川上氏は解放直後の実感として次のように述べている。概要「翌朝、私は初めて査問部屋から解放された。……茨木良和と今井伸英が入ってきた。今井が、『川上君、君、どっか籠るようなところない?ホラ、別荘とか』、『君、君が消えてくれるのがいちばんいいんだけどな。ネ、茨木さん、ネ』。私は後年、何度か、今井が何気なく吐いたこのときのことばを思い出し、もし日本がソ連・東欧型の社会主義国になっていたとしたら、間違いなく自分は銃殺刑に処せられていただろうと思った」(「査問」109P)とある。同じ気持ちを高野氏も伝えている。1998年5月号「諸君」の「『日共』の宿痾としての『査問』体質」紙上で、「それで僕は査問第一日目の結論として、この党にだけは権力取らせちゃいけないと思った。スターリン粛清とか、いままでさんざん言われてたのと同じことが日本共産党でもやっぱり起こると思った。まだいまは党内権力だから、このくらいですむけれども、これが国家権力だったら殺されてる」と述べている。
こうした受け止め方に関する考察は重要であると思われる。川上氏と高野氏の実感に拠れば、「日本共産党に天下を取らせてはいけない、大変なことになる」という思いにとらわれたということである。マルクス主義を擁護せんとする見地からすれば、これは困った結論である。こうした思いを反「党中央」的に了解するのならともかくも、汎反共的了解の世界に沈潜させていくことになるとしたら大きな損失のように思われる。党的運動の責任の重さを考えさせられる。私には、胡散臭い宮本系執行部をこれ以上存続させることによって、宮本系執行部的党活動を党運動そのものの宿阿として誤認させることを通じて、日一歩反共主義者を拡大再生産させてしまうことになるのを心配する。私の感性は、現行の宮本系執行部的党活動はあくまで宮本系のそれであり、徳田系であればそれなりの、志賀系であればまたそれなりの、他の誰それ系であればそれなりの党活動になるのではないかと睨んでいる。わが国の民衆的運動にどういう執行部が望ましいのか引き続き課題として見つめていきたいと思っている。だから、私はあきらめない。
私は次のように思う。左翼運動史上の無数無限の否定的事象の出来にも関わらず、我々は容易に反共主義者になる前に、以下の三つの面からの考察をなしておくべきではなかろうか。その一つは、「査問・粛清」が共産主義イデオロギーに潜む不可避なものであるのかどうかということ。一つは、共産主義運動から「査問・粛清」体質を除去することが可能として、必要悪最小限の適用基準の確立が可能なのかどうかということ。一つは、宮本体制の「好査問・好粛清」性に対してどう対処すべきかということ。こうした観点からの考察は早かれ遅かれ避けて通る訳にはいかない。新日和見主義事件はその格好の教材ではないかと思われる。
「査問・粛清」が共産主義イデオロギーに潜む不可避なものであるのかということについては、次のように考えられる。「査問・粛清」は、「暗殺・毒殺」同様に何も左翼運動に限って発生する訳ではない。歴史の中からこれらの事例を拾い出すことは造作もないことを思えば、組織の指導権争いに絡んだ権力闘争一般につきものとみなすことが出来、今後ともこの種の係争には事欠かないものと思われる。問題は、共産主義運動との密接関連性としてどうなのかということになろう。このテーマに対して解析を挑むには私の知識と能力が足りないことと、本投稿のテーマから離れてしまうのでまたの機会とする。ただし、こうは言える。スターリンによる党内粛清・党外弾圧事件(このところレーニンにその起源を求めようとする解明がなされつつあるが)のみならず、共産主義運動の有るところ皆この問題にまといつかれてきたことを思えば、我々の運動は、いくら運動の歴史的正当性を説いたところで、本当のところここの問題を正面から受けとめ有効な解決策を獲得しない限りにっちもさっちも進まないと考えるべきであろう。特に私のように主流派に与しにくい不従順性格を持つ者にとっては、この問題の解明を避けたまま党的運動に身を委ねるとかこれを支援することは自分で自分の首を絞める技になりかねない。
共産主義運動から「査問・粛清」体質を除去することが可能として、必要悪最小限の適用基準の確立が可能なのかどうかについては、次のように考えられる。この問題は、小手先の技術的な湖塗策で解決しうるものではなく、党的運動・組織論の「総体」の見直しを通してからしか処方され得ないのではなかろうか。あるいはもっと深くマルクス主義の認識論における「真理」観に関係しているようにも思われる。元々マルクスの功績は、唯物論的弁証法-史的唯物論の発見ないし確立にあったと思われるが、元祖マルクス・エンゲルスの指導能力をもってしてさえ、これを党的運動として推進する段になるやたちまち異見・異論との齟齬をきたすこととなったというのが史実である。それほどに実践運動は難しいというのが実際であるが、その後マルクス主義の正統の継承者を自認するレーニン等によって、資本主義体制下のもっとも弱い環としてのロシアに於いてマルクス主義のイデーが結実していくことになった。ただし、世界を震撼させたロシア十月革命は揺り戻しも大きかった。この過程で、ボルシェヴィキの、その最高指導者であったレーニンの強力独裁指導を生み出すこととなった。こうしてマルクス主義運動は、一個人が獲得したマルクス主義的見地の「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に服従する党的運動に席巻されてしまうことになった。歴史の実際の局面がそういう独裁指導を必要とし、その方が緊急事態対応型の危機管理能力形成に適切であったという面があったとは思うが、この時この独裁体制をして時限的暫定的措置としてのタガを填めることが出来なかった。これを私はレーニン主義に胚胎していた人治主義的傾向とみなしているが、レーニンがこの誤りに気づいた時には、既にモンスター的スターリン権力確立の前夜となっていた。歴史に後戻りは効かない。恐るべき事態を憂慮しつつレーニンはこの世を去っていくことになった。
私はこの間の闘争を指導したレーニンの偉業をおとし込めようとは思わないが、今日レーニン直の指導による誤りが次から次へと解明されつつある。つまりレーニン主義の「負の遺産」が明らかにされつつある。私は、この時のボタンの掛け違いが、その後のソ連邦の発展と消滅をプログラムしたと考えている。レーニンの後を継承したスターリン権力の功罪は知られているので割愛するが、今日では当人達の主観に関わらずマルクス主義のイデーから大きく逸脱した党的運動であり、新官僚国家形成運動であったとみなすことが常識である。その後ソ連邦は「スターリン批判」を通じて集団指導体制に移行しようとしたが、根本的な「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に対して理論的な切開と打開をなしえる能力を持ち得なかった。つまり、「スターリン批判」は人治主義的傾向に対しての対症療法的なものでしかなく、マルクス主義的運動に発生した「負の遺産」を断ち切ることが出来なかったように思われる。その原因は、資本主義体制下の権力者であれ「社会主義体制」下の権力者であれ、権力の密の味をしめた指導者ないしその官僚機構は道理を説いたぐらいでは容易には権限を手放さないということであろうと思われる。
私は、「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に道を拓いた党的運動・組織論に対する徹底見直しこそが究極「査問・粛清」体質を除去させ、必要悪最小限の適用基準の確立を可能にせしめると思う。これを具体的に言えば、「絶対基準押しつけ」の対極に位置する「総党員参加型の民主主義の効用」を目を洗って再評価すべきではないかと考える。「民主主義」を空疎空論でブルジョア的だとかプロレタリア的だとかの言辞で弄ばず、なおかつ形式主義に委ねず、「実質的な集団討議的手続きと制度と機構」の確立に向けて党的運動・組織論の変革を勝ち取るべきではないかということになる。充分には出来ないにせよ、まずは我が身内たる党内に於いて実践的に獲得したものを社会一般に押し進めるべきではなかろうかということになる。
この背景の思想としては次のような簡明なものを措定したい。その①.みんな寿命に限りがある神ならぬ身の存在であり、能動寿命は「たかが、されど人生50年」であることを認識し、人生の有限的関わりで社会貢献を志向すること。その②.その命に限りある者が「ぼちぼちでんな」の精神で能力・環境に応じて統一戦線的に欠けたる所を互いに補う気持ちで精を出すこと。その③.党的運動・組織論において絶対真理的教条ないしは権威主義の押しつけを排し、所定ルールに基づき大衆的討議を獲得しつつ「いろいろやってみなはれ」的集団指導体制に向かうこと。その④.反対派の生息を認めた上で、執行部に指導権限を与えること。ただし、執行部の責任基準を定め、定期的に総党員選挙によって信任を問うこと。緊急事態対応については時限化させること。その⑤.このような党的運動・組織論の実践過程に於いてのみ規約とか服務規律の重要性を認め、執行部にこの脈絡抜きに規約とか服務規律を振り回させないこと。
宮本体制の「好査問・好粛清」性に対してどう対処すべきかということについては、次のように考えられる。私は、宮本氏の人となりについて直接面識はない。党史を通じて理解するばかりであるが、凡そ共産主義的運動の指導者としては似つかわしくないことを確信している。しかしその宮本氏も高齢であり、今更氏に対してむち打つ気にもなれない。問題は、後継者不破-志位指導部の評価である。この執行部も不破氏から数えれば既に30年の歳月を経ている。人民的議会主義に基づいて民主連合政府の樹立を提唱し颯爽と登場した70年頃から党運動が一歩でも二歩でも前進しているというのならまだしも、昨今の現状は明らかに後退局面にあるのではないかと私は考えている。その根拠の一つは、社会全体からの左派意識者の減少である。最近書店周りで気づいたことは、かってなら存在していた左派思想・運動関係の書棚が消え去っていることがこれを追認していると思われる。こうした傾向は、党運動百年の計から見て左派土壌の枯れを意味する。土壌が枯れたところには花は開かない。お百姓さんでなくても誰でも知っていることだ。
現下の議会闘争の局面は、審議拒否戦術で自・自・公政権に対決しているが、それならそれでかっての社会党の審議拒否戦術を嘲笑していたことに反省の弁を添えておくべきであろう。私は可能性はともかく現実性が無いと思っているが、よしんば党代表が大臣席の一つにありついたとしても、連合政権維持のためなし崩しの妥協しか待ち受けていないという構図が予想される。細川政権以降橋本政権に至るまでの過程において、旧社会党・さきがけ・江田グループがその事例となっている。不破-志位指導部は、こうした事例に対する理論的研究を獲得しつつ党員に針路を示さないので党員は困惑させられているのではないのか。かの諸党のようにはならないという証文を一筆書き付け、これに執行部の責任を託すということをしないから、万事にそういう「体を張る」作風が無いから延々と30年も座椅子にぬくもってしまうことになる。30年も(宮本氏から数えれば50年も)党最高指導者として留まること自体を自他共にオカシイと考えるべきではないのか。おのれの好みと器量に似せて党をリードすることは党の私物化でしかないのではないのか、とさえ勘ぐってしまう。もっとも、党内から特段の批判が挙がらないことを思えば、私がこういうことを言ってわざわざ皆様から憤激を買うこともないかとも思うがこれが私の性分だから仕方ない。
ただし、これだけははっきりしている。現下の党運動は、マルクス主義とは無縁の近世的ヒューマニズム運動の延長にあるものであって、この程度の運動で有れば何もマルクス主義の洗礼を通過する必要もなかったし、戦前の非合法下で党員はボルシェヴィキ的活動に殉じる必要もなかったのではないのか。私には草葉の陰から苦虫を噛みしめている祖霊が見える。当人がよく言っているように、いっそのこと「日本道理党」とでも改名して運動を押し進めるのであれば、私もこの党に対してこうも関心を持つこともなく、皆様から不興を買うこともない。お互いにその方が賢明なようにも思うのに。