以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。ここではじめてトロッキズムの諸潮流に出くわすことになるが、この流れの由来をあたかも異星人・異邦人の到来であるかにみなす傾向が今日もなお日本共産党及びその感化を受けた勢力の中に認められる傾向について、どう思うべきかという事に関してコメントしておこうと思う。今私は川上徹編集「学生運動」を読み始めている。気づくことは、前半の語りで該当個所に関してマルクス・レーニンの著作からの適切な指示を引用しながら、結論部に至って「トロッキスト・修正主義者を一掃しなければならない」という締めの文句を常用としていることである。他方、右翼・ノンポリ・宗教運動家・改良主義者に対しては統一戦線理論で猫なで声で遇することになる。この現象は、一体何なんだろう。そんなにトロッキズムを天敵にせねばならない思考習慣がいつ頃から染みついたのだろう。
以下の考察で明らかにしようと思うが、トロッキズムもまた世界共産主義運動史の中から内在的に生み出されてきたものである。マルクス主義の弁証法は、社会にせよ運動の内部からにせよ内在的に生み出されている事象については格別重視するという思考法を生命力としていると私は捉えている。トロッキズムが、あたかも戦前調のアカ感覚で捉えられている現在の党運動における反動的感覚をこそ問題にしたい。運動の中から生まれた反対派に対して、日本共産党指導部が今なお吹聴している様な原理的敵視観のレベルで、マルクス、レーニンがそのように言っているという文章があるのならそれを見せて欲しい、と思う。例によって宮本氏に戻るが、この論調は宮本氏が最も得意とする思考パターンであり、戦前は党内スパイ摘発に対して使われた経過は既に見てきたところである。いわゆる「排除の強権論理」であるが、この外在的思考習慣から我々は何時になったら脱却出来るのだろうか。
第4期(57年)【新左翼(トロッキズム)の潮流発生】
このような背景から57年頃様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してスターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、必然的にスターリンと対立していたトロッキーの再評価へと向かうことになった。この間の国際共産主義運動において、トロッキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。トロツキーを最簡略に紹介すれば、「トロツキーというのはロシア革命でスターリンとの政争で破れ、亡命先のメキシコでスターリンの刺客に暗殺された革命家である。当時の共産主義運動ではトロツキーは反革命的とされ、反革命分子を『トロツキスト』呼ばわりした」とある。スターリンとトロツキーの評価に関係するレーニンの遺書は次のように記されている。この遺書は、クループスカヤ夫人が1924年5月の第13回ソ連共産党大会の際に中央委員会書記局に提出した文書とのことである。「同志スターリンは、書記長として恐るべき権力をその手中に集めているが、予は、彼が、その権力を、必要な慎重さで使うことを知っているかどうか疑う……。一方、同志トロツキーは、ずばぬけて賢い。彼は確かに中央委員中で最も賢い男だ。さらに彼は、自己の価値を知っており、また国家経済の行政的方面に関して完全に理解している。委員会におけるこの二人の重要な指導者の紛争は、突然に不測の分裂を来すかも知れない」(1922.12.25)、「スターリンは、あまりに粗暴である。この欠点は、我々共産党員の間では、全く差し支えないものであるが、書記長の任務を果たす上では、許容しがたい欠陥である。それゆえ、私は、スターリンを、この地位から除いて、もっと忍耐強く、もっと忠実な、もっと洗練され、同志に対してもっと親切で、むら気の少ない、彼よりもより優れた他の人物を、書記長の地位に充てることを提案する。これは些細なことのように思われるかも知れないが、分裂を防止する見地からいって、かつ、既に述べているスターリンとトロツキーの関係からいって些細なことではない。将来、決定的意義を持つことになるかもしれない」(1923.1.4)。不幸にしてレーニンのこの心配は的中することとなった。レーニンの死後、この二人の対立が激化した結果、遂にトロツキーが敗北し、スターリンが権力を握ることとなった。こうしてその後の国際共産主義運動は、スターリンの指導により担われていくことになった。スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配と国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」(パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。
こうして、この時期日本共産党批判の潮流がこぞってトロッキズムの開封へと向かうことになった。このような動きの発生の前後は整理されていないが、対馬忠行を中心として「反スターリン的マルクス・レーニン主義誌」の表題をつけた「先駆者」が刊行された。太田竜(栗原登一)が「トロッキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす」理論研究運動を開始していった。思想の広場同人の編集になる「現代思潮」、東大自然弁証法研究会「科学と方法」、福本らの「農民懇話会」、京都の現代史研究会の「現代史研究」、愛知の「人民」等々の清新な理論研究が相次いで生まれた。浦和付近の青年たちによって2月頃「現状分析研究会」が誕生しその機関誌「現状分析」が発刊された。「現状分析」は、「指導的な論理は、運動の最高指導者や一部の理論家だけによって生み出されるものではない。そこでは、名もない一人の声声が積み重なって、指導者や理論家の側に投影されるものでなければならない」という立場から左翼理論の見直しを発信させていた。3月頃には東大細胞による機関誌「マルクス・レーニン主義」、大池文雄を中心に少数の同志たちで「批評」が発行された。旧国際派の内田英世・富雄兄弟を中心にした群馬政治経済研究会は「反逆者」を創刊した(群馬グループ)。他に山西英一の三多摩グループ、西京司・岡谷進の関西グループらがいた。10月頃黒田寛一を中心に学生・労働者・インテリ層で「弁証法研究会」がつくられその機関誌「探求」が発行された。こうして党に対するアンチ・テーゼとしての観点から様々な理論研究の潮流が生み出されていくことになった。この黒田氏について「黒田氏は自前で『こぶし書房』と言う出版社を設立し、52年頃からさまざまな社会学的な書籍を執筆・出版していた。そうしていくうちに黒田氏の下にマルクス主義研究会のようなサークルができあがり、4人のメンバーで『弁証法研究会・労働者大学』と言うサークルを作った。やがてサークルは大きくなり『探求』という雑誌を出版するようになる。このミニコミ誌によって、黒田氏の影響力は全国的に浸透していったのである」と紹介されている。
57.1月この主流がわが国における最初となった日本トロッキスト運動を生み出すこととなった。まず、この当時思想的に近接していた黒田寛一や内田英世と太田竜らで日本トロッキスト連盟とその機関紙「第4インターナショナル」が発足した。当初は思想同人的サークル集団として発足した。日本トロッキスト連盟は、国際共産主義運動の歪曲の主原因をスターリニズムに求め、スターリンが駆逐したトロッキー路線の方に共産主義運動の正当性を見いだそうとしていた。これが後の展開から見て新左翼の先駆的な流れとなった。その主張を見るに、「既成のあらゆる理論や思想は、我々にとっては盲従や跪拝の対象ではなく、まさに批判され摂取されるべき対象である。それらは、我々のあくことなき探求の過程で、あるいは破棄され、あるいは血肉化されて、新しい思想創造の基礎となり、革命的実践として現実化されねばならない」(探求)という自覚を論拠としていたようである。つまり、早くも「60年安保闘争」の三年より前のこの時点で日本共産党的運動に見切りを付け、これに決別して党に替わる新党運動を創造することが始められていたと言える。
この根底にあったものを「日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現したもの」とみなす見方があるが、そういう見方の是非は別として、この潮流も始発は戦後の党運動から始まっており、党的運動の限界と疑問からいち早く発生しているということが踏まえられねばならないであろう。宮本理論に拠れば、一貫してトロッキズムをして異星人の如くいかがわしさで吹聴しつつ党内教育を徹底し、トロッキストを「政府自民党の泳がせ政策」の手に乗る反党(ここは当たっている……私の注)反共(ここが詐術である……私の注)主義者の如く罵倒していくことになるが、私はそうした感性が共有できない。前述した「党的運動の限界と疑問からの発生」という視点で見つめる必要がある。
ところで、今日の時点では漸く党も含め左翼人の常識として「スターリン批判」に同意するようになっているが、私には不十分なように見受けられる。なぜなら、「スターリン批判」は「トロッキート評価」と表裏の関係にあることを思えば、「トロッキー評価」に向かわない「スターリン批判」とは一体何なんだろう。もっとも、党の場合、その替わりにかどうか「科学的社会主義」が言われるようになってきた。「科学的社会主義」的言い回しの中で一応の「トロッキー評価」も組み込んでいるつもりかもしれない。が、あれほどトロッキズムを批判し続けてきた史実を持つ公党としての責任の取り方としてはオカシイのではなかろうか。スターリンとトロッキーに関して、それこそお得意の「自主独立的自前の」史的総括をしておくべしというのが筋なのではなかろうか。「自主独立精神」の真価はこういう面においてこそ率先して発揮されるべきではないのか、と思われるが如何でしょう。
ちなみに、私は、我々の運動において一番肝心なスターリンとトロッキーとレーニンの大きな相違について次のように考えています。この二人の相違は、党運動の中での見解とか指針の相違を「最大限統制しようとするのか」対「最大限認めようとするのか」をめぐっての気質のような違いとしての好例ではないかと。レーニンはややスターリン的に具体的な状況に応じてその両方を使い分ける「人治主義」的傾向を持っていたのではなかったのか。そういう手法はレーニンには可能であったがスターリンには凶暴な如意棒に転化しやすい危険な主義であった。晩年のレーニンはこれに臍を噛みつつ既になす術を持たなかったのではなかったのか。スターリン手法とトロッキー手法の差は、どちらが正しいとかをめぐっての「絶対性真理」論議とは関係ないことのように思われる。運動論における気質の差ではなかろうか。「真理」の押しつけは、統制好きな気質を持つスターリン手法の専売であって、統制嫌いな気質を持つトロッキー手法にあっては煙たいものである。運動目的とその流れで一致しているのなら「いろいろやってみなはれ」と思う訳だから。ただし、トロッキー手法の場合「いざ鎌倉」の際の組織論・運動論を補完しておく必要があるとは思われるが。
ついでにここで言っておくと、今日の風潮として、自己の主張の正しさを「強く主張する」のがスターリン主義であり、ソフトに主張するのが「科学的社会主義」者の態度のような踏まえ方から、強く意見を主張する者に対して安易にスターリニスト呼ばわりする傾向があるように見受けられる。これはオカシイ。強くとかソフトとかはスターリン主義とは何の関係もない。主張における強弱の付け方はその人の気質のようなものであり、どちらであろうとも、要は交叉する意見・異見・見解の相違をギリギリの摺り合わせまで公平に行うのか、はしょって権力的に又は暴力的な解決の手法で押さえつけつつ反対派を閉め出していくのかどうかが、スターリニストかどうかの分岐点ではなかろうか。スターリニズムとトロッキズムの原理的な面での相違はそのようなところにあると考えるのが私見です。こう考えると、宮本イズムは典型的なスターリニズムであり、不破氏のソフトスマイルは現象をアレンジしただけのスターリニズムであり、同時に日本のトロッキズムの排他性も随分いい加減なトロッキズムであるように思われる。
さて、話が脱線したが、こうしてわが国にも登場することになったトロッキスト運動は、運動の当初より主導権をめぐって、あるいはまたトロッキー路線の評価をめぐって、あるいは既成左翼に対する対応の仕方とか党運動論をめぐってゴタゴタした対立を見せていくことになり、日本共産主義労働者党→第4インター日本支部準備会→日本トロッキスト連盟→日本革命的共産主義者同盟(革共同)へと系譜していくことになる。新左翼運動をもしトロッキスト呼ばわりするとならば、日本トロッキスト連盟を看板に掲げたこの潮流がそれに値し、後に誕生するブントと区別する必要がある。そう言う意味において、日本トロッキスト連盟の系譜を「純」トロッキスト系と呼び、これに対しブント系譜を「準」トロッキスト系とみなすことを今はやりの「定説」としたい(日本トロッキスト連盟の系譜から後に新左翼最大の中核派と革マル派という二大セクトが生まれており、特に中核派の方にブントの合流がなされていくことになるので一定の混同が生じても致し方ない面もあるが)。
この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応し、急速にトロッキズムに傾いていくことになった。ただし、日本トロッキスト連盟の運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用していたためか、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。「加入戦術」とは、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。このグループの特長として理論闘争を重視するということと、セクト間の対立に陰謀的手法で解決をしていくことを意に介しない面と、暴力的手法による他党派排除を常用する癖があるように思われる。私が拘ることは以下の点である。上述したようにトロッキズムとは、レーニンによって批判され続けられたほどに幅広の英明な運動論を基調とした左翼運動を目指していたことに特徴が認められる、と思われる。ところが、わが国で始まったトロッキズムは、その理論の鋭さやマルクス主義の斬新な見直しという功の面を評価することにやぶさかではないが、この後の運動展開の追跡で露わになると思われるが、意見の相違を平気で暴力的に解決する風潮を左翼運動内に持ち込んだ罪の面があるようにも思われる。この弊害は党のスターリニズム体質と好一対のものであり、日本の左翼運動の再生のために見据えておかねばならない重要な負の面であることも併せて指摘しておきたい。