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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(②)

1999/12/10 れんだいじ、40代、会社経営

 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。この時期の学生にとってマルクス主義受容の精神風土的根拠についての考察である。私の場合の捉え方が一般化出来るのかどうか分からないが、あんまり変わりないものとして推定する。当時の学生をも取り囲む社会は、敗戦の混乱から復興へ向けての資本の再蓄積の発展過程にあり、同時に冷戦下での米ソ二大陣営の覇権競争期に直面しており、国内外に強権的な支配政策が横溢していた。そうした事象発生に内在する社会の矛盾に目覚めた者は、過半の者が必然的とも言える行程でマルクス主義の洗礼へと向かっていった。マルクスの諸著作には、必然的な歴史的発展の行程として資本制社会から社会主義へ、社会主義から共産主義の社会の到来を予見していた。社会主義社会とは「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」社会であり、共産主義社会とは「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」社会であった。この社会に至ることによってはじめて社会の基本矛盾が止揚されていくことになるが、この革命事業の手法をめぐって見解と運動論の違いが存在する。なお、この道中には過渡期が存在する。しかし、資本主義の墓掘り人としてのプロレタリアートの階級的利益の立場に立って、プロレタリアート独裁権力を通じてその歴史的任務をより合法則的に作動させていくならばいわば効率的にその社会に近づいていくことが出来、その知性と強権の発動のさせ方に前衛党の任務がある。気がつけば国家が死滅しており、人々の助け合いのユートピア社会が実現している。その行程の一助になる革命事業のためならば私一身の利害は捨てても惜しくはない。こうして「マルクス共産主義は、それまでの社会科学の集大成によって創られた無縫の天衣である。人間を包み込んで尚あまりあるもの。人間のどんな要求も呑み込み消化し社会の創造維持発展の養分にしてしまえる仕組み。と思っていた。沸き上がってくる望みや理想は全てそこから引き出せる」(「戦後史の証言ブント」榊原勝昭)とでも言える認識で即興の左翼活動家が生み出されていったのではなかろうか。私の場合、あれから30年近くの歳月を経て、このような階級闘争史観で万事を無理矢理解くには不都合な事象にも出くわしてきており、そのようなものの見方に対しては二歩三歩遠景から眺めるようになっている。「これはもう感情的な問題や。政策とか路線の問題じゃない。感情論の問題というのは修復し難いんですよ、歴史を見ても。どないもならへん」(「戦後史の証言ブント」星宮)という物言いには根拠があると思うようになっている。とはいえ、他方で今日的な社会現象としての人と人とのスクラムのない閉塞状況からすれば、ますます当時の青年学生がつかもうとして挑んだ行為が美しくさえ見えてきてもいる。以下は、そういう者たちの青春群像による運動的事実が戦後史に存在したことの確認のため記す。

第4期(56年)【全学連の再建期】
 この期の特徴は、この間ジグザグする党指導により全学連が瓦解させられた経験から、もはや党の影響を受けることを峻拒しようとする学生党員グループが発生し、こうした連中によって全学連の再建目指して胎動していくことになったことに認められる。
 この頃の全学連再建グループの背景にあったものは、党に対する深い失望であった。「六全協」での形式的総括と宮本グループによる宮廷革命の進行と狂気の自己批判運動の展開等が渦になり、党に対する不信を倍加させることとなった。丁度こうした折りの56.2月ソ連共産党20回大会でフルシチョフ第一書記により「スターリン批判」がなされたが、党は、「スターリン批判」が提示しているマルクス・レーニン主義運動の根本的見直しや国際共産主義運動の転換とその変遷を洞察する理論的解明をなしえず、単に個人指導が集団指導に訂正されただけのことでありわが国では「六全協」で解決済みであると安心立命的に居直りさえした。そればかりか「スターリン批判」究明の動きを「自由主義」・「清算主義」・「規律違反」等の名目で押さえていくことになった。こうした宮本式の対応は到底先進的学生党員を納得せしめることが出来なかった。これらの出来事が党の無謬性神話を崩れさせることになった。
 56.4月全学連第8回中委が開かれた。この「8中委」は、先の「7中委イズム」を「学生の力量を過小評価した日常要求主義」と批判する立場から平和擁護闘争を第一義的に掲げ全学連再建の基礎をつくることとなった。いわゆる「8中委.9大会路線」と言う。「8中委」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになった。折から国会に上程された56年前半の小選挙区制導入反対闘争が解体に瀕していた全学連の息を吹き返させていくこととなった。全国的規模の闘争に取り組む過程で56.6.9-12日全学連第9回大会を開催した。大会は、香山委員長、星宮・牧副委員長、高野書記長らの四役を選出した。北大から小野が中執となった。こうして、全学連は、急進主義的学生党員活動家の手により、党中央の指導を排して自力で再建されていくことになった。この時全学連中執委メンバーは19名中12名が党員であった(ところで、こうしてこの全学連大会で全学連が再建されたようにも思うが、次の10回大会 で再建されたという記述がなされているのもありこの関係がよくはわからない)。この大会では、この間の闘争を通じて「国会及び国民各層との連帯促進」、「総評・日教組・文化人らとの強力強化」、「自治会の蘇生」等がなされたと評価し、この方向での運動強化が確認された。教育三法反対闘争、56年秋の砂川闘争、57年夏の第三次砂川闘争、57年後半の原水禁運動などに党の指導を離れた全学連運動として独自に取り組んでいくことになった。原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱が生じ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないという事にもなったよ うである。その他授業料値上げ反対闘争にも取り組んだ。
 但し、この時期の56年秋の砂川闘争後、学連内に内部対立が生じていた模様である。砂川闘争を指導した東大出身の森田と学連書記長で早大出身の高野が対立した。もともと党の意向とも絡んだ組織運営をめぐっての対立であったようであるが、私立の雄早大と旧帝大の雄東大勢との反目も関連していたようでもある。高野派が党の意向を汲んでいたようで、この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立までなった。加えて、香山.森田の指導に対する物足りなさが次の流れへと向かうようである。
 56.10-11月ポーランド・ハンガリー事件が起こった。ソ連軍が戦車と共に軍事介入して市民を弾圧する映像が流されてきた。党は、このソ連軍の行動を「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてハンガリーに対するソ連の武力介入を公然と支持した。このことが、学生たちの憤激を呼び党から離反させる強い契機となった。こうした「衝撃、動揺、懐疑、憤激」を経て、全学連の幹部党員の間には、もはや共産党に見切りをつけて既成の権威の否定から新しいマルクス主義本来の立場に立った新しい運動組織を模索せしめていくことになった。この時既に先進的学生党員は一定の運動経験と理論能力を獲得していたということでもあろう。
 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。こうした時期の56.11月に日本民主青年同盟(民青同)が発足している。民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで宮本式 指導の下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前・戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうとし、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになった、と思われる。