以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。この時期に潮流形成される全学連再建急進主義派が、学生運動を通じて「革命運動」に向かおうとしていたことの是非についてである。その際「ポツダム自治会」は二面で機能することになった。一つは培養基盤であるという正の面であり、一つは革命的左翼運動にあっては手かせ足かせになるという負の面であった。党の青年・学生運動の指針は、この培養基盤という正の面を重視させる方向に働き、全学連再建急進主義派は、負の面である手かせ足かせを乗り越えようとして突出していくことになる。その両方を機能的に弁証法的に高めることが出来たら理想ではあろうが、実際にはそのようにはならない。ここで考えたいことがある。全学連再建急進主義派が押し進めた「学生自治会を足場にしながらの究極革命運動への邁進」はさすがに行き過ぎだったのだろうか、いやそんなことはない中国における五四運動を見よ、わが国での幕末の志士たちの運動を見よ、皆うら若き二十歳前後の青年達の立派な政変闘争ではなかったか、という観点もまたあらためて検討されるに値するように思われる。この間一貫して今日まで党の指導は、こうした連中の「思い上がり」を、ある時には急進主義者、ある時には挑発者、ある時にはトロッキストと呼んでむしろ積極的にこの動きを潰しにかかったという史実がある。事は難しそうだから解答までは必要とされないが、特に昨今の大衆運動の没化状況を考えた場合考究の余地は大いにあると思われる。「新日和見主義事件」考察の前提になる部分でもあるが、「新日和見主義事者」達は、これから見ていく流れに対し、一貫して党の方針に忠実に敵対していくことになる。そして、ほとぼりが冷めた頃自ら等もまた無用にされてしまった。そして25年の月日を沈黙させた。なぜ、闘わなかったんだろう、戦えなかったのだろう。トロッキストが政府に泳がせられていたとするなら、「新日和見主義事者」達もまた党に泳がせられていたのではないのか。この深い暗流に対して解析を試みようと思うが、(ボソボソ)能力の限界も感じつつある。
第4期(57年)【反党派全学連主流の誕生期】
57.3月注目されるべき事件が発生している。約400名の代議員を集めて開かれた第2回東京都党会議は、「六全協」以後の党中央の指導ぶりに対する批判と追求の場となり大混乱に陥った。増田・武井・安東・片山・野田・芝・高山・西尾・山本・志摩(島?)らの急進主義者らと各地区委員会から選出されていた革新派らが、党中央の責任を明確にせよと迫り、このため党中央を代表して出席していた野坂・宮本・春日正一らが壇上で立ち往生させられたのである。この時の都委員会の選挙では、宮本の介入を排して元全学連委員長武井らの批判派が都委員に19名中10名、さらに芝寛を都書記に選ぶことになった。
この経過を見て注目されるべきことがある。かっての全学連結成期の指導者であった武井・安東らが、この時点で東京都党委員になっており、批判派として立ち現れてきていることである。武井・安東らは、この間一貫して宮本グループと接近しつつ共に徳田系執行部の指導に異議を唱え、党内分裂期にも国際派として宮本グループと歩調を合わせて来ていたことを考えると、蜜月時代が終わったということであろう。この時若手の武井・安東らが党内反対派の野田グループと協調しつつ、「六全協」・「第7回党大会」の経過で現に進行しつつある宮本グループ系の宮廷革命の動きに対して反逆し始めていたことが知れる。理論的にも、宮本が中心となって起草していた「党章草案」の現状規定とか革命展望に対して意見を異にしていった様が見えてくる。
この時の東京都党会議の決議案は、党指導部への批判や官僚主義への反対などを強く打ち出した。宮本は「中央の認めない決議は無効だ」として居直ったようである(宮本氏の「民主集中制」論の体質は、こういう危機の場合にその本質が露呈する。「中央の認めない決議が無効だ」とすれば、党内民主主義も何もあったものではない。党中央へのイエスしか出来ないということになる)。この後57.9月に正式に「党章草案」が発表されたが、東京都委員会はまっさきに反対決議を出している。「党章草案」が日本独占資本との対決を軽視し、社会主義への道の明確な提起を欠いているなどと批判し、草案に反対の態度を示した。ただし、この時の文面から見ると、構造改革論に近い見地から批判しているようである。同時に「党章草案」の中に含まれている規約草案に対しても、これは「党内民主主義の拡大ではなくて縮小」であり、「中央、特に中央常任委員会の一方的な権限の拡大」であると批判した。こうした動きはこの時全国各地の党委員会に伝播しており、その様子を感じ取ってか、党は、翌58.1月の第17回拡大中委で一ヶ月後に予定していた第7回党大会を選挙への取り組みを口実に急遽延期することを決定している。
57.6月全学連10回大会が開かれた。全学連はこの大会で「軌跡の再建」を遂げたと言われる。森田実・島成郎・香山健一・牧衰らが全学連中執、書記局に入り、以後全国学生運動の指導にあたることとなった。この大会で党の指示に従う高野派が敗退し、高野は書記長を辞め、その後は早大を拠点として全学連反主流派のまとめ役となっていくようである。日本共産党第7回党大会前の頃の動きである。この時期新しい活動家が輩出していった。この頃、後の「60年安保闘争」を担う人士が続々と全学連に寄り集うことになった。この経過を見てみると次のように言えるのではなかろうか。この当時のポスト武井時代の急進主義的党員学生活動家は、二つの側面からの闘いへと向かおうとしていた。一つは宮本系宮廷革命の進行過程に対するアンチの立場の確立であり、後一つは先行して結成された日本トロッキスト連盟の戦闘的学生活動家取込みを通じた全学連への浸透に対する危機感であった。全学連再建派は、これらへの対応ということも要因としつつ懸命に全学連運動の再構築を模索し始めていったようである。こうしてこの時期の党員学生活動家には、全学連再建急進主義派と日本トロッキスト連盟派と民青同派という三方向分離が見られていたことになる。
ところで、宮本系党中央は、この後この全学連急進主義グループをトロッキスト呼ばわりしていくことになるが、ならば、この時期党中央が全学連再建に向けて何ら有効に対処しえなかったこと、党の意向を汲んで動いていたと思われる高野派が敗退したことについての指導的責任を自らに問うというのが普通の感性だろうとは思う。が、この御仁からはそういう主体的な反省は聞こえてこない。むしろ、右翼的指導で全学連再建をリードしようとして失敗したという史実だけが残っている。
57.12月日本トロッキスト連盟は、日本革命的共産主義者同盟(革共同)と改称した。この流れには西京司(京大)氏の合流が関係している。日本トロツキスト連盟の「加入戦術」が巧を奏してか、かなりの影響力を持っていた日本共産党京都府委員の西京司氏が57.4月頃に「連盟」に加入してくることになり、その勢いを得てあらためて黒田寛一、太田竜、西京司、岡谷らを中心にした革共同の結成へと向かうことになった訳である。この時点から日本トロッキスト運動の本格的開始がなされたと考えられる。この流れで58年前後、全学連の急進主義的活動家に対してフラク活動がかなり強力に進められていくことになった。ただし、革共同内は、同盟結成後も引き続きゴタゴタが続いていくことになった。善意で見れば、それほど理論闘争が重視されていたということかも知れぬ。
自主的に再建された全学連はこの頃党派性を強めていくことになった。57.12月島・生田・佐伯の三名は、横浜の佐伯の家で新党旗揚げのためのフラクション結成を決意している。党内分派禁止規律に対する自覚した違反を敢えてなそうとしていたことになる。彼らは、日本トロッキスト連盟派のオルグに応じなかったグループということにもなるが、この頃トロッキー及びトロッキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していったようである。ご多分に漏れず、彼らもまたこの時まで党のスターリン主義的な思想教育の影響を受けてトロッキズムについては封印状態であった。この時、対馬忠行・太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロッキー著作本が貪るように読まれていくことになった。「一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた」(戦後史の証言ブント、島)とある。東大細胞の生田浩二・佐伯秀光・冨岡倍雄・青木昌彦、早大の片山○夫、小泉修一ら、関西の星宮らがレーニン・トロッキー路線による国際共産主義運動の見直しに取りかかり、理論展開し始めた。山口一理の論文「10月革命の道とわれわれの道-国際共産主義運動の歴史的教訓」(後に結成されるブントの原典となったと言われている)と「プロレタリア世界革命万才!」を掲載した日本共産党東大細胞機関紙「マルクス・レーニン主義」第9号が刷り上がったのが57.12月の大晦日の夜であった。この論文が全学連急進主義者たちに衝撃的な影響を与えていくことになった。この、主に日本共産党東大細胞たちを中心として、その影響下にあった学生達が中心となって後述するブント結成へむかうことになる。