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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

戦後日本の市民社会の形成と「真実と和解」

2001/6/22 桜坂 智史、50代

 私は国忠崇史氏が、この「さざ波通信」で提案した「真実と和解委員会」構想に共鳴を感じた。それを受けてJCPウオッチで、「真実と和解委員会の思想」というツリーをたてた。多くのかたからのご教示を受けてゆくうちに、或る仮設を抱いた。
 それは1972年前後の新日和見主義事件も1984年の原水爆禁止運動統一にかかわっての原水協事件の原因である。
 結論をさきに言えば、戦後日本は1968年ごろを画期として新たな歴史的段階にはいり、その社会構成体の変化は同時に市民社会とよばれる概念でいう市民を形成する時期を迎えていたのではあるまいか。
 1968年はユーロコミュニズムのフランスでもパリ5月革命を迎えていた。日本では、戦後民主主義をまもれという声と戦後民主主義虚妄論とがあいなかばしていた。
 私見によれば、戦後民主主義はこの時期を境目に段階を異にしていったと考える。その根拠は紙幅に限りあるので詳細に論じられないが、簡単に言えば、憲法をたえず制限する日米安保条約が国際情勢のなかで、憲法を超える位置を実質的に獲得していったことと、民主主義の基盤としての社会状態の大きな変質である。
 そして同時に日本社会は市民というにふさわしい実体を培いはじめた。その例として、芝田進午氏がプルードン主義と批判した羽仁五郎氏の『都市の論理』のベストセラー化やあいつぐ市民運動の多様化が挙げられる。
 市民や大衆の概念は戦後のまもなくから論じられてきた。大衆社会論争も1950年代には活発に繰り広げられた。だが日本にそのような市民や大衆が登場したのは、論争よりもずっとあとである。
 日本にめばえた市民の意識が、近代民主主義を母胎とする人権と自由、平等と友愛の意識であることから、それらは共産党員にも影響を与えていった。
 新日和見主義事件も原水協事件も、その頃から相次ぐ人権思想で彩られた市民思想を背景としている。
 それがロシアマルクス主義的なレーニン型の共産党の大衆運動論、統一戦線論、組織論と相対立するようになったのは或る意味で歴史的必然性を帯びていた。
 国忠崇史氏が説く「真実と和解委員会」の形態と思想とが日本に根付くためにも、日本共産党が市民社会と社会主義の論理を十分に理解する必要がある。
 市民的形態としての無党派運動や勝手連スタイルを正確に把握して「共闘」を組むためにも、市民や大衆を創出している現在の日本社会を的確に把握することだ。
 「現在」の大衆を理解しようとした寅さん映画に文化を探った哲学者の嶋田豊氏。政治的自由主義者で非マルクス的観点から『柔らかな個人主義の誕生』を探った山崎正和氏。
 まったく別なとこころから、見えないものを見る視点がやってくるやも知れぬ。
 まだまだ「真実と和解」は程遠い。しかしそれを願い、運動している数多くの集団的主体や自立的個性がねづいていく限りは、その可能性は地平線上のかなたに実在するだろう。