政治的意図をもって暗躍している悪質な一派であることが想定されていた。またその一派は外国勢力からも支援を受けているものと考えられていたフシがある」。しかし、どう詮索しようとも、査問官が期待していたような「分派相関図」、「外国勢力から支援を受けている一派」なぞは供述されず、従ってこの方面の解明は肩すかしに会ってしまったようである。このことは興味深いことでもあるが、「新日和見主義者」達は分派の臭いのするような相互の関わりを忌避しており、こぞって宮本式統制論理の忠実な実践者であったことを逆に証明さえすることとなった。現場の査問官がこの落差をどう埋め合わせしたのか興味があるが伝えられていない。
しかし、党中央は、「新日和見主義者」達を無罪放免とはしなかった。もっともらしい理由を付けて一件落着させた。この連中は正義も何もあったものではない曲党阿世の精神の持ち主であるということが分かる。「その結果、全員が分派活動の誤りを認め、自己批判し、規約にもとづく処分をうけました。広谷俊二も、当時は分派活動という党規律違反をおかしたことを認め、党中央委員の罷免、党員権停止の処分をうけましたが(72年12月、第11回大会9中総で決定)、党中央は広谷がこんごも党員として党規律をまもり党の決定にしたがうと表明していることを考慮して、彼の処分を党外に公表することはしませんでした。しかし広谷は、77年、参議院選挙の闘争のさなかに『中央公論』『週刊文春』などの党外の雑誌に登場し、公然と日本共産党を攻撃したため、除名処分となりました」、「川上氏は、分派活動の誤りを認めて自己批判し、党員権停止1年の処分をうけましたが、党にとどまりました。しかし、90年、日本共産党員の資格に欠ける言動があって、党から除籍されました」とある。
「党が『新日和見主義』の分派活動の組織的実態や構成メンバーなどについて、これまで具体的に発表してこなかったのは、参加者がすべて誤りを認めて自己批判し、党にとどまる態度をとっていたからです。党は、彼らがそれぞれ党員として立派に再生の道を歩むことを期待し、その見地から、分派活動の組織的実態の暴露や参加者への糾弾などを控え、批判は彼らの行動の前提となった誤った情勢論や方針などの理論的な批判に重点をおいてきました。実際、この分派活動にくわわった党員のなかでも、多数の同志たちが、その自己批判を生かした態度をとり、今日まで、党の一員として、いろいろな分野で活動しています」(赤旗.菅原記者)とある。こういう説教強盗の論理についてはこの後見ておこうと思う。