以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。学生運動内における暴力の発生とそうしたゲバルト路線の定式化に関する是非について考察してみたい。既に「全学連第11回大会」における全学連主流派による反主流派(党中央派)の高野グループ派の暴力的な追いだしに触れたが、これより後左翼運動内にこの暴力主義的傾向が次第にエスカレートしていく過程を見ていくことになる。最初は、反代々木派による代々木派への暴力であったが、この勢いは追って反代々木派諸派内にも無制限に進行していくことになる。恐らく「暴力革命論」上の社会機構の改変的暴力性を、左翼運動内の理論闘争の決着の着け方の手法にまで安易に横滑りさせていったのではないかと思われるが、如何なものであろうか。「オウム」にはポア理論という結構なものがあるが、それに類似した理論を創造しないまま暴力を無規制に持ち込むのはマルクス主義的知性の頽廃なのではなかろうか。あるいはまた警官隊→機動隊との衝突を通じて暴力意識を醸成していった結果暴力性の一人歩きを許してしまったのかもしれない。私は、オカシイと思うし、ここを解決しない限り左翼運動の再生はありえないとも思う。「党内反対派の処遇基準と非暴力的解決基準の確立」に対する左翼の能力が問われているように思う。「意見・見解の相違→分派→分党」が当たり前なら星の数ほど党派が生まれざるをえず、暴力で解決するのなら国家権力こそが最大党派ということになる。その国家権力でさえ、「一応」議会・法律という手続きに基づいて意思を貫徹せざるをえないというタガがはめられていることを前提として機能しているのが近代以降の特徴であることを思えば、左翼陣営内の暴力性は左翼が近代以前の世界の中で蠢いているということになりはしないか。暴力性の最大党派国家権力が暴力性を恣意的に行使せず、その恩恵の枠内で弱小党派が恣意的に暴力を行使しうるとすれば、それは「掌中」のことであり、どこか怪しい「甘え」の臭いがする、と私は思っている。
ついでにもう一つ触れておくと、この時期全学連は当然のごとくに立ちはだかる眼前の敵警官隊→機動隊にぶつかっていくことになるが、彼らこそその多くは高卒の青年であり労働者階級もしくは農民層の子弟であった。大学生のエリートがその壁を敵視して彼らに挑まねばならなかった不条理にこそ思い至るべきではなかろうか。街頭ゲバルト主義化には時の勢いというものもあるのであろうが、ここで酔うことは許されない限定性のものであるべきだとも思う。頭脳戦において左翼は体制側のそれにうまくあやされているのではなかろうか。この観点は、戦前の党運動に対する特高側の狡知に党が頭脳戦においても敗北していたという見方とも通じている。
それはそれとしてそれにしても、この時期ブントの動きは日本大衆闘争史上例のない闘いを切り開いていくことになる。
第5期(59年)【ブント執行部の確立と全学連運動の突出化】
この期の特徴は、再建された全学連の指導部をブント系が掌握し、急進主義運動を担いつつ「60年安保闘争」を主導的にリードしていったことに認められる。ブントは見る見る組織を拡大し、当時は革共同が主導権を握っていた全学連の主導権を奪い返すに至った。こうして少数派に甘んじることを余儀なくされた革共同系はブント系の指導下に合同し共に全学連運動を急進主義的に突出させていくことになった。この間民青同系は、こうした全学連の政治闘争主義化にたじろぎつつも指導に服していたようである。59.1.1日全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」が発表されている。
3.28日「安保条約改定阻止国民会議」が結成された。これには総評・社会党・全日農・原水協など13団体が中央幹事団体となり、共産党はオブザーバーとしての参加が認められた。以降「国民会議」は二十数波にわたる統一行動を組織していくことになった。しかも、この共闘組織は、中央段階のみならず、都道府県・地区・地域など日本の隅々にまでつくられ、その数は2千を越えていくことになる。4.28日全学連は、「安保改定阻止、岸内閣打倒」をスローガンに第一波統一行動を起こしている、約1000名結集。5.15日第二波統一行動、約5000名結集。
6.5-8日全学連第14回大会が開かれた。約1000名参加。この大会は、ブント・民青同・革共同の三つどもえの激しい争いとなり、先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の主導権をブント系が再び奪い返して決着した。この大会でブントが執行部中央執行委員会の過半数を獲得した。唐牛健太郎(北大)が委員長として選出され、清水丈夫書記長、加藤昇(早大)と糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦、奥田正一(早大)が新執行部となった。中執委員数内訳は、ブントが17革共同13、民青同0、中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。
こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で、「60年安保闘争」に突入していくことになった。唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら、再度にわたる「国会突入闘争」や「岸渡米阻止羽田闘争」などに精力的に取り組んでいくことになった。この当時のブントは約1800名で学生が8割を占めていたと言われている。この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。6.25日第三波統一行動、約1000名結集。労・学2万6000名結集。7.3-5日「全学連第19中委」が開かれ、「10月ゼネスト」の方針を打ち出す。6月頃ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と言われる論文を機関紙「共産主義3号」に発表している。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。この頃、全学連四役を含む幹部7名が党から除名処分にされている。
この時の島氏の心境が次のように語られている。「再三の逡巡の末、私はこの安保闘争に生まれだばかりのブントの力を全てぶち込んで闘うことを心に決めた」、「闘いの中で争いを昇華させ、より高次の人間解放、社会変革の道を拓くかが前衛党の試金石になる」、概要「日本共産党には、『物言えば唇寒し』の党内状況があった。生き生きとした人間の生命感情を抑圧し陰鬱な影の中に押し込んでしまう本来的属性があった」、「政治組織とはいえ、所詮いろいろな人間の寄り合いである。一人一人顔が違うように、思想も考え方もまして性格などそれぞれ百人百様である。そんな人間が一つの組織を作るのは、共同の行動でより有効に自分の考え、目的を実現する為であろう。ならば、それは自分の生命力の可能性をより以上に開花するものでなければならぬ。様々な抑圧を解放して生きた感情の発露の上に行動がなされる、そんなカラリとした明るい色調が満ち満ちているような組織。『見ざる、聞かざる、言わざる』の一枚岩とは正反対の内外に拓かれた集まり、大衆運動の情況に応じて自在に変化できるアメーバの柔軟さ。戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼にあきたらなかった新世代学生の共感を獲ち得た」(「戦後史の証言ブント」)。以上のような島氏の発想には、かなりアナーキーなものがあることがしれる。こうしたアナーキー精神の善し悪しは私には分からない。このアナーキー精神と整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらを二者択一するかせざるをえないことになる、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた背景として「唐牛を呼んだ方がいいで。最近、カミソリの刃のようなのばっかりが東京におるけども、あれはいかぬ。まさかりのなたが一番いいんや、こういうときは。動転したらえらいことやし、バーンと決断して、腹をくくらすというのはね、太っ腹なやつじゃなきゃだめだ。多少あか抜けせんでも、スマートじゃなくても、そういうのが間違いないんや」(「戦後史の証言ブント」、星宮)ということになり、島氏が北海道まで説得に行ったと言われている。
8.26日革共同は重大な岐路に立っていた。第二次分裂が発生している。革共同創立メンバーの一人西京司氏はこの間関西派を作り上げ、この関西派が中央書記局を制し革共同内の主導権を獲得していたようである。西氏はこの頃「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとしたようであるが、この過程で黒田氏の影響下にある探求派と対立し、結局政治局員であった黒田氏を解任した。そこで黒田氏は本多延嘉氏と共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り、西氏の関西派と分離する。これがいわゆる革共同第二次分裂である。革共同分裂の底流には、西氏らは第4インター参加に向かい、黒田氏らは不参加を主張していたこと等に関する見解的な相違とか運動論をめぐっての確執が原因となっていたようである。この過程で革共同全国委派は、「反帝反スタ主義」を基本テーゼとしたようである。
詳細は不明であるが、西京司は、探求派を空論的非実践主義として批判し、討論を封殺し、無批判的支持を要求するカンパニアを組織した。これに対し、探求派は、「全国的な組織討議をいささかも組織することなしに、しかも綱領的反対派の欠席のもとで『決定』されたこの西テーゼは関西派の分派綱領以外のなにものでもない」、「綱領的反対派締出しの陰謀は、いよいよ魔女狩りの様相をおびつつある。関西派の書記局通達第三号(9.10日付)は明らかにかれらがわが同盟を関西派分派の徒党と化そうとする決意のもとに、すべての俗物的統制をおし進めつつあることを露骨に表現している」とある。両派は、ソ連論をめぐっても対立していたようである。革共同関西派は「労働者国家無条件擁護、スターリニスト官僚打倒」と主張し、革共同全国委派はこれを修正主義と批判しつつ「反帝反スタ」を基本テーゼとする立場から反論したようである。「スターリニスト官僚打倒を通じて新しい革命党を結成し、これを実体的基礎としたプロレタリア世界革命を実現する。それゆえに、このたたかいは、反帝反スターリニズムであり、その根底的立脚点=革命的立脚点は革命的マルキシズムにある」(組織論序説)、「(関西派は)パブロ=太田修正主義への後退を準備している」とある。当時争議化しつつあった三井・三池鉱山闘争に関連して、「炭鉱の国営国管問題」についても対立をもたらしたようである。なお、関西派がほかならぬ関西において学生戦線のヘゲモニーを民青同派に奪われたという状況も関連していたようである。「中央書記局のお膝元で招来したこの無残な敗北から教訓をみちびきだしえぬ客観主義者のみが、よく『探究派』退治に血の道をあげうるのである」とある。
8.29-31日ブント第3回全国大会。9.18日全学連は、安保改定阻止統一行動に約1500名結集。10.26日約1000名結集。10.30日全学連、安保改定阻止統一行動、全国スト90校、約1万5000名で集会.デモ。11.27日第8次統一行動の国会デモで、全学連5000名の学生らによる「国会乱入事件」が発生している。全学連は、都教組などの労働者と共に、正門前を固める警官隊の警備を突き破って初めて国会構内に突入し、抗議集会を続行した。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。社・共総評幹部は、宣伝カーから解散を呼び掛けるが約三万余の群衆は動かない。約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。清水書記長、糠谷・加藤副委員長らに逮捕状が出された。
党中央は、翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、これを専ら反共・極左冒険のトロッキストの挑発行動とみなして、ただちに事件を非難する声明を発した。常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し全都にばらまいた。以降連日「トロッキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。この声明に対して、共産党港地区委員会は中央に抗議声明を発し、27日の全学連デモを支持した。都議員団はじめ多くの党組織から全学連事務所に激励のメッセージが寄せられた。国民会議・社会党・総評も、突入デモ隊を非難した。
12.10日全学連は、1万5000名を結集し再度国会包囲デモを企画したが、社会党・総評が戦術ダウンをし始めていたこともあって、今度は分厚い警官隊の壁の前に破れた。この後暫く安保闘争は鳴りを潜めることになった。
この全学連主流派の「国会乱入事件」に関して、民青同は、次のように総括している。「自民党は、この事件以降、絶好の反撃の口実を与えられ、ジャーナリズムを利用しながら国民会議の非難の大宣伝を開始した。総評・社会党の中には、統一行動そのものに消極的行動になる傾向すら生まれたのである。運動が高揚期にあるだけに、一時的、局部的な敵味方の『力関係』だけで、戦術を決め、行動形態を決めることが、闘いの長期的見通しの中で、どういう結果を生むか、という深刻な教訓を残した」(川上徹「学生運動」)。これは、私にはおかしな総括の仕方であるように思われる。一つはブントに対する「為にする批判」であるということと、一つは運動の経過には高揚期と沈静期が交差して行くものであり、全体としての関連無しにこの時点での一時的後退をのみ部分的総括していることに対する反動性である。事実、翌60年より安保闘争がるつぼ化することを思えば、この時点での一時的沈静化を強調し抜く姿勢はフェアではない。後一つは、それでは自分たちの運動が何をなしえたのかという主体的な内省のない態度である。この「60年安保闘争」後ブントは基本的には散った。つまり、国会乱入方針が深く挫折させられたことは事実である。ならば、どう闘いを組織し、どこに向かえば良かったのだろう。このような総括なしにブント的闘争を批判する精神は生産的でないと思われる。実際上述したように批判を行う川上氏らが民青同系学生運動を指導しつつ「70年安保闘争」を闘うことになったが、川上氏らはこの時のブントにまさる何かを創造しえたのだろうか。つつがなく70年安保が終えて、後は自身が査問されていく例の事件へ辿り着いただけではなかったのか。「恣意的な批判の愚」は慎まねばならない、いずれ自身に降りかかってきたとき自縛となる、と私は思う。