さて、ここまで新日和見主義事件を見てきたが、私の観点に拠らずとも次の程度まで総括することはごく自然であるように思われる。「処分された青年党員たちは、基本的に中央に忠実であったとはいえ、多少なりとも自主的に物事を考え、自らの創意と工夫で大衆運動を積極的に切り開く志向が強かった。それゆえ、彼らは、党幹部たちから不信の目で見られたのである。彼らが一掃されたことによって、もはや民青の上級幹部に、自主的に物事を考えることのできる活動家はほとんどいなくなった。民青は、二度と回復しえない大打撃を受けた。そして、これらの血気盛んな青年党員たちによって支えられていた共産党自身も深刻な打撃を受けた。宮本顕治を筆頭とする当時の党幹部たちは、運動の利益よりも、そして党自身の利益よりも、幹部としての自らの個人的利害を優先させたのである」。私は、共産主義運動内に「幹部としての自らの個人的利害を優先」させる作法が発生することなぞ原義に基づいて信じられない思いがするが、これが歴史の実際であり自他共に戒めるべき且つ何らかの制度的措置を講じる必要があることのように思われる。
いよいよ新日和見主義事件に暗躍した公安スパイの考察に入る。事件から2年後の1974年、前民青同中央常任委員であり大阪府委員長であった「北島」(K)が公安警察のスパイとして摘発された。「北島」の事件渦中の動きの詳細は伝えられていないが、事件後の被査問者に新日和見主義粉砕のステッカーを書かせ、それを民青同事務所の周辺に貼らせる指示さえなす等大阪府委員会における異常な学習と労働の先頭で立ち働き、その後党本部勤務となり要職に着いていたという人物であった。この経過は、党中央と「北島」の利害が一致していたことの例証であると思われる。こうした人物が「党本部勤務となり要職に登用」されることがままあるにしても、新日和見主義者排斥の強権発動ぶりと比較してみていかにもずさんなという思いが禁じえない。
続いて、翌75年、現職の民青同愛知県委員長らもスパイであることが発覚した。ところが、現職委員長のスパイの親玉は前民青同愛知県委員長「N」であることが判った。ということは、委員長職がスパイからスパイへと回されていることになる。こういう事態をどう了解すべきだろう。この「N」と言えば委員長在職時代に、新日和見主義者を処分した民青同第12回全国大会で、最高の栄誉「解放旗」を授与され、当然「N」の模範的活動家ぶりが評価されたという人物であった。この経過もまた、党中央と「N」の利害が一致していたことの例証であると思われる。物事には過ちがつきものとしてこうした人物に「解放旗」が授与されることが許容されたとしても、新日和見主義者排斥の強権発動ぶりと比較してみていかにもずさんなというか、摘発方向が反対ではないかという思いが禁じえない。
K、Nの二人について油井氏は次のように述べている。「私は、KとNの摘発記事が『赤旗』に写真つきで載ったとき、強い衝撃をうけた。私たちを処分した主要幹部だったからである。彼らは新日和見主義糾弾で大いに活躍した。KやNは、陰に陽に教育・学習と闘争、拡大と闘争の関係など、民青中央委員会の議論を巧妙にあおってきた人物だった」(「汚名」247P)。こうしたことから「当時の民青中央委員会に、中央常任委員を含む複数の中央委員が公安警察のスパイとして潜伏し、同事件を挑発した形跡がみられる」と結論づけられることになる。私は、これまで述べたことから明らかなように単に公安の暗躍により新日和見事件が起こされたなどとは考えない。公安にしても「K・N」は表沙汰にされた一部でしかないのではないのかと考えている。新日和見事件は党中央と公安とが内通しつつ押し進めた党内清掃事業であったのではないのかと考えている。「K・N」の存在漏洩はその証の一部であったのではないかと考えている。こうして、新日和見主義事件は、民青同幹部にいた最もすぐれた活動家たちを根こそぎ一掃することで公安と党中央の目的を成功させた。もし、この見方が間違っているというのなら、「K・N」摘発後における党中央の俊敏な、事件そのものの見直し作業が自主的に開始されていてしかるべきであろう。
事件から15年後の1987年4月上旬、なつかしさのこみ上げてきた元民青同中央常任委員・小山晃は、同事件の被処分者にあて、「5.30日15年ぶりの会」と銘打って再会の呼びかけを発した。この動きは、手紙を受けた者の一人が「おおそれながら」と訴えでたことにより、党中央に知られるところとなった。党中央は直ちに全国的な調査を開始した。「とにかく党員は『会』に行くべきでないというのが党の見解です」と言いながら、党中央は何とかして会を中止させようと介入した。説得と指導を受けた小山は、「誰かの指示かだと? どうしてあんたがたはそう言う風にしか人間を考えられないのか。自分の書いた手紙の通り、かっての友人達と15年ぶりの再開を果たしたいのだ、それ以上でも以下でもない」と言い切り、離党届で始末を付けることを決意させた。
当日、党の妨害を乗り越えて「15年ぶりの会」が開催された。党中央は、この会を認めず、会終了後判明した参加者に対して、下部組織を使って「参加者の氏名や会の模様を文書で報告せよ、党事務所に出頭せよ」などと執拗に要求してきた。それは不参加者や元中央委員でない者にまで及んだ。追求はこの年いっぱい続いた。ここまで至ってさすがに嫌気の世界を誘発させたようである。新日和見主義者達は、これまで「党の内部問題は、党内で解決し、党外に持ち出してはならない」という規約に従ってきた。被処分者の側から反論文書が公表されることもなく、「党員は出版などの方法で党と異なる見解を公表できない。もし、それを行えば規律違反で処分される」ことを恐れて「羊たちの沈黙」を守ってきた。しかし、党中央は、処分した側に警察のスパイがいたという諸事実が判明したにも関わらず事件見直しに着手することも無かった。「新日和見主義者」達は、この間主体的に自ら等が手塩で育てきた民青同の瓦解的現象にも横目で見過ごすことしか出来なかった。党中央の動きは、様々なデータから見てもあの頃より前進どころか後退しているようにしか見えてこない。
こうしたことが重なってきた結果、「振り返ってみて査問のやり方が気にくわない」という憤然とした気持ちが抑えられなくなった川上徹氏は、「新日和見主義」と称せられる「事件」がおきてから25年になろうとした頃、「私の中でようやく歴史となった」事件として、『査問』を世に問うことを決意したようである。この挙に対して、党中央は、「こういう不誠実さは、組織人の立場以前に、責任ある文筆家としての資格とも両立しがたいものです。事実をいつわらず、自分の言葉と行動に責任を負うことは、文筆家の最低限の資格にかかわることだからです」と叱責するが、ものは言いようでどうにでも言いなしえるのだなぁと深く嘆息させられてしまう。しかし、世の中には次のような見方をする人も居られるから捨てたものでもない。「フェイド・アウト手法によって構成される日本共産党の歴史の虚構を崩すことに社会運動史研究の課題があると自覚している私にとっては、今回の川上さんの著作『査問』の公刊は、戦後日本共産党史におけるブラック・ボックスの一点となっていた1972年の『新日和見主義』問題について、ようやく、その核心に触れ全貌を窺わせる証言がなされることであり、諸手を挙げて歓
迎できる快挙でした」。