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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

考察その三、「事件」までの戦後学生運動の概括(⑦)

1999/12/17 れんだいじ、40代、会社経営

 以降の流れに入る前に、ここで例の「田中清玄インタビュー事件」について触れておこうと思う。私は、このインタビュー内容の詳細を知りたいが手にしていないので、現象的に現れた作用についてコメントしようと思う。この事件は、安保闘争後の63.2.26日のTBSインタビューで、田中清玄氏が当時の全学連指導者に資金提供していたことを明らかにしたところから、党によって大々的に当時の全学連指導者ブントのいかがわしさが喧伝されていくことになった、という意味で政治的事件となった。この党の喧伝には例の詐術があったことを指摘しておきたい。どういう詐術かというと、この時党は、田中清玄氏を主として民族主義者的右翼として描き出し、その右翼的政界フィクサーがブントへ資金提供していたといういかがわしさを浮きだたせ、よってブントのトロッキストの反共的本質を明らかにするという三段論法をとった。
 63年当時のブントは、この後おってみていくことになるが分裂状態で崩壊状況にあり、これに対し有効な反撃が組織できなかった。私なら、こう主張する。田中清玄氏はあなたがたの党の前身である戦前の武装共産党時代のれっきとした党委員長であり、転向後政治的立場を民族主義者として移し身していくことになった。これは彼のドラマであり、我々の関知するところではない。その彼が、政治的立場を異にするものの、当時の我々のブント運動に自身の若き頃をカリカチュアさせた結果資金提供を申し出たものと受けとめている。氏の「国家百年の計」よりなす憂国の情の然らしめたものであった。ブントは、これにより政治的影響を一切受けなかったし、当時の財政危機状態にあっては有り難い申し出であった。もし、これを不正というのであれば、宮本氏の戦前の党中央時代と戦後の国際派時代の潤沢な資金について究明していく用意がある、と。

第5期(60年)【ブント系全学連の満展開と民青同系の分離期】
 この期の特徴は、ブント系全学連が「60年安保闘争」の檜舞台に踊り出てくることに認められる。その闘いぶりは世界中に「ゼンガクレン」として知られることになった。この渦中で、民青同系は遂にブント系全学連と袂を分かつことになった。こうして学生運動の二分裂化傾向がこの時より始まることになった。6.15日の国会突入でブントの有能女性闘士樺美智子が死亡し、大きな衝撃が走った。この闘争の指導方針をめぐって全学連指導部と日本共産党が対立を更に深めていくことになった。日米安保条約が自然成立した後その総括をめぐってブント内にも大混乱が発生することになった。
 59年から60年に初頭にかけて日米安保条約の改定問題が、急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。しかし事実は、新安保条約は、米軍の日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で、戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に違背する不当なものであった。1月社会党右派の西尾末広らが社会党を離党し、新党として民主社会党(民社党)結成の動きに出始めた。こういう政治的エポック期を前にしての社会党の分裂化は自然な流れと言うよりも、当局の差し金により計画的に作り出された社会党のひいては安保反対闘争の弱体化政策であった。
 1.16日、岸全権団の渡米阻止のための大衆運動計画が立てられた。党中央は、信じられないことだけども、岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて全都委員・地区委員を動員して、組合の切り崩しをはかったという史実がある。「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」(アカハタ.60.1.13)という穏和な送り出し方針をいち早く打ち出している。全学連は、党のこうした方針を一顧だにせず、岸渡米阻止羽田闘争を独自行動として取り組んでいくことを決定し、15日夕から全学連先発隊約700人が羽田空港ロビーを占拠、座り込みを開始するという「羽田デモ事件」を起こした。後続部隊も続々と羽田へ羽田へと向かった。この闘争で唐牛委員長、青木ら学連執行部、生田・片山・古賀らブント系全学連指導下の77名が検挙された。樺美智子も逮捕されている。社会党・総評は、統一行動を乱す者として安保共闘会議から全学連排除を正式に決定した。党は、再び全学連を「トロッキストの挑発行動・反革命挑発者・民主勢力の中に送り込まれた敵の手先」として大々的に非難した。革共同も、「一揆主義・冒険主義・街頭主義・ブランキズム」などと非難している。しかし、島氏は、「全く新しい大衆闘争の現出だった。明らかに私たちブントの闘いによって、政治にとって、安保闘争にとって、人民運動にとって流動する状況が生まれたという確信である。長らく社・共によって抑圧されていた労働者大衆が、これをうち破った全学連の行動を通して、新しい政治勢力としてのブントの像をはっきり見たに違いないという実感である」と言いなしている。知識人によって羽田事件の逮捕者の救援運動が始められるや、党中央は、発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかった。関根・竹内・大西・山田・渋谷などの人々が発起人を取り下げざるをえなくされた。これらの知識人は後々党中央に対する激しい批判者となった。1.19日新安保条約がワシントンにおいて、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。かくてこれ以降の安保闘争は、調印阻止から批准阻止へと、その目標をシフト替えしていくことになった。1.22-26日党は、「第8中総」を開催し、「当面の安保闘争と組織拡大について」の決議を採択。「安保改定に反対して、アメリカ政府、岸内閣に抗議し、国会に請願する署名運動を積極的に全国的な運動として展開」することを決定した。
 この頃革共同全国委員会派は、全学連主流派の有力幹部たちをも包含しつつ勢力を扶植しつつあった。2月に革共同全国委員会は責任者黒田のもとに機関紙「前進」を発行。「一切の既成の指導部は、階級闘争の苛酷な現実の前にその醜悪な姿を自己暴露した。安保闘争、三池闘争のなかで社共指導の裏切りを眼のあたりにみてきた」、「(労働者階級は)独立や中立や構造改革ではなしに、明確に日本帝国主義打倒の旗をかかげ、労働者階級の一つの闘争をこうした方向にむかって組織していくことなしには、労働者階級はつねに資本の専制と搾取のもとに呻吟しなくてはならない」、「一切の公認の指導部から独立した革命的プロレタリア党をもつことなしには、日本帝国主義を打倒し、労働者国家を樹立し、世界革命の突破口をきりひらくという自己の歴史的任務を遂行することはできない」、「こうした闘争の一環としてマルクス主義的な青年労働者の全国的な単一の青年同盟を結成した」と檄を飛ばした。この頃から4月にかけて革共同全国委は、ブントの学生組織の社学同に対抗する形で自前の学生組織としてマルクス主義学生同盟(マル学同)を組織した。この発足当時5百余の同盟員だったと言われている。マル学同は、民青同を「右翼的」とし、ブントを「街頭極左主義」として批判しつつ学生を中心に組織を拡大していった。
 この頃党内では、党の安保闘争の指導ぶりをめぐって論議が巻き起こり、党中央批判が展開された。1-2月共同印刷・鋼管川鉄と並んで三大拠点細胞とされていた三菱長崎造船所細胞の大多数が離党した。その中心分子は、共産党は今や理論的にも実践的にも革命政党としての能力を失いつつあると宣言。自ら「長崎造船社会主義研究会」なる自立組織をつくり、ブントへの結集の動きを見せ始めた。こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり、学生細胞・全国有力大学の学者党員・官公労民間経営から離党・脱党が相次いだ。1.24日民社党結成大会。委員長に西尾末広を選出。1.25日三井鉱山が三池炭鉱にロックアウト、三池労組は無期限全面ストに突入。2.2日に「安保国会」が幕をあけた。野党側が鋭く政府を追及した。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。
 2.9日社学同第5回全国大会。2.28-29日全学連第22中委が開かれている。この時革共同派の8名(革共同関西派中執)の中執が暴力的に罷免され、中執はブントによって制圧された。この時点での全学連内部の勢力比は、ブント72、民青同22、革共同関西派16、その他革共同全国委・学民協とされる。
 党の動き。2.6日旧所感派で中央主流に批判的な長谷川浩を学生対策部長から引き下げ袴田がこれに替わった。3.2-3日「第7回党大会第9回中委総」が開かれ、「民主青年同盟の拡大強化のために」の決議を採択した。この決議の採択経過は分からないが、民青同中央が穏健路線からの脱皮を模索しようとしていた風がある。民青同の良質部分の動きと捉えた方が判りやすい。この「9中委総決議」は、「それまでの宮本-袴田等の『市民的民主主義』論や西沢隆二らの『歌え、踊れのサークル化傾向』を打破し、同盟の新しい組織論・運動論を確立する基礎を築き、民青同の拡大強化のための新しい方針を決定し飛躍的発展を助けることになった」とされている。しかし、この民青同中央が作成したよびかけと規約をめぐってまたしても宮本書記長が介入することとなった。一体全体この御仁は戦前戦後今日まで何をするために党に鎮座しているんだろう、と私は思う。宮本は、民青同に対して、①.社会主義を目指して闘うことを強調するのは間違いである。「民族解放」の課題を強調すべきであるとし、「階級的矛盾は民族的矛盾に従属する」と強弁してはばからなかった。②.「マルクス・レーニン主義を学ぶ」という項目は、党の独自活動でやるべきで、同盟自身の性格にすればはばが狭くなるから掲げない。③.民青同中央が、「党の導きを受ける」と党と同盟の関係を明らかにした上で、同盟の自主性を強調したのに対し、それでは事実上共産青年同盟化するからとそれに反対した。事実、宮本書記長自ら「第6回大会」の方針に自ら筆を入れ、青年同盟を「階級的立場の同盟ではなく、市民的民主主義を追求する民主的組織」とし、同盟の性格を「人民の民主主義的課題のために闘う」とあったのを「労働者階級を中心とする人民の民主主義の立場に立つ」と玉虫色とした。
 3.16-18日「全学連第15回臨時大会」が開かれている。全学連主流派は、民青同系と羽田闘争をボイコットした革共同関西派を「加盟費未納」などを口実に代議員資格をめぐり入場を実力阻止し、抗議した民青同系と革共同関西派の反主流派の代議員231名(川上徹「学生運動」では代議員234名)を会場外に閉め出した中で、大会を強行した。会場内の中の主流派代議員261名(〃代議員は181名)であったという。こうして「全学連第15回臨時大会」は、全学連におけるブントの主導権を固めた。「4.26全国ゼネスト」等の方針を決定した。島氏が挨拶に立ち、渾身の力を込めてブントの安保闘争への決意を表明した。
 この大会開催に先立っての会場付近での主流派対反主流派の衝突は、反主流派の代議員231名をして大会ボイコット→独自集会を結果させ、後の全学連分裂を準備させることになった。してみれば、この大会は学生運動至上汚点を残したことになる。意見の違いを暴力で解決することと、少数派が多数派を閉め出したことにおいて、悪しき先例を作った訳である。この時点では、全学連主流ブント派は、明日は我が身になるなどとは夢にも思っていなかったと思われる。私見であるが、左翼運動の内部規律問題として、本来この辺りをもっと究明すべきとも思うが、こういう肝心な点について考察されたものに出会ったことがない。
 3.10日アカハタ主張で、アイゼンハワーの来日反対闘争を提起。3.17日三池労組が分裂し、第二組合作られる。3.23-24日社会党臨時大会。委員長に浅沼稲次郎を選出。3.29日三池闘争、第一組合員久保清が暴力団員に刺殺される。4.3日アカハタ日曜日も発行、完全日刊化、同日曜版10ページ建てとなる。4.15日第15次統一行動。全学連1500名が国会デモ。
 4.24日ブントの第4回大会が開かれている。この時島氏の書記長報告がなされた。「3千名蜂起説」、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」、「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」と後年言われる演説がぶたれたと言う。この大会に向けて党の港地区委員会が臨時地区党会議を開き、ブントとの合流を正式に決定、地区委員会の解散を決議している。この流れをリードした山崎衛委員長・田川和夫副委員長の両地区委員はこれより早く党から除名されている(「アカハタ」59.12.16)。4月からは全国の地域安保共闘組織を総動員して、波状的な「国会請願デモ」が開始されていた。この頃清水幾太郎らの呼びかけがなされている。4.5-9日党の「第10回中総」が開かれ、「三井三池労働者の英雄的闘争の勝利のために全民主勢力の奮起を訴える」を採択。全国の党組織に三池闘争への取り組みを指示し、延べ数千の活動家を現地に派遣して、大量支援の体制を作った。4.17日党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」を開いている。注意すべきは、歴年党員の語り草に水を差すようであるが、党の「60年安保闘争」はこの時点から号令一下本格的に稼働したとみなすべきで、総評・社会党・全学連による運動の盛り上がりを見て「バスに乗り遅れじ」とばかり参入したというのが史実であることを確認しておきたい。党の取り組みの遅れは、それまでの党中央の方針と指導にあったようである。この時期の党中央の方針と指導は、安保闘争全体を民族闘争の枠に限定付けており、これを国内支配権力である日本独占資本との階級闘争との絡みで岸政府打倒をターゲットとするという政治闘争としての位置づけを避けていた風がある。この結果、安保闘争を労働者のヘゲモニーのもとに政治的危機に盛り上げていくような基本方向が棚上げされ、綱領路線に基づく反米闘争的位置づけで安保破棄を掲げ、しかも当面は安保破棄を直接の目標にせず、むしろ「民族民主革命」に向けた「民族民主統一戦線」を形成させることを地道に目標とすべきだとしていた。そういう位置づけからして、できるだけ広範な人民層の参加をうるためにという口実で統一戦線の基準を幅広主義で結集させ、闘争戦術も学生や青年労働者の全てを最低次元の統一行動に規制していこうとする整然たる行動方式を指針させた。つまり、安保闘争を何とかして通常のスケジュール闘争の枠内に治めようとしていた観があり、国会突入を視野に入れるブント的指導との両極端にあったというのが実際のようである。
 とはいえ、党がひとたび動き始めると行動力も果敢で、この時期より全国1700共闘組織の64パーセントまで正式加入してたちまち指導権を強めていくことになった。党は、中央段階ではオブザーバーではあったが、地方の共闘組織では社会党と並んで中心的位置を占め指導的役割を果たしていくことになった。しかし、善し悪しは別にして、党の前述した統一戦線型の幅広行動主義によるカンパニア主義と整然デモ行動方式が、戦闘的な学生・青年・労働者の行動と次第に対立を激化させた。党の指導するこうした「国会請願デモ」に対して、全学連指導部により「お焼香デモ」・「葬式デモ」の痛罵が浴びせられることになった。
 4.20日東大教授ら353名、安保反対の声明。4.26日第15次安保阻止全国統一行動。10万人の国会請願運動が行なわれた。4.26日第15次安保阻止全国統一行動。10万人の国会請願運動が行なわれた。全学連は、この時「お焼香国会請願か、戦闘的国会デモか」と問題を提起し、「闘わない国民会議を乗り越えよ」とアジった。こうして全学連7000名と警官隊が国会正門前で激しく衝突した。唐牛以下13名が逮捕された。注目すべきは、この時より全学連反主流派民青同系学生1万1千余は別行動で国民会議と共に国会請願運動を展開していることである。つまり、全学連の行動における分裂がこの時より始まった事になる。これより民青同系全学連反主流派は、まず東京都において「東京都学生自治会連絡会議」(都自連)を発足させている。以降民青同系は、「60年安保闘争」を都自連の指導により運動を起こすようになる。この経過は民青同系指導部の独自の判断であったのだろうか、党の指示に拠ったものなのであろうか。この時全学連運動内部の亀裂は深い訳だから、もっと早く自前の運動を起こすべきであったかもしれないし、運動の最中のことであることを思えば分裂は避けるべきであったかも知れない。いずれにせよ、こういうことをこそ総括しておく必要があると思われる。4.28日沖縄県祖国復帰協議会結成。
 5.1日第31回メーデー。安保粉砕、国会解散、岸内閣退陣の要求を掲げて500万の大デモが全国各地で行われた。5.5日ソ連政府は、領空に進入したアメリカのスパイ機2機の撃墜を発表。5.12日第16次全国統一行動。460万の参加。ストライキ、職場集会、デモ、請願書名運動が展開された。この頃連日数万の国会請願デモ続く。5.13日全学連国会デモ、2000名が結集。5.15日党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」開く。衆議院での安保条約承認採決を阻止しようとして連日のように数万の国会デモが続いた。
 5.19日、政府と自民党は会期を延長し、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約を強行採決した。採決に加わった自民党議員は233名、過半数をわずか5名上回る数で、本会議に於ける審議は14分という自民党のファッショ的暴挙であった。この時自民党は警官隊・松葉会などの暴力団を院内に導入した。この経過が報ぜられるに連れて「岸のやり方はひどい」、「採決は無効だ」、「国会を解散せよ」という一般大衆にまで及ぶ憤激を呼び、この機を境にそれまでデモに参加したことのない者までが一挙に隊列に加わり始めた。パチンコしていた連中までが打ち止めてデモに参加したとも言われている。夕刻から労・学2万人国会包囲デモ。この日を皮切りにこれより1ヶ月間デモ隊が連日国会を取り囲み、「新安保条約批准阻止・内閣退陣・国会解散」のためのみぞうの全国的な国民闘争が展開していくことになったった。こうした流れについて、ブントも読み誤ったようである。川上氏「学生運動」に拠れば、全学連中執は、5.19日の晩の新安保条約批准の報を知るや「安保敗北宣言」を出しているとのことである。ところが、まさにこの時より事態は大きく流動化し、「労働運動指導部が、民主主義擁護と国会解散を掲げて、大きくプロレタリア大衆を動かし出した」のである。ブントにとっても「事態の後に追いついていくのが精一杯」という意想外のうねりをもたらしていたようである。
 5.6月に入るや知識人・学者・文化人らの動きも注目された。5.20日九大の教授、助教授86名が政府与党の強行採決に反対して国会解散要求声明を発表した。大学教授団によるこの種の声明が全国各地で相次いだ。竹内好・鶴見俊輔らは政府に抗議して大学教授を辞任した。5.20日全学連、全国スト闘争、国会包囲デモに2万人結集。学生の一部約300名が首相官邸に突入。5.26日安保改定阻止国民会議抗議デモ、17万余が国会包囲デモ。こうした最中5.31日党の常任幹部会は、「国会を解散し、選挙は岸一派を除く全議会勢力の選挙管理内閣で行え」声明を発表、何とかして議会闘争の枠内に引き戻そうとさえ努力している形跡がある。6.1日社会党代議士が議員総辞職の方針を決定。吉本隆明らは6月行動委員会を組織、全学連・ブントと行動を共にした。日高六郎.丸山真男らも立ち上がった。「アンポ ハンタイ」の声は子供達の遊びの中でも叫ばれるようになった。他方、児玉誉士夫らは急ごしらえの右翼暴力組織をつくり、別働隊として全学連を襲う計画で軍事教練を行ない始めた。ブントは、あらゆる手段を用いて国会突入を目指し、無期限の座り込みを勝ち取る方針のもと、大衆的には北小路敏全学連委員長代理をデモの総指揮にあて、他方ブント精鋭隊は特別行動隊を結成した。他国会突入のための技術準備も秘かに進めた。
 6.4日第17次統一行動は国鉄労働者を中心に全国で560万人が参加し、安保改定阻止の政治ストライキを打った。全学連3500名が国会デモ。この頃党は、いち早く来日予定のアイク訪日阻止の旗印を鮮明にした。社会党臨時大会、総評幹事会も抗議闘争に取り組むことを決めた。6.6日都自連も、もしアイクが来るなら羽田デモを敢行することを決定した。ただし、この時ブントも革共同も大統領秘書官ハガチー・アイク訪日阻止を取り組んでいない風がある。これには政治的見解の相違があるようで、「アイク訪日阻止は、安保闘争の反米闘争への歪曲」としていたようである。恐らく新左翼は帝国主義自立論により国内の政治権力に対する闘争を第一義としており、これに対して党は、アメリカ帝国主義下の従属国家論により、こうした反米的な闘いこそ眼目となるとしていたようである。このことは、後日田中清玄のインタビューでも知れることでもある。田中氏は、「共産党は安保闘争を反米闘争にもっていこうとした。全学連の諸君は、これを反安保、反岸という闘争に持っていこうとした。ここに二つの分かれ目がある訳です」(63.2.26.TBSインタビュー)。
 こうした中6.10日安保改定阻止第18次統一行動。全学連5000名国会包囲デモ。国民会議が国会周辺で20数万人デモ。ハガチー(大統領新聞係り秘書)は、羽田空港で労働者・学生の数万のデモ隊の抗議に出迎えられた。ハガチーの乗った車はデモ隊の隊列の中に突っ込み、米軍ヘリコプターと警官の救援でやっと羽田を脱出、裏口からアメリカ大使館に入るという珍事件(「ハガチー事件」)が発生した。この「ハガチー事件」は、「60年安保闘争」で見せた党及び民青同の唯一といって良い戦闘的行動であったが、これがブント系全学連を大いに刺激した風がある。「60年安保闘争」に関する歴年党員の語りは、もっぱらこの時のことに関連している。これ以外の面での語りは、党の指導とは関係なく「大衆的に盛り上がった」当時の雰囲気を共有するデカダンスでしかない、といったらお叱りを受けるでしょうか。
 6.11日23万5千人が国会、米大使館へ抗議デモ。 6.15日安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。全国580万人の参加。東京では、15万人の国会デモがかけられ、ブント系全学連は「国会突入方針」を打ち出し、学生たちを中心に数千人の国会突入が為された。先頭部隊が国会南通用門に突入。当時のデモ隊は全く素手の集団だった。あるものはスクラムだけだった。この最中にブント女性活動家樺美智子が警官隊との衝突で死亡する事件が起こった。この時右翼が、国会周辺でデモ隊を襲撃した。この日の犠牲者は死者1名、重軽傷712名、被逮捕者167名。6.16日樺美智子虐殺に抗議し、労・学5万人が国会包囲デモ。政府は、「樺美智子事件」の衝撃で不測の事態発生を憂慮することとなり、急遽臨時閣議を開きアイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定。こうしてアイク米大統領らの訪日は中止となった。
 国会デモはその後も空前の動員数を示した。全国の各大学は自然発生的に無期限ストに突入した。6.17日社会党顧問川上丈太郎が右翼に刺され負傷。6.18日30万人が徹夜で国会包囲デモ。6.19日午前零時新安保条約が自然成立。6.22日政治スト第3波600万人、国会請願デモ10万人。党は、党組織を大挙動員する。6.23日新安保条約の批准書交換、岸首相が退陣の意思を表明。新安保条約は国会で自然承認され、発効した。
 6.23日樺美智子全学追悼集会。夜、全学連主流派学生250人が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。党は、この一連の経過で一貫して「挑発に乗るな」とか「冒険主義批判」をし続け、戦闘化した大衆から「前衛失格」・「前衛不在」の罵声を浴びることになった。こうして安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となった。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌・出版物からも、鋭い党中央派批判を発生させた。「戦前派の指導する擬制前衛達が、十数万の労働者・学生・市民の眼の前で、遂に自ら闘い得ないこと、自ら闘いを方向づける能力の無いことを、完膚無きまでに明らかにした」(「擬制の終焉」60.9月)が実感を持って受けとめられた。。この後まもなくデモ参加者も急速に潮を引いていくことになり、この辺りで「60年安保闘争」は基本的に終焉し、後は闘争の総括へ向かっていくことになる。