私は、本来であれば当局との丁々発止のやり取りの中で続けられる党的運動を思うとき、党における査問自体の必要悪を否定するつもりはない。ただし、胡散臭い連中側からの査問なぞ認めるわけにはいかない。「闘争においては、正面の敵よりは味方内部に『送り込まれた』敵の方が憎いものである。正面の敵に裏から『通じている』者は、闘いの過程で味方の秘密情報を敵に流すことによって味方の被害をより甚大なものとし、時として壊滅的な打撃をもたらすからである」、概要「そればかりではない。正面の敵がふだんは遠いところにいて『つき合い』などすることもないのに、『送り込まれた』敵は、日常生活を通して自分たちの隣にいて良き隣人づらをしつつ、隙を窺い攪乱を準備する(注-この部分は私の追加)」(「査問」74P)という現実があるわけだから、組織防衛上査問自体は必要悪と考えられる。但し、厳格なルールの下に行なわれる必要があるであろう。
宮本一派が戦前の大泉・小畑氏に対してなしたような、いきなりピストルで脅しての手縄・腰縄・足縄・猿ぐつわの下での食事を供せず便用の自由をも拘束したような査問は、どう強弁されようとも認められない。その点でこのたびの「新日和見主義者」達に為された査問はそのような原始野蛮な手法ではなかったことはやや改善の
後が見られる。代わって採用されたやり方は精神的に追い込む手法であった。
ここで言いたいことは、「民主集中制」もそうであるが、査問についても厳格に運用基準が定められ、その経過と内容に付き極力公表されるべきではないかということである。ここを無視すると査問が権力者の強力無比な如意棒として乱用され、勝者の一方的論理を聞かされてしまうことになってしまう。ブルジョア法の下であろうが、この点において法の運用には一定のタガが填められていることは良いことのように思われる。一般に法律は、「条文」とその理解のための「手引き」と関連した「判例」等により、適用をめぐっての厳格な実施要綱が定められていることを良しとする。これは市民社会下のルールとして歴史的に獲得されてきたものとみなすことが出来、一般に広く支持されている。ところが、党の場合、規約運用は未だ権力者の恣意性に導かれており、適正な遵法のさせ方としては肌寒い状況にあるのではなかろうか。既に多くの法学者が党員として結集しているように思われるのに彼らは一体何を学んでいるのだろう。党外の者に日本国憲法の基本的人権を滔々と説明する姿勢があるのなら、まずは党内にもその眼を向けては如何なもんだろう。党内権力者の恣意性を御用化するような法学者の精神は、官僚機構の「法匪」以下の水準にあると思われる。このようなブレーンに国の運命を託したとしたらと思うとゾッとするのは私だけではなかろう。
党の規約における査問の根拠は次のように定められている。党規約第59条は、党員でありながら党をあざむきこれを破壊しようと規律に違反した者が出てきた場合に、組織を守るために、党はその者を「処分」することができると定められている。そして同条第二項は「規律違反について調査審議中のものは---党員の権利を必要な範囲で制限することができる」とある。査問とはこの「調査審議」のことであるとされている。「正式に査問の意味内容を説明するのは、この四文字だけである」(「査問」前書き)ということのようで、正式用語はあくまで「調査審議」であり、査問という用語自体は党規約、党文書のどこにも載っていないという代物であるらしい。ところが、党内では、早くも戦前の党活動において宮本氏が中央委員に昇格した頃よりしばしば査問が行なわれてきているという事実がある。その実態は、紳士的で、“同志的”な「調査審議」どころではなく、憎悪の掻き立てられた「反党分子、階級敵への調査問責」であり、それは、警察による「犯罪者の取り調べ、尋問」と同じ内容、雰囲気を持っているというところに特徴がある。
以下、査問がどのような容疑を対象にし、どのような形態で行なわれるかを考えてみることにする。新日和見主義事件に先行して宮地氏の査問の様子が自身によって公開されている。 宮地氏らに対する査問とは、党勢拡大責任の極度な一面的追及、党内民主主義を踏みにじる指導を見せていた箕浦一三准中央委員・県副委員長・地区委員長等への1カ月間にわたる地区党内あげての批判運動が逆に切り返され、追及者等が“分派・グループ活動”と認定され処分された事件であった。新日和見主義事件の5年前の1967年5月頃のことで『愛知県5月問題』と言われている。この分派、グループ活動容疑では、数十名が査問され、そのうち宮地氏等十数名が“監禁”査問された。宮地氏は、地区常任委員としてその“分派・グループ的批判活動の首謀者”と見なされ、21日間にわたって“監禁”査問されたと公表している。宮地氏は、この時の体験を通じて、党の査問が現行市民社会のルールの水準以下の旧特高的やり方であり、「日本共産党に市民社会的常識の秩序の適応を求める法的手段を講じよう」として対共産党裁判を実際に起こしたという珍しい経歴を見せている。この裁判を通じて、黙秘権、弁護士的な第三者機関の立ち会い・連絡、反論権などが全く尊重されていない「疑わしきは、被告人に不利にする」査問の実体が暴露されている。「人民的議会主義」の裏面がこのようなものであるとしたら、かなりの大衆は卒倒してしまうであろう。
で、新日和見事件の場合、どのように査問が運営されたかを以下見ていくことにする。まず指摘しておきたいことは、「新日和見主義者」達の場合確定した反党活動があったのかというと共通して「何も無かった」という驚くべき事実が報告されている。査問側は査問を通じて必死で裏付けを取ろうとしたが、「組織された反党活動」は見いだされなかった。こうして証拠が出なかったところから、「星雲状態にあった」とか「双葉の芽のうちに摘んだ」とか恐るべき居直りで事後対応せざるをえないことになった。つまり、「新日和見主義者」達は「別件逮捕のようなもの」で査問され、にも関わらず本筋において容疑が確定しなかったという二重の大失態を見せたことになる。今日こういう失態を警察が演じたとしたら大問題にされるところである。巧妙なことは、査問された側に、党の側からの呼び出し状であるとか、処分決定の言い渡し状であるとかが一枚も残されていないことであり、ほとんどを電話とか口頭命令で出頭させていることである。つまり、本人が明らかにしない限り事態の表出が困難にされている。後で見るように本人には堅く箝口令が敷かれている。
驚くべき事はまだまだこれから明らかになる。川上氏・新保氏・油井氏の例しか伝えられていないのでこれを参照する。査問官は下司順吉・諏訪茂・宮本忠人・雪野勉・不破・上田・小林栄三・宇野三郎・今井伸英辺りが知れるところであるが、他の被処分者も含めてこの時の査問官リストを集計し、後世の記録として公開しておく必要があるのではなかろうか。拘束された被査問者たちに対する扱いは、近代刑事訴訟法上以下の非人道的取り扱いを受けていることが分かる。直接的な暴行が加えられなかったということは評価されるが、これは元々党員同志間のかつ容疑不分明な査問であるのだから当たり前であって、この状態で暴行が加えられるとしたら旧特高以上のやり方になってしまう。非人道的取り扱いぶりは、「君の党員権を今から停止する」の口上から始まり、該当の規約部分を告げながら問答無用式に「今から君を査問する。同意の誓約書を書け」というやり取りへと移る。この時査問理由の開示はない。理由の開示を求めると「分派活動の容疑」と知らされる。分派活動の認定基準を尋ねると、「ここはね、君のチャラチャラしたお喋りを聞く場ではないんだよ」と一喝される。押し問答の末査問に無理矢理同意させられると直ちに私物一切の提出を強要される。ペンも取り上げられることによりメモも取れ無くなり、頭脳の中に一切を記憶して行かねばならないことになった。査問期間中は、査問される者はいっさい外界との連絡は取れない。妻とも取れない。査問の期限は示されない。査問に協力すれば早く終わると「自白」が強要される。
被査問者に釈明権はない。黙秘権もない。党規約の実行という大義のもとで、容易に人権を蹂躙していく党体質が、ここに鮮明に浮かび上がってくる。「党の決定に反対するような民青なんかいらねえんだよ。上意下達で黙ってろ」、「やったか、やらなかったのか、質問に答えればいいんだ」ということになる。調査問責は分派容疑の解明から始められたようであるが、茶のみ話のようなものに分派の嫌疑が掛けられる。ここで驚くべき事が発言されている。「共産党の分派に対する態度は、疑わしきは罰するということだ」と放言されていたとのことである。これは近代刑事裁判の大原則「疑わしきは被告人に『有利』に処遇する」の正反対の論理であり、「疑わしきは被告人に『不利』に処遇する」という恐怖政治の論理が貫徹されていた。査問官諏訪茂書記局員は、宮本氏の秘書もやった若手党官僚であり宮本氏の薫陶を受けている筈であるが、その薫陶の結果がこういう有様だということを真剣に考えてみる必要があるのではなかろうか。他にも宮本氏秘書出身の党官僚が多くいる筈であるが、この際連中のリストとその薫陶ぶりを一挙に露出させてみたら如何だろう。恐らく愕然とするような事実が目白押しではないかと私は推測する。
査問官諏訪氏は、「自分が納得する供述書を書かせることに執着」し、気にくわなければ何度でも書き直しを命じたとのことである。査問を通じて、会議打ち上げ懇親会のようなものを分派会議と認定したが、この時「分派というのは意識してやったかどうかというもんじゃないんだよ、意識しなくても分派は成立するんだよ」という放言がなされたようである。この論理でいくと、「連絡や打ち合わせはすべて無届けで行なわれるが、この種のものに組織原則を適用すれば、際限なく広がってしまう。世間ではこの種の集まりを慰労会とか、懇親会とか、あるいは単にコンパという。だが、党中央は党と民青に隠れて組織の指導権を握ろうとする分派の密事と見た。組織路線に不一致のある場合ならともかく、課題遂行上の問題は積極的に解決すべきだろう」(「汚名」117P)が、予断を持って臨む査問官には通じない。つまり滅茶苦茶であるが、個人間の話にまで責任を負わしめることになれば党員同志の会話もままならぬことになり、こうなるといかようにも分派認定しうる恐怖政治が待ち受けていることになるであろう。これに報告制度の厳格化を加えれば密告制度を発達させることにもなる。実際にはそれほど心配はない。問題は、党中央に対する造反的な言辞をなす場合に限って厳しく適用される訳だから、イエスマンにとっては別段の脅威にはならないということだ。しかしイエスマンばかりによる党活動というのも変な気がする。
ちなみに、川上氏の分派容疑は、新保氏との「二人分派」と認定されたようである。「この『二人分派』は党内民主主義がないと言っては党を中傷し、党の掲げる方針である『人民的議会主義』に対して大衆闘争を機械的に対置して党の路線に反対したのだ」と認定された。この「二人分派」規定はかの特高さえなしえなかった論理である。「二人分派」の認定が一人歩きすれば、党員同士の会話さえ危ないということになる。補足すれば、ある市会議員同士が懇親会を用意したところ、共産党議員は参加するしないをめぐっていちいち党機関にお伺いを要するということで馬鹿にされている話を聞いたことがある。茶飲み話の席ではあったが、「あの連中は人種が違う」というオチを皆肯いて聞いていた。こういう「二人分派」の認定とか統制的組織論の然らしめる密告制度の一人歩きを考えれば、そうせざるをえないと言うことなのだろうか。しかしあまりにもサブい話だ。
党規約は誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁であると定めているので、幹部批判を行なえば、党規違反の責めを受ける危険性もある。ここにも閉鎖的体質を助長する要素がある。同志売りの強要も行なわれ、被査問者の供述書がリアルタイムで攪乱に使われたようである。「全部吐けよ、吐きゃあ気も楽になるし、家にも早く帰れるのにな」はまだしも、「どうしても吐かないっていうんだな。こっちは査問いつ打ち切ってもいいんだぜ。そのかわりにな、お前、新保という人間をな、党内はもちろんのこと、社会的にも抹殺してやる。断固、糾弾していくんだぜ。」、「お前、子供が居るな。民主連合政府になってな、親父は反党反革命分子だということになったら、子供はどうなるんだ。子供の将来のことも考えろよ。おい、吐けよ」、「君らのことを公開すれば道を歩けないぞ。今住んでるところに住めないぞ」となると、これは特高の論理とうり二つではないのか。どうも宮本氏の薫陶宜しきを得た連中の物言いは揃いも揃って品がない気がする。
除名の脅しも効いたようである。「除名は日本共産党の最も重い処分である。それは運動からの永遠の追放を意味する。被除名者は裏切り者、トロッキスト、修正主義者、外国の盲従分子、敵のまわし者、挑発者、スパイなどと呼ばれた。彼らが行動を開始すれば、たちまち民主的統一戦線の破壊者・挑発者として徹底的に糾弾された。『反党分子』にされ、歴史の彼方に葬り去られる」(「査問」95P)。
油井氏の査問経過は次のように明かされている。査問は4日続いた。他の被査問者と同じく、残された道は、査問者の望むような自白をすることだけだった。こうして、査問者の描いたとおりの自白と自己批判書がつくられていった。「彼らはよってたかって六中総に反対したことを強要した。私は、査問がふりだしに戻ることを恐れた。また、査問官の心証を悪くすることを恐れた。次第に、この際、査問官のいうとおりに従った方が無難である、と考えるようになっていった。そして、無実の殺人犯[正しくは『容疑者』]が犯行を供述する心理状態をはじめて知った。その場の苦しさからの解放と逃避のため、一時的安楽に妥協することは、ある特殊な条件のもとではいとも容易であった」(「汚名」142P)。相手は、自らのすべての信頼と実存をあずけている党自身だった。「私はいかなる情況のもとでも敵のテロや弾圧に屈服してはならない、ということを党から学んだ。日本共産党の歴史はそのような英雄的先達者によって築かれている。党が誇り、人々から尊敬されるゆえんもここにある。しかし、この理屈は階級敵のとり調べのときに光り輝くものであっても、共産党の査問部屋で通用するものではなかった。味方と命を賭けて闘うことなど、どうしてできよう」(「汚名」43P)。スターリンの拷問部屋で、ボリシェヴィキの歴戦の勇士が次々と、自分がファシストの手先であることを告白していったのと同じ過程が、より平和的かつ小規模な形で繰り返されたのである。油井氏は4日目にようやく解放された。その後彼を待っていたのは処分だった。被査問者たちが処分を言い渡されたのは、民青本部だった。こうして、油井氏は、青春のすべてを捧げた民青同盟から永遠に追放された。専従であった彼は、他のすべての被処分者と同じく、同時に生活の糧をも失ったのである。
川上氏の査問解除経過は次のようなものであったようである。川上氏がすでに10日以上も監禁状態で査問を受けているだけでなく、川上夫人までが党本部に呼び出されたという時点で、川上氏の両親が心配し、あまりにも「世間の常識」に反し「横柄」であると怒り、父親が日本共産党の本部へ電話し、息子の留置を止めなければ人権擁護委員会に提訴すると通告し、その結果川上氏の監禁状態が解かれたというのが真相とのことである。党活動が「人権擁護委員会」から掣肘されるなどという本来ありうべからざる事態が起こったということになる。この場合、この事件が党中央の行為であることを考えると事は異常に過ぎるという思いを持つのは私だけだろうか。
被査問者には一様に査問後丁重に釘が差されたようである。「他との連絡・接触を禁止する旨、厳重に言い渡した。査問を受けた者は情報を他に与えてはならない」とされ、「うっかり話もできない。何処で誤解され、密告されるかわからない」という疑心暗鬼に陥った。被査問者は一様に査問後遺症とも言うべき「心の傷」を負って家路についた。川上氏は、この時の体験を、事件から25年経過して「アノ世界からあれほどコケにされた体験」とみなすことができるようになったとのことである。「私も含めてわが友人達は、かくも長き期間、なぜ手を切らなかったのだろうか」と自問しているが、今はやりの言葉で言えばマインドコントロールの世界に陥ったとき自縛の縄をほどくのはそれほど難しいと言うことであろう。
この査問について、『さざ波通信』は次のようにみなしている。
「『査問』が出版されたとき、『赤旗』は党活動欄という目立たないところで、その著作に対する批判を試みた。しかし、その批判は、彼らが実際に分派であったことを力説するのみで、査問の実態についていかなる反論も試みていない。苛酷で非人間的な査問の実態については、反論のしようもなかったのである。たとえ、査問が形式的に本人の同意を得たものであっても、十数日間にわたって監禁することは絶対に許されないし、また今回のように重病人を病院から呼び出して4日間も監禁することは、基本的人権を正面から蹂躙する蛮行以外の何ものでもない。党中央が錦の御旗とする『結社の自由』論によっては、けっしてこれらの行為が正当化されないことは、今さら言うまでもない(この問題については、いずれ詳しく論じるつもりである)。今回の『汚名』について、党中央は何か反応を見せるだろうか? おそらく完全に無視するだろう。宮本時代が、批判者に対する徹底した反論と糾弾を基調としていたとすれば、不破時代は、都合の悪い問題に対する沈黙と無視を基調としている。われわれの『さざ波通信』と同様、『汚名』もまた無視されるだろう。不破委員長は、このような問題があたかも存在していないかのごとく、ふるまい続けるだろう。だが、事実は事実であり、歴史をなきものにすることはできない。新日和見主義事件を見直す特別の調査委員会を中央委員会に設置し、改めて関係者から事情を聞き、事実関係を調査するべきである。そして、事件当時には知られていなかったスパイの役割についても改めて検討の対象に加えるべきである。そして、事実関係にもとづいて、あの事件が冤罪であったこと、処分が間違っていたことを率直に認め、すべての関係者の名誉回復を行なうべきである」(1999.7.6日S・T)。