木村さんのご忠言ありがとうございます。指摘されてみればそうだったですね。川上氏の委員長について民青同と全学連を混同させていました。編集部の方にお願いして早めに訂正しようと思います。これからの投稿につきましてもよろしくご指摘ください。何せ継ぎ接ぎ継ぎ接ぎで経過を追おうとしていますので多々そういう面も生じるかと思われますのでよろしくお願いいたします。実際今回の課題が大きすぎて既に辟易し始めていますが、バックターンも悔しいので書けるところまで追跡していく決意です。『汚名』についても読まねばと思っていますが、私の近くの本屋には何カ所か回りましたが出回っておらずそのままになっています。注文すれば良いだけのことですからこれは言い訳かもしれませんね。
以下の文章につき、党及び関係書店発行各書と前掲二書の他いずれも最近古書屋で手に入れた「戦後日本共産党史」(小山弘健、芳賀書店)、「現代の青年運動」(藤原春雄、新興出版社)、「宮本顕治倒るる日」(水島毅、全貌社)、「過激派の形成とその背景」(山室章、日本経営者団体連盟)、HP「マルチメディア共産趣味者連合」、「現代古文書研究会」、「宮地氏の共産党問題、社会主義問題を考える」等を参照させていただいた。
第1期(45年~49年)【(日共単一系)全学連結成前後期】
この期は、「戦後民主主義」時代のスタートに立って薫風香る自治会活動を基盤として全学連が結成されていった時期である。戦後の学制は、戦前の軍部の介入に対する苦い経験を反省してか格別「大学の自治」を尊重した。同時に学生に対しては、「学生の民主的な社会性の育成」という大学教育の一環として、学生生活の向上や課外活動の充実をはかる目的で「学生自治会」が用意されることになった。こうして各大学とも、学校側が各種の便宜を与えて、学生全員を自治会に加入させ、自治会費を徴収し、その運営につき学生に自主的運営に任すこととなった。こうした制度的措置は、恐らく、この当時の超規的権力であった「GHQ」による、日本国内の残存軍事機構及び勢力の一掃に伴う民主主義的諸制度の拡充支援策の経過でもたらされたものではないかと思われる。そのことはともかく、こうしてつまり、学生全員加入制による全納徴収会費が自治会執行部に任されることになった。これはこういって良ければ一種の利権であり、この後今日までどの党派が各大学の自治会執行部を押さえるのかをめぐって血眼になっていくことと関連することになる。
戦後当初の学生運動は、「戦後民主主義」の称揚と既得権化を目指して学園内外の民主主義的改革と学生の基本的権利をめぐっての諸要求運動を担っていくことになった。歌声、フォークダンス、スポーツ、レクリェーションなど趣味的活動から、生活と権利の要求や学習活動、平和と民主主義に関する政治的活動が取り組まれた。こうした運動は後に「ポツダム自治会運動」として揶揄されていくことになったが、政治的意識の培養が一朝一夕にはなされずステップ・バイ・ステップで高められていくことを思えば、こうした運動自体は否定されるべきことではなく、契機づくりとしては必要必然なプロセスではないかと思われるがいかがなものであろうか。この時期の学生運動指導部は自然と日本共産党党員活動家が担っていくことになった。この当時の日本共産党が他のどの政党にも増して青年運動の重要性を認識していたということでもあり、受けとめる側の方も、党をいくつかの政治諸党派の最左翼という位置にとどまらず、「革命の唯一の前衛党」という象徴的権威で認めていたということでもあった。
ちなみに、ここで触れておくと、レーニンは青年を「未来の主人公」と位置づけ、「青年は完全な自立無しには、すぐれた社会主義者となることも、社会主義を前進させる準備をすることも出来ないであろう」とする観点から、青年運動の自発性・自主的な性格でのいわばトレーニング的な意義をも持たせた創意工夫性のある実践活動を重視していたようである。「青年インターナショナルについての覚書」の中で、「青年は何か新しいものだから『先輩とは違った道を通り、違った形で、違った条件のもとで』社会主義に近づくということを忘れてはならない」と指摘しているとのことだ。ところで、その後を受け継いだスターリンは、青年運動に指針を与えたが、レーニンのそれとは違って「何よりも党の要請、党の必要に向けて、如何に青年を動員するか」を重視することとなった。青年運動の自発性・自主性・創意工夫性の部分がスッポリと抜け落ちてしまったのである。
この時期に全国学生自治会連合が結成されている。党のフラクションとして全国社会主義学生同盟(全社学同)等も結成されている。47年(昭和22年)に全国国立大学自治会連盟が結成された。この頃授業料値上げ反対と大学理事会法案反対を掲げた闘争に取り組み、6.1日日比谷公園に約5000名規模の学生集会とデモ行進がなされている。6.26日授業料値上げ反対ストを打ち出している。この運動の流れで全日本学生自治会総連合(全学連)の結成決議が為された。48.9.18日に国立大学系の学生運動と早稲田大学を中心とする私学系が合体し全学連が結成された。全学連は、各大学の自治会を基盤にこれを連合させて形成されたところに特徴が認められる。自治会数268校、員数22万人。事務局本部は東大に置かれ、初代委員長武井昭夫(東京大学)・副委員長高橋佐介(早稲田大学)・書記長高橋英典(東京大学)・中執に安東仁兵衛、力石定、沖浦和光らが選出された。上田・不破兄弟らもいたとのことであるがポジションが分からない。どなたか教えていただけましたらとも思います。党は、「当面の学生運動における方針について」で学生運動の指針を与えていた。全学連は、これより以降50年あたりまで武井委員長の指導の下で一致団結して各種闘争に取り組んでいくことになったようである。この大会で採択されたスローガンは次の六項目であった。○教育のファッショ的、植民地的再編絶対反対○学問の自由と学生生活の擁護、○学生アルバイトの低賃金とスト破り反対、○ファシズム反対、民主主義を守れ、○青年戦線の即時統一、○学生の政治活動の完全な自由。
この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。1945年(昭和20年)敗戦とほぼ同時にこの時期早くも党は青年共産運動の建設の課題を提起し、党の指導下で学生青年運動を立ち上げていくことになった。戦前1922.4月に日本共産青年同盟(共青同)が創設されていたが、その革命的伝統を継承して45.8月に民主主義青年会議が組織されている。これは国際共産主義青年インターナショナル第6回大会で決定された青年単一戦線結成の方針を日本に適用しようと意図したものであった。しかし、党は、国際的経験を正しく摂取した青年同盟の路線を提起しえず、人民戦線以前の「社会ファシズム論」的なセクト的思想のままに社民的改良運動排撃を指導したようである。翌46年(昭和21年)1月に青共同の再建を指導し結成に導いている。青共同は、戦後の動乱期に積極的に活動し急速に発展した。ただし、この時期の運動は、全体として行動隊としての性格と市民的権利意識の段階にとどまり、青年の自主的行動を通じて階級意識を高めることに積極的ではなく、イデオロギー的にも左右にゆれていたようである。全社学同と青共同の一部で全日本民主青年同盟が結成された。こうした動きの最中49年になると、党の指示によって、青年政治戦線の統一の立場から青共同・「民学同」など四団体の合同の申し合わせを行い、民主青年合同委員会を発足させているが、階級性の抜き去られたものであったようである。その為、先進的活動家の離反をみているということである。この時の党の指導者が誰であったのか等々知りたいが不明である。
第2期(50年~54年)【(日共単一系)全学連の組織的発展と分裂期】
この期は、結成された全学連の運動が次第に日常的な諸要求闘争の究極にある「社会の根源」に対する闘いへと運動を向自化させていきつつあった時期である。この間全学連は、何回かの全国的闘争を経て全国主要大学の隅々まで組織化していくことになり、この経過で東大・早大・京大らの学生党員グループがその指導権を確立していったようである。全学連は、次第に青年運動特有の急進化運動を押し進めることになり、徳田執行部への反発と批判を高めていった。ただし、同時に50年以降の党の所感派と国際派への分裂の煽りを受け、全学連指導部もまた所感派と国際派に分裂していくことになったようである。
武井委員長ら全学連中央グループ指導部は、この時国際派の系列についたようである。つまりこの時点では宮本グループと親しい関係にあったということを意味する。長文の意見書を党中央に提出し、徳田系執行部のこれまでの学生運動に対する指導の誤りを痛撃した。東大や早大の学生細胞からも相次いで意見書を本部に提出していた。この系流が51.11月反戦学生同盟(反戦学同)を結成した。この時の武井委員長の意見書に「層としての学生運動論」理論が展開されているとのことである。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与するものに過ぎない」というのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」という学生運動を「層」としてみなすことにより社会的影響力を持つ一勢力として認識するよう働きかけていったようである。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことになり、武井委員長の理論的功績であったと評価されている。
この頃世情は騒然とし始めており、朝鮮戦争の拡大、警察予備隊創設、共産党と全労連の解散、出版・報道関係のレッドパージが進む状況に直面していた。党内情勢の分裂事態が深刻で、党非合法化に対処する過程で、徳田執行部党主流派は国際派の宮本・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。この党内分裂は全党末端にまで及んでいった。党主流派の主要幹部は中国に逃れ、国内の指導はその指揮下の「臨時中央指導部」に委ねられていた。国際派の動きはまばらの野合であったが、宮本を中心に党統一会議としてまとめられていくことになった。全学連グループはこの流れに属したことは既述した通りである。ところが、中国に渡った徳田指導部は、「51年綱領」で、従来の平和革命式議会主義から一転して武装闘争路線へと転換せしめることになった。この方針は、長期にわたる武装闘争によって勝利を獲得した中国共産党の経験を学び、中国革命方式による人民革命軍とその根拠地づくりを我が国に適用しようとしたものであった。こうして「山村根拠地建設」が目指され、「山村工作隊」・「中核自衛隊」等が組織され、各地で火炎ビン闘争を発生させた。中核自衛隊の組織、戦術等が指示された武装闘争支援文書「栄養分析法」・「球根栽培法」等が配布された。同書にはゲリラ戦・爆弾製造の方法も書かれていた。
こうした党内の大激震下で徳田系執行部を支持する所感派学生党員は、52年の全学連第5回大会で武井委員長らを追放し主導権を握った。新執行部は、党の武闘路線の呼びかけと「農村部でのゲリラ戦こそ最も重要な闘い」とした新綱領にもとづき、農村に出向く等武装闘争に突き進んでいくことになった。こうして戦闘的な学生達は大学を離れ、農村に移住していった。この間国際派学生党員グループは反戦学同に結集しつつ主に平和擁護闘争を取り組んだようである。留意すべきは、どちらの動きにせよ党指導下のそれであったことであろう。
この時期の全学連の闘争で注目されるものを記す。50.5.2日反イールズ闘争に立ち上がった。イールズは、各地でアメリカン民主主義を賞賛しつつ共産主義教授の追放を説いて回っていたが、その講演会を中止に追い込んだ。50.8.30日全学連は緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議。各大学自治会に指示を発した。10.5日東京大学構内で全都のレッドパージ粉砕総決起大会が開かれた。都学連11大学2000人が参加、これが契機となり全国の大学に闘争が波及した。52.2.20日東大でポポロ座事件発生。劇団発表会に私服警官が潜入していることが判明、問題となった事件であった。破防法反対闘争なども取り組まれている。
この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。「51年綱領」によりこの時期の党の青年運動組織への指導が大きく転換した。51.5.5日に日本民主青年団(民青団)が発足している。民青団は、党主流所感派の系列で生み出されたものであり、全学連活動家のその多く連なった。彼らは党の方針を信じ、党の軍事方針の下で工作隊となり、積極的に参加していくことになった。東京周辺の学生たちは、「栄養分析法」・「球根栽培法」等の諸本を手にしながら三多摩の山奥にもぐり込んだ。結果的にこの時期の党の武装闘争路線は破綻していくことになり、民青団も大きな犠牲を払うことになった。今日「中国の人民戦争の経験の機械的適用であった」、「民族解放革命を目標として、街頭的冒険主義に陥り、セクト化を強め一面サークル主義になった」(「日本共産党の65年」)と総括されている。
第3期(55年)【(日共単一系)全学連の組織的崩壊期】
この期の特徴は、55.7月に至って「六全協」が開かれ、この間の徳田系執行部の軍事方針は「極左冒険主義」であったと批判されることになったことにより、この間徳田系執行部の指導下にあった全学連もこの煽りを受けて自壊状況を現出していくことになったことに認められる。事実はこの時宮廷革命が発生しており、徳田執行部系所感派から宮本系国際派へと指導実権が移行しつつあった。この時の全学連指導部はほぼ崩壊していたこととショックのあまりか、この経過に対しなす術を持たなかったようである。55.9月に全学連第7回中央委員会が開かれ、宮本式路線に従って、この間の党の極左冒険主義と全学連指導部の動きを批判することとなった。いわゆる「歌ってマルクス、踊ってレーニン」というレクリエーション路線」として揶揄される穏和化方向へ振り子の針を後戻りさせることとなった。これを「7中委イズム」と言い表すことになるが、自治会を「サービス機関」と定義し、一転して日常要求路線へと全学連運動を向かわせることになった。「自治会=サービス機関論」とは、「学生の身近な要求を取り上げて、無数の行動を組織していけば、学生の統一ができる。……勉強のこと、恋愛のこと、就職や将来のこと、我々の苦しみや希望を深く話し合うこと……自治会は、学生の要求を取り上げて、それをサービスすれば良いのであって、情勢分析や政治方針の提起を行うべきでない」という、自治会の役割を「学生の日常要求に応えるサービス機関」する理論であった。トイレに石けんを付けるというサービスを運動としたのもこの時期であったということである。
この時期の全学連の闘争で注目されるものを記す。所感派・国際派の別を問わず急進主義派の学生たちが「平和と民主主義」の根幹に関わる政治闘争として砂川闘争に取り組んだ。55.9.13日米軍立川吉の拡張工事の為砂川町の強制測量が開始され、労組・学生と警官が正面衝突した。砂川闘争の始まりである。10.4日第二次測量開始。10.13日全学連と反対同盟らが警官隊と衝突し、流血事件が発生している。この様子を見て、当時の鳩山内閣は測量中止を発表することとなった。全学連と反対同盟側の勝利であった。55年の暮れより56年の春にかけて、東大細胞の島成郎・森田実・中村光男・生田浩二・古賀康正らが中心になって全学連の再建に乗り出していくことになった。同じ思いで呼応したのが関西の星宮○生、早大の高野秀夫らであった。
この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。この時期青年・学生運動は、急進主義派と穏和派に二分化しつつあった。主に穏和派の動きであると思われるが、民青団もまた全学連同様に「六全協」総括の煽りを受けて清算主義に陥り、自壊状況を現出していくことになった。マルクス・レーニン主義を学ぶことさえ放棄する傾向をも生みだし、解体寸前の状態に落ち込んでいくことになった。