投稿する トップページ ヘルプ

「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

「さざ波」27号を批判する

2001/8/18 岩本兼雄

 さざ波編集部は編集部論文「民族主義的自画自賛に終始した共産党史論ー党創立80周年の不破演説批判ー」を掲載しているが、そのはじめの部分「1、民族主義的従属国規定を純化した不破演説」は、論旨が支離滅裂で、悲憤慷慨ばかりが目につく。貴サイトのために残念なことである。以下、支離滅裂な部分を指摘しよう。

1、「転落」論議について
 不破演説「日本が20世紀に経験した、もう一つの重大な転換は、大戦後、アメリカの事実上の従属国という立場に、転落したことであります。」という言葉を引用し、貴紙は次のようにいう。

「従属国への転落」とは、それ以前は立派な独立国だったのに、哀れな従属国に転落したということを示唆している。不破氏の価値観においては、「独立した」侵略的帝国主義国であることと、従属した「非帝国主義国」であることとでは、後者よりも前者の方が劣るものらしい。この民族主義的口吻は、その数行先でさらにエスカレートしている。

 ここで貴紙が言いたいのは、不破氏が「転落」という言葉を用いているのは、氏の民族主義的な感覚の表現だということであろうが、私に言わせれば、このような批判は批判ではなくあげ足取りにすぎない。なぜなら、戦前の独立国が戦後従属国になったことを「転落」と表現しようが「陥った」と表現しようが、いっこうにかまわないことだからである。単に「なった」というように表現するよりもむしろ適切な表現ですらある。いずれにしても、この程度の議論にしかならない問題である。
 また、「後者よりも前者の方が劣るものらしい。」という貴紙の文章を見てもらいたい。貴紙の反民族主義的感覚(?)からすれば逆のことが言いたいのではないのか? 不破氏は従属した非帝国主義国より独立した侵略的帝国主義国のほうがいいらしい、と言いたいのではないのか? そうでなければ、「転落」という表現に食ってかかる論旨がとおるまい。しかし、このように訂正したところで、それが不破氏への批判になるのか? 大事なことはここである。不破氏が独立した侵略的帝国主義国に戻りたいなどと言っているわけではないのである。訂正しなければ論旨不明、訂正すれば誹謗中傷ということにならざるをえない。

2、悲憤慷慨は批判の論拠にはならない
 次に、不破氏が「だいたい、日本が外国にたいする従属国家になるというのは、日本の歴史のなかでかつてなかった事態であります。日本が文書によって歴史をもつようになってから約1300年たっていますが、外国の従属国になるなどは、この間に一度もなかったことです。」というと、貴紙は次のように言う。

1300年の歴史においてただの一度もなかったこと! 民族主義的憤怒に駆られた不破氏は声を張り上げる。いったいこれは、右翼民族主義者の発言なのか、それとも云々

 これは批判であろうか? 
 貴紙がいいたいことは、自国の従属ばかりいい、侵略した事実にふれないのはけしからんということなのであろうが、一つの講演であれを言ってこれをいわないということが批判になるのか? 不破氏の民族主義(?)を批判する論拠にできるのか?
 けしからんというようなことは批判とはいえまい。
 個人の投稿であるならいざしらず、編集部の論稿となれば、冷静さと客観性と説得力が要求される。我々は人類史上初めて、インターネットという個人の表現の自由を実質的に保障する手段を手に入れたのであるが、この手段は我々にその手段にみあった内容(コンテンツ)を求めているのであり、この手段を大音量をまき散らして走り回る右翼の街宣車のようなものにおとしめてはなるまい。

3、占領に目がくらむ?
 次に貴紙で不破氏はいう。
 「日本が戦争に負けたとき、ポツダム宣言を受諾しまし。・・連合国が日本を占領下におきました。これは、国際的な正当性を持っていました。しかし、そのときに、世界は、この占領が21世紀まで続こうとは、誰も予想しませんでした。」
 この発言を貴紙は次のように非難する。

現状認識が60年近くも逆戻りして、『この占領が21世紀まで続いている』というとんでもない命題にまで高められてしまっているのである。

 いわんとするところは、敗戦直後の占領から、半占領へ、そして「事実上の従属国」へと変化してきた日本共産党の綱領上の認識を60年前の占領状態へと逆戻りさせているということであろう。しかし、この非難は正当であろうか? 言葉尻をつかまえた非難ではなかろうか?
 貴紙が最初に引用した不破氏の発言にあるように、不破氏は「アメリカの事実上の従属国」と言っているのであるから、ここでいう「占領」もその文脈で理解するのが普通の読み方ではなかろうか。
 それとも、前に発言した「事実上の従属国」を否定して、新たに貴紙の言うように、不破氏は現在の日本はアメリカの「占領」状態にあると言っているのであろうか。普通はそのようには読まない。
 貴紙はそれともこのような誤解を受けたくないなら、占領という言葉を使った上記の発言のなかで不破氏に占領の戦後史をざあっと述べるべきだと主張するのであろうか?
 これは無理難題をふっかける議論ではあるまいか? 貴紙がここでいう占領云々は、全く馬鹿げた議論であり、貴紙の評価をおとしめることはあっても高めることはない。マルクスもレーニンも予想だにしなかった歴史的な大事業を立ち上げる志があるのならば、決してこのようなやりかたをしてはならないように思うがいかがか?

4、論旨不明な唯我独尊
 次に、貴紙は不破氏の次のような発言を引用している。
 「しかも世界はどういう時代かといえば、民族の自決権、主権・独立が支配的な流れとなり、かつては植民地、従属国とよばれてきた諸民族のほとんどが政治的に独立をかちとり、国際政治の重要な勢力となってきた時代であります。そのときに、1億2000万の人口と、世界で有数の経済力をもつ日本が、半世紀をこえる長きにわたって、事実上の従属国の状態に甘んじているということは、私は、世界の中でもきわめて異常なことだといいたいのであります。」
 この発言を貴紙は「これもとんでもない事実の単純化である。」として、その理由を説明しているが、その理由の説明を理解できないのは私だけであろうか? 貴紙は次のようにいいたいのであろうか。
 旧植民地諸国は「形式的・法的」には独立したが、実態からすれば「政治的・社会的・経済的にも」従属しているのだ、日本の従属は「構造的な意味での従属」であり、その点ではこれら旧植民地国とかわらない(?)、そういう現状があるのに不破氏は「日本の従属の異常さ」だけを強調しているのは事実の単純化であると。
 以下、このような理解を前提に書くのだが、まず、上記の不破氏の発言を見ると、第1に旧植民地諸国はほとんど政治的に独立した、第2に日本の「事実上の従属」は異常であるということがいわれている。この2点をみると、旧植民地諸国と比べて日本が異常であるのは丸ごとの従属(政治的にも独立していない)ということであって、経済的その他の点での独立・従属については他の旧植民地諸国とは比較されていないのであり、また旧植民地諸国が経済的、その他の点で独立していると言っているわけでもない。不破発言をそのまま読めば、こういう理解になる。
 そこで、貴紙と不破氏の認識のちがいはどこにあるかというと、旧植民地諸国のほとんどが政治的に独立しているか否かという点である。貴紙は独立していないと見ているようであり、不破氏はほとんどが独立したとみているわけである。この点に関するかぎり、私は不破氏の議論が正しいと考えている。非同盟諸国の流れがあり、あるいはまた、フィリピンが10年ほど前になるか、米軍のフィリピンからの撤退を実施したことが想起されよう。世界中の諸国からいかに嘲笑されようと、アメリカの尻につくほか能のない異常な日本外交の現状ひとつみても、そういえるのではあるまいか?
 この点は事実認識の問題であり、不破氏の民族主義的偏見でもなんでもない。古くて新しい日本の従属問題の、例の自立・従属論争以来の問題の一部である。そうした、もともと因縁の問題であるのだから、貴紙はその主張を争点を明確にして簡明に示すべきであったろう。
 ともあれ、ここでの貴紙の主張は理解不能に近いものがあり、唯我独尊の風があることを指摘しないわけにはいかない。

5、引用は正確にする義務がある
 次に貴紙は不破氏の次の発言を引用している。

この状態を打破して、主権国家としての日本の地位を全面的に回復するということは、私は、21世紀に日本がなしとげるべき最大の国民的課題の一つだと思います。

 この発言について貴紙は次のように論評する。

『主権国家としての日本の地位を全面的に回復すること』が『21世紀の日本がなしとげるべき最大の国民的課題』だとすれば、日本独占資本の打倒というもう一つの課題はどうなるのか? それは、2次的な課題なのか? この不破演説は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を『二つの敵』とした日本共産党綱領の立場さえ踏みにじるものである。この不破演説では、『2つの敵』のうち、一方が完全に消失し、事実上、『1つの敵』論になっている。これは、この講演だけの偶然的な発言ではない。云々

 この論評はもう滅茶苦茶というほかない。その論評の論理が独断と偏見というばかりでなく、まず引用自体がフェアでない。不破氏は「最大の国民的課題の一つだ」といっているのであり、貴紙のように「最大の国民的課題」だと言っているわけではない。貴紙が不破氏をどのように考えようと自由であるが、引用する発言は正確にする義務があろう。しかも、この論評は不正確な引用を支えに不破氏の議論を独立一本の課題にしぼりあげ、しぼりあげた一本の課題=独立を「1つの敵」論だと決めつけ「綱領違反」の嫌疑さえかけている。
 これはフェアな論評であろうか? 
 仮に不破氏の演説を独立一本にしぼりあげるのならば、しぼりあげる論拠を明示しなければなるまい。たとえば、演説全体の論旨を紹介したうえで、その論旨からすれば不破氏がいう「最大の課題の一つ」とは実際には唯一の最大の課題と解釈するほかないのだというように。
 ネット上で論評する編集部の猛省を促したい。