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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

考察その二、事件総括の重要性について

1999/12/5(12/9一部訂正) れんだいじ、40代、会社経営

 「新日和見主義事件」は運動としては「双葉の芽」のうちにつぶされたので、党史から見ればさほど重要な位置を占めない。つまり、たいした事件とはならなかったということである。が、この事件も間違いなく宮本氏の号令一下で始められた「査問」事件であったことと、党指導下の青年学生組織に対して取られた党による極反動的な統制政策であり(宮本氏を調べていけば行くほど、こうした「統制好きな面」と「査問好きな面」が浮かび上がってくる。氏の行動が左翼運動の前進的発展に寄与した面について私は少しも知れない。度々お願いしているが、どなたか、いや実はこういう貢献があるというものがあったら本当に教えて欲しい。なぜこんな人物が「無謬」だとか「獄中12年」の神話化人物になるのだろう。不思議というか考えられないことなのだけど、そのからくりについても教えていただけたらありがたい。これはマジで言ってます。私には、インテリジェンスのあるいい大人が何でいとも易々そういう論理を受け入れているのか理解不能なのです。ましてや今日の党路線に批判的な者でさえ、こと宮本氏の評価となると絶対的基準で氏を擁護する姿勢が見られるようである。この現象を整合的に説明してくれませんか)、これ以来30年間近くにわたって今日にまで至る党指導下の青年学生運動の低迷を作り出していることを思えば、「新日和見主義事件」はこの両面において象徴的な反動的な政治的事件であったという重要性を帯びており、かなり底流的に重みがあると思われる。
 「70年安保闘争」以降、戦後の社会運動に一定の影響力を持ち続けた青年学生運動のうち、急進主義を担った勢力はより先鋭的方向に引きずられていくことによっていよいよ大衆から分離し、この間いかなる経過にも惑わされずひたすら愚頓直に党の指導に従ってきていた「民青同」のその中に僅かに残されていた戦闘的良質部分がこの「新日和見主義事件」への鉄槌の結果最終的に瓦解させられ、以降この両面からの打撃で今日にまで続く青年運動の低迷を招くに至っているということを考え合わせると、「新日和見主義事件」は歴史的な政治的重要性を残しているように思われる。これを系統的に証明するとなるとかなり大がかりな難事となる。が、突き動かすものがある故に取り組まざるをえない。この作業の結果、今日低迷する青年運動の核心に触れるものが見いだされる筈であり、宮本式路線の反動的本質がレリーフされる筈である。そういう歴史的な教訓を汲み出すために拙かろうともいざ出航する。
 もっとも事件のこうした受け止め方は個別私のそれであり、同時代のあの仲間達の認識として共有されていたとはとても思えない。それが証拠に、当時の多くの活動家は何が何だか分からないうちに党の一片の公式見解に唯々諾々してしまい、事件はアッという間にうやむやな歴史の彼方に放擲されてしまった。つつがなく今日まで経過させてしまっていることによっても一般的な受け止め方ではないことが裏付けられる。当時の赤旗紙面が手元にないが、私が受けた印象は、既述したこともあると思われるが、批判しやすいように改竄された新日和見主義者なる者が得手勝手に措定され、読む者をしてそんな馬鹿げたことを連中は言っているのかと容易に受け取らせしめる詐術でもって文章構成されたものだったと記憶している。翌日のキャンパスで、対立セクトの連中から「何だぁ、てめえらの思想は。もう少しましかと思っていたが云々」と揶揄されたことを不思議と今日まで覚えている。私の場合、個人的事情も重なって丁度この頃運動から離れていった経過があるが、この時「こんな党をいつまでも相手してられないわ」という思いが忽然と湧いていたように思う。私の場合、55年時の後のブント系運動創出活動家達ほどの能力も情熱もなく以来左翼運動そのものから遠ざかることとなった。たまたまパソコンを手にした喜びでかっての関心を呼び起こし、たまたまこの「さざ波通信」と出会うまで個人的な生活費闘争に明け暮れつつ今日まで至っている。もっともお陰様でというべきか少しは世間を広く知ったような気もしている。
 そのことはともかく、結果は語る。「新日和見主義事件」は、その後の「民青同」の急速な低迷を招き青年運動に負の遺産をしっかりと刻み込んだ。このことにつき現執行部党中央は、苦衷を感じているように思われない。むしろ、60年安保闘争・70年安保闘争の経過で見せた青年運動の盛り上がりが勃発することを二度と期待していないようにさえ思われる。青年運動の低迷と「新日和見主義事件」の関係を関連づけて捉えようとする動きは掣肘されれたまま今日に至っているように思える。この「新日和見主義事件」が脚光を浴びたのは、おおよそ25年後に事件の被主役であった川上徹氏(民青系の再建全学連の初代委員長でありこの当時民青同中執のリーダー格として影響力を持っていた)が著作「査問」によって事件の真相を自ら世に知らしめたことによってである。ただし、「査問」を読む限り、失礼ながら当人である川上氏にとってさえいまだに事件の深層が理解されていない風がある。私から見ればそう見える。川上氏が明らかにしたことは、「党の正式な査問として、云われるほどの咎もないのにかようなことがされた」という告発であって、多くの者もその範囲で理解しようとしているように見える。つまり、問題にされているのは「査問の真相」であって、「事件の深層にあったもの」についてではないように思われる。最近新たに「汚名」が出版されたようである。まだ手にしていないが「さざ波通信」によって一部了解している。本来読了してから言うべき事かと思うが、貴重な証言がなされているようである。つまり、「新日和見主義事件」の査問者側の複数員が何と!公安のスパイであったというのだ。こんなことは果たして偶然であろうか。さもありなんではないのか。私の推論はほぼ知られていると思うので繰り返さないが、この根本の所から疑惑し直さないと党の再生はありえないということが言いたいわけだ。今私は戦後の学生運動を通史として読み直している。気づくことは、党の指導からいち早く離れて新党を結成していった数多くの諸セクトも、党を追われた者も自ら出ていった者もこの点では皆読み誤っているように思われる。
 ここに私の考究の意味がある。私は、この一連の投稿によって「査問」の背景にあったと思われる「事件の深層」について迫ってみようと思う。低迷する今日的左翼の現状打破につながるキーがここに隠されているように思うから。この「深層」を切開することはかなり難しいが、新旧左翼の垣根を越えて評価に耐えうる投稿文を書き上げたいと思う。エラそうに言える程のものは何も持ち合わせていないが、場面によってはそういう提言をなさねばならない箇所に出会うことになる予感がしている。そう言うときには割り引いてご理解願いたい。
 まず、戦後の学生運動の概括をしておくことにする。この流れを掴まないと「新日和見主義事件」の本質が見えてこないと思われるからである。全体をまとめることは出来ないのでその時々の全学連運動の特質と指導部の党派性に注意を払いながら見ていくことにする。今日の如く雲散霧消させられた学生運動の現況と現代若者のインテリジェンス水準から見えてくることは、当時の学生がいかに天下国家を熱く論じていたのかという良質性である。私が思うに、あの当時の活動家が夢見ていたような革命が起ころうが起こるまいが、二十歳前後の頃からの一定時期に自身と社会との関係についてあるいはまた国家とか世界との関連の中で、自身の一個としての存在の社会的関わりを徹底的に見つめておくことは、人間としての弁証法的成長の過程に必要なことなのではなかろうかということである。今社会全体にこうした議論が少なくなってきており、こうした風潮にあきたらない思いの者が没政治主義的にオウム真理教やライフ・スペース等の宗教的活動や最近隆盛しつつあるネットワーク商法やその他諸々のコミュニケーション活動に向かっているのではなかろうか、とさえ思われる。人間の存在的根源にコミュニケーション活動があり、こうした活動は何時の時代でも何らかの形で立ち現われるものであり、むしろ人の成長過程としての健全性を証左しているものであり、学生運動もまたその一つの表現ではなかったのだろうか。一世風靡した学生運動は当時の社会が許容していた「明日の国造りに有益な社会的投資」活動の一環として位置づけられる国益上有益にして民族の活力の源泉のようなものではなかったか、とさえ思われる。私は、今に継続されている韓国・中国等の青年のエネルギッシュな行動に明日のかの国の発展が見えてきそうだという感慨を抱いている。
 ところで、大きく見てそのように意義づけられる学生運動に携わった者も、学生運動に立ち現れた分裂状況に制約されて、自身が属した党派の側からの一方的な視点の了解の仕方でしか学生運動を把握しえていないのではなかろうか、と思われる。私がそうだからそうであろうということに一般性があるのかどうか分からないが、私はそのように了解している。この辺りを出来るだけ多面的にウォッチしてみようと思う。