この時新日和見主義者として処分された党員の数については、全国で600名とも1000名に及ぶとも云われている。党中央は未だに全貌を明らかにしていない。処分は1972年9月末の民青同第12回全国大会で承認された。民青同本部常駐中央常任委員だけでも15名中7名が処分されていた。処分は民青同だけにとどまらず、広谷俊二共産党中央委員や川端治、高野孟などの評論家にも及んでいた。全学連指導部の処分には向かわなかったようである。このことに関して、「党の影響下にあるとはいえ、全学連は大衆団体である。党の指導を公然と認めている民青とは根本的に違う。数十万の学生を擁する全学連が党の統制措置で混乱を来すとすれば、反党的学生運動の再来を招かないともかぎらない。かっての全学連や全自連指導部が党の処分で、逆に結束を固めたことも否めない事実だった。党中央はその経験から深謀遠慮の決定を下したものと思う」(「汚名」251P)とあるが、そうかも知れない。
「日本共産党の65年312P」は、「72年7月の第7回中央委員会総会、同年9月の第8回中央委員会総会は、新日和見主義、分派主義の問題を解明し、これとの闘争の重要性を強調した。党は、理論上、政治上、組織上の徹底した批判と闘争をおこない、『新日和見主義分派』を粉砕した。この闘争は、民青同盟が一時期の組織的停滞を克服し、新しい発展と高揚の方向をかちとるうえでも、重要な契機となった」と記している。この記述には二重の詐術がある。一つは、「この闘争は、民青同盟が一時期の組織的停滞を克服し」の詐術である。この時期民青同は、「一時期の組織的停滞」どころか反代々木セクトが退潮著しい中20万同盟員を擁して存在力を強めつつあった。嘘もいい加減にしないと閻魔様に舌を抜かれてしまうであろう。もう一つの詐術は、「新しい発展と高揚の方向をかちとるうえでも、重要な契機となった」である。既に説明不要であろうが、事実は民青同と全学連の組織的後退が始まる契機となった。現党中央の饒舌もほどほどにしないといけない。今では地区組織も廃止され、2万前後の同盟員に落ち込んでいるのではないのか。事件は「角を矯めて牛を殺す」結果になったのはないのか。私は、こういう詐術ががまんならない質であるが、党員の皆様は「何でもかんでも党中央の云うことはその通り」なのでしょうか。
これを「結局、党が民青をいじりすぎた」と理解するのは評論的好意的に過ぎよう。私は、企まれ仕組まれた事件であったと凝視している。ちなみに、『さざ波通信』では次のように否定的影響について明らかにしている。「この事件の後民青同盟は衰退の坂をころげ落ちていった。20万の隊列は今では10分の1に縮小している。共産党内部の20代党員の割合も、70年代初頭の50%から、現在の2~3%に激減した。他の国の共産党ないし後継政党と比べても、日本の党はとりわけ青年党員の比率が低いのではないだろうか。これは単に青年の保守化というだけでは説明できないだろう。新日和見主義事件が残した深刻な爪痕をそこに見出すことは十分可能である」(1999.7.6日.S・T)。正論と言うべきだろう。
処分された民青同中央・都道府県機関内共産党員等は、引き続き要注意人物として監視されていくことになった。私は党員でないので理解しにくいのだが、この状態に置かれた党員は、「『県直属点在党員』は、水平的・横断的交流全面禁止の民主集中制の下では、単独で、かつ垂直に、党中央に『意見書』を提出する権利以外はすべて剥奪されるという“党内独房”状態に強制的に収監されることになる」(宮地健一氏HP)とあることから推測すれば、「県直属点在党員」となって支部からも外され“格子なき党内独房”下に置かれるようである。“格子なき党内独房”について、宮地氏は自らの体験も踏まえて、特高の「予防拘禁式組織隔離」を真似したものではないかと言う。「そもそも、治安維持法なるものが、天皇制打倒、資本主義体制の暴力的転覆を目指す非合法暴力革命政党コミンテルン日本支部、日本共産党員、シンパの言動を封殺するための予防拘禁的な“格子ある牢獄”、独房隔離措置法律でした。その天皇制の組織隔離独房に、宮本氏12年、袴田氏10年、徳田・志賀氏らは18年収監されていました。宮本氏は、自分が体験した『格子ある治安維持法独房』の言動封殺手口を、今度は合法的革命政党・前衛党最高権力者として、党中央批判者を専従解任後も転籍させない『点在党員』措置という“格子なき牢獄”手法で逆用したのです」とみなしている。
宮地氏のこの指摘は的確と思うが、一つだけ同意できないことがある。宮本氏12年の獄中生活を徳田・志賀氏らのそれと同格にしていることを疑問としたい。先の連作投稿「その5.宮本の獄中闘争について」で明らかにしたように宮本氏のそれはいかにも胡散臭い。「獄中12年非転向タフガイ神話」はどこから生まれてきたのか不明であるが、真相は大きく違うのではないのか。戦後になってこの御仁から過去の転向を咎められて苦衷に陥った幹部党員がいるが、私に言わせればそのような必要なぞどこにも無いと思われる。考えてもみようではないか。今日戦前からの多重スパイであったと判明させられている野坂参三氏と長年のコンビを組み得た関係というのは、野坂氏一人をスパイ視するには不自然過ぎる史実ではないのか。史実を見れば、「六全協」後この二人が如何に呼吸を合わせて反対派を党外に追いやっていったかの事例ばかりが残されている。片やスパイ片や深紅の指導者の長年コンビなぞそう長く続き得るものだろうか。ましてや、野坂氏のスパイ性は党内の自助努力で判明させられたものではない。ソ連邦の崩壊に伴って機密漏洩した資料を党外の学者から動かぬ証拠として突きつけられて、弁明できなかった野坂氏が単に切り捨てられただけなのではないのか。私の手元の「日本共産党の65年」には、党内反対派を駆逐する過程での党中央代表として活躍する野坂氏の姿が随所に明らかにされているが、その時点で野坂氏がスパイであったとしたら、反対派はスパイによっていろんな理屈をつけられながら党外に放逐されたことになる。これほど具合が悪い史実がなぜ党内で議論沸騰しないのだろう。私にはワカラナイ。単に野坂氏を除名しただけで口を拭っていられるのであろうか。
スパイとして働く野坂氏の方がより巧妙だったという論が成り立つにしても、それはそれで長年連れ添った方の不明ぶりを露わにさせるだけではないのか。宮本氏をそうは愚頓扱いするのは適切ではないと思われるので、とすれば残された結論として根本的に氏をも疑惑してみる作業が残されているのではないのか。この作業は、氏の存命中にこそ意味を持つのでは無かろうか。指導者亡き後の指導者批判はいつでも誰でも出来る。亡き後の批判は左翼の病弊ではなかろうか。史上宮本氏は幹部も含めた幾多の同士を「調査問責」してきたが、「調査審議」されるべきは氏自身なのではないのか。人民大衆に責任を持つ運動というのは、人民的利益の前には何ものをも恐れない精神の発動からしか生まれない、と私は考える。
話を戻して、宮地氏によって“格子なき牢獄”の具体的な手法が明かにされているが長文化するので割愛する。「査問」・「汚名」では次のように明かされている。被査問者は罪の軽い重いによって次のように分類された。比較的重い「核」の連中は、川上・宗邦洋・本部役員池田と松木の4名であった。彼らは外界との一切の連絡を禁止され、自宅待機が命じられた。「誰とも連絡を取らず、何処へも出かけてはいけない」と言われ、いわば「座敷牢」に押し込められた。その次に重い者は、分派活動を直接担い率先助勢したグループであり、党本部の新保・党中央委員の広谷俊二ら約20名が該当した。ここまでを待機組という。待機組には、党が指定する文献(大会決定文書、宮本・不破等の論文)の自宅学習とその感想文の提出が義務化された。比較的軽い者は数十名で、釈放された翌日から民青本部への出勤が認められたので出勤組という。出勤組は、仕事には付けられず会館五階にあるホールで学習すること、その結果をノートに記し、党中央委員会に提出することが求められた。その過程で自己批判を一層深めることが要求された。彼らには「五階組」というアダ名がつけられ、要するに窓際族に追いやられた。「五階組」には単純作業が割り当てられ、小型版「収容所列島」の観があったと言う。治安維持法下の予防拘禁制度の真似のようなものであったとも言われている。なお、処分者は、自己批判の誠実度により、一年未満の党員権停止処分から除名処分の間をランク分けされたようである。彼らには「異常な」学習と労働が指示された。「異常な」とは、「新日和見主義粉砕」のポスター書とそれの事務所周辺貼りの強要がなされたことを言う。このエゲツナイ指示を与えて得々としていた者が後にスパイであったことが判明している。ならば、そのスパイを使っていた者、そのスパイを表彰した者の責任はなぜ追及されないのだろう。誰がそのスパイを重用していたのだという当たり前の関心が遮断されている。
こうして事件は封印させられてきていたにも関わらず、この時のことを川上氏は、事件後25年経過した1997年12月に自ら著書『査問』(川上徹.筑摩書房)で明らかにすることとなった。この川上氏の行為に対して、赤旗・菅原記者は言う。概要「今回出版された本は、このときの『新日和見主義』の分派活動について川上氏が党から調査をうけたことについて書いたものです。その大きな特徴は、川上氏が『分派活動を理由にしてやられた。だが、それは『別件逮捕』と同じようなものではなかったか』と書いているように、この本を読んだ人に“自分は不当な処分をうけた被害者だ、分派活動というような実体はなかった”という印象をあたえるところにある」、「川上氏の著作は、党のこうした配慮ある態度を悪用して、あたかも事件は『冤罪』であったかのようにいつわったものです。当時の関係者の氏名や調査の過程のやりとりなどをあれこれ書きながら、川上氏が実際にとった具体的な行動についてほとんどふれていないのは、それが党規律違反の分派活動であることがあまりにも明白だからです」、「こういう不誠実さは、組織人の立場以前に、責任ある文筆家としての資格とも両立しがたいものです。事実をいつわらず、自分の言葉と行動に責任を負うことは、文筆家の最低限の資格にかかわることだからです」と言う。
菅原記者ほどの提灯記事屋に「物書きとしての不誠実さ」をなじられたら立つ瀬もないが、世の中は往々にしてそういうところがある。先生先生と言われて善良ぽいことを言ってる者が裏で一番悪事を働いている例に似ている。それはともかく、菅原記者の物言いは、かの「査問事件」で居直った宮本氏とまるで同じ論法である。あの時も、「蘇生の為に努力したのは私と秋笹だけであり」、「蘇生しなかったのは小畑のせいである」という弁明を聞かされた。今また「これほど温情ある態度を党がとったのに、その党に背く行為をするとは何たることか」と叱責されてしまった。これは説教強盗の論理であり、二重三重の居直り論理であり、子供だましの物言いである。相手にすることさえ馬鹿馬鹿しい。
こうして、宮本・不破・側近グループらは、新日和見主義者達を電光石火の処分に付すことに成功した。新日和見主義者達は揃いも揃って全員が沈黙した。過去の58年時の「全学連代々木事件」(または「6.1日共本部占拠事件」)時の学生党員の反発に比して奇妙なほどに蟄居させられた新日和見主義者達が見えてくる。恐らく、昨日まで同じような論理で反トロ批判をなしていた民青同運動指導者としてのツケが自家撞着させたものと思われる。もう一つの理由として、こうした粛清にかけては宮本一派の手練れぶりが考えられる。この間の党運動の中で、宮本氏は、片腕として袴田氏をよごれ役とさせて一貫してこの種の闘いに興じて来た。戦前の「大泉・小畑粛清」を核とする一連の査問事件、戦後直後の逸見パージ、徳田執行部との抗争、伊藤律幽閉、「社会主義革命論」者粛清、「構造改革論」者粛清、ソ連派粛清、中国派粛清、「新日本文学」関係者粛清、原水協吉田グループ粛清、袴田自身の切り捨て、野坂の尻尾切り、92年における「ネオ・マル粛清」等々において、他の常任幹部会員・幹部会員・中央委員らにたいして幾度も幾度もやってきた手練れである。宮本一派の特徴は、対権力闘争となると二段階革命論から民主連合政府、当面の要求一致統一戦線へと際限のない右傾化とよりソフトな幅広の「反対」スローガンへと戦術ダウンしていくのに対し、党内闘争においては断固毅然とした容赦のない排除を遂行し、その文句も激烈なる「粉砕・糾弾」となる。私には滑稽であるが、他のどなたからもこうした不自然さが指摘されないのはどうしたことだろう。