以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。我々は、そろそろ左翼運動における益になる面と害になる面の識別を獲得すべきではなかろうか。「何を育み、何をしてはいけないか」という考察ということになるが、この辺りを明確にしないままに進められている現下の左翼運動は不毛ではないか、本当に革命主体になろうとする意思があるのかとも思う。
例えば左翼サミットのような共同会議で史実に基づいた大討議を「民主的運営で」やって見るということなぞが有益ではなかろうか。これが出来ないとしたら、させなくする論理者の物言いをこそ凝視する必要がある。そもそも議会というものは、意見・見解・方針の違いを前提にして与党と野党が論戦をしていくための機関なのではなかろうか。これがなされないのなら、議会は不要であろう。左翼サミットの場も同様であり、最大党派の民主的運営において少なくとも「国会」よりは充実した運営をなす能力が問われているのではなかろうか。理想論かも知れないが、そういうことが出来ないままの左翼運動が万一政権を執ったとしたら、一体どういう政治になるのだろう。現下の自民党政治以下のものしか生まれないことは自明ではなかろうか。だから、本気で政権を取ろうともしていないと私は見ている。
どうしてこういうことを言うかというと、平たく言って、人は理論によって動く面が半分と気質によって動く面が半分であり、どうしても同化できない部分があるのが当然であり、そのことを認めた上での関係づくり論の構築が急がれているように思われるからである。これが「大人」の考え方だと思う。マルクス主義的認識論は、このようなセンテンスにおいて再構築されねばならないと考えている。マルクス主義誕生以降百五十余年、反対派の処遇一つが合理的に対応できないままの左翼戦線に対して、今私が青年なら身を投じようとは思わない。党派の囲い込みの檻の中に入るだけのように思うから。むしろ、こういうインターネット通信の方が自由かつ有益なる交流が出来るようにも思われたりする。却って垣根を取り外していけるかもしれない、とフト思った。
第6期(60年後半)【安保闘争総括をめぐっての大混乱期】
「60年安保闘争」に関する党の指導性に対して疑問が呈されている資料がここにあるが、これが素直な受け取りようではないかと私は受けとめている。著者の藤原春雄氏は旧所感派系の元アカハタ編集局長を勤め、党の青年運動の指導にも携わってきた経歴の持ち主である。第8回党大会後間もなく離党しているようである。「党は、安保闘争の中で、闘争に対する参加者の階層とそのイデオロギーの多様性を大きく統一して、新しい革新の方向を示すことが出来なかった。逆に、違った戦術、違った思想体系、世界観の持ち主であることによって、それに裏切り者、反革命のレッテルを貼ることで、ラジカルな青年学生を運動から全面的に排除する政策を採った。そのため、安保闘争以後の青年学生戦線は深刻な矛盾と対立を生んだ」(藤原春雄「現代の青年運動」新興出版社)。他方で、川上徹氏は、著書「学生運動」の中で「このように極『左』的妄動の中心になって、挑発的、分裂主義者としての役割をはたしたトロッキストとの闘いの経験は、それ以降の運動の高まりの中で絶えず発生してくる小ブルジョア急進主義的傾向との、あるいはそれを利用するトロッキストとの様々な策動に対する民主運動、学生運動の闘いにとって豊かな教訓の宝庫となった」という総括をしている。いろんな総括の仕方があるということだろうが、「道遠しの感がある」。
「60年安保闘争」後、民青同中央はいち早くポスト安保後に向けて指針していることが注目される。その様はブントが満身創痍の中分裂を深めていくのと好対照である。民青同は、先の「第7回党大会第9回中委総」の新方針に基づき6.27-29日「民青同第6回大会」を開催、「青年同盟の呼びかけ」と「規約」を採択し、民青同の基本的性格と任務を、①.民青は労働者階級の立場に立って、人民の民主的課題の為に闘う青年の全国組織である。②.民青は、労働者階級を中心とする青年戦線の中核(後中軸と訂正)である。③.民青の基本的任務の一つは、マルクス・レーニン主義を学ぶことにある、という立場を確立した。こうして「マルクス・レーニン主義の原則に基づいて階級的青年同盟を建設する」という方向を明らかにし、闘う民青同へとスタンスを明確にしつつ新しい出発の基礎を築いた。ここにはブントら青年運動の急進主義的運動の影響を受けて、穏和路線ながらも闘う主体への転換を企図していた様がうかがえて興味深い。
注目すべきは、この大会で、宮本書記長の修正個所が批判を浴びて、当初民青同中央が決定したように「労働者階級の立場に立って、人民の民主主義的課題のために闘う」と改め直したことである。字句遊びのようでもあるが、「人民の民主主義的課題のために闘う」から「人民の民主主義の立場に立つ」へと修正されていた部分を再び「人民の民主主義的課題のために闘う」へと戻したということである。こうして、「現憲法のもとで実現可能な青年の諸権利を獲得するため、法制化と政治的民主主義の拡大をはかること。さらに、青年の統一戦線をつくるために、独占の利潤を制限し、青年を社会的・経済的・文化的に保障する闘いをおこすことが急務である」ことを訴えた。
この経過を見れば、党中央と民青同中央間には一定の反発があったということになる。結果的には、宮本氏の引き続きの露骨な介入により、民青同は元の木阿弥の穏和化路線へ再度誘導されていくことになる。宮本執行部は、この後の6.29日から開かれた党の「第11中総」で、訴え「愛国と正義の旗の下に団結し、前進しよう」を採択している。恐らく宮本氏の発議であると思われるが、先の「民族的民主主義」路線とかこの度の「愛国と正義」路線とかを見るとき、この御仁が本当に「日本共産党」の指導者なのかどうか首を傾げざるをえない(この時、党内はどのように受けとめたのだろう。私には、「神様・仏様に手を会わそう」と同じで余程の方でない限り誰もこんなことを一々否定しない無内容さを感じてしまう。その先のレベルで党運動が生まれているように思うけど、マァイイカもう止そう)。なお、宮本氏は後になって84.7.26日の「民青同第18回大会」を前にした7.12日の党の常任幹部会で、「民青は普通の大衆組織ではない。党の導きを受け、党の綱領に従って行動する党の青年部的組織であるから、役員の選出に当たっても党として事前に検討し、協力と指導を強化すべきだ」と発言している。レーニンの「若い世代は独特な方法で共産主義に近づく」という青年同盟の自発的規律を重んじる発想と随分かけ離れた指導精神の持ち主であることが見て取れる。
この経過は党史で次のように述べられている。「党は、1960年(昭和35年)3月の第9回中央委員会総会第7回党大会で、日本民主青年同盟についての新しい方針を決定し、青年運動の発展に新局面をひらいた。民主青年同盟は、この新しい方針に基づいて同年6月に第6回大会を開催、『青年同盟の呼びかけ』と『規約』を採択し、青年同盟の基本的性格と任務を確立した。それは、新しい情勢のもとで民主青年同盟の当面する任務を、平和・独立・民主・中立の日本の建設と青年の諸要求の実現の為にたたかうことにおき、その民主的大衆的性格と、『科学的社会主義』(『』は私の書き込み)を学び日本共産党の導きを受けるという共産青年同盟以来の先進的性格を統一したものであった。これによって、民青同盟は、それまでの性格と任務についての様々な混乱に終止符を打ち、その後の発展の確固とした基礎をおくことになった」(「日本共産党の65年」165P)。(ボソボソ)この文章の中に前述のいきさつを嗅ぎ取ることが出来るだろうか。本当にこのような観点から「民青同第6回大会」が勝ち取られたのだろうか。私は史実の偽造と受け取る。それと、この時点で「科学的社会主義」とかの表現を本当に使っていたのだろうか。実際には「マルクス・レーニン主義」を学ぶと書かれていたのではないのか。この部分が書き換えられているとした場合、後に用法が例え転換されたにせよ、その時点で使われていた表現はそのまま歴史的に残して担保すべきではなかろうか、と思うが如何でしょうか。こうした改竄がやすやすとなされねばならない根拠が一体どこにあって、党中央はなぜそんなことまでするのだろうかが私には分からない。「プロレタリア独裁」についても同じ事だが、なぜ過去にまで遡ってかような修正をなす必要があ
るのだろう。どなたか執行部側の正義の陳述で説明していただけたらありがたい。
ここで、この当時党内外に発生した構造改革派の動きを見ておく。記述できなかったが、党内ではこの間引き続き宮本氏が起草した「党章草案」をめぐって春日(庄)グループが激しく反対していた。これを構造改革派という。ここで構造改革論について見ておくことにする。構造改革論の源流は、イタリア共産党書記長トリアッチの提言から始まるようである。彼は、ソ連共産党第20回党大会における演説で、「イタリア共産党は、10月革命の道をしないで、イタリアの道を歩むであろう」と述べ、ついで帰国後は、国際共産主義運動の「多中心性」を提言すると共に、イタリア共産党第8回党大会において、資本主義諸国が社会主義に向かう道の一つとして「社会主義へのイタリアの道」を決定した。その主張するところによれば、「現在では、民主主義的制度に対する圧倒的多数の人民の積極的な支持と経済構造の改革と勤労大衆の闘争によって、支配者である資本家階級の暴力を阻止できる条件が出来ている。この民主主義的諸制度は、独占グループの階級的な試みに対抗して、これを発展させることが出来るものである」との認識に立って「イタリア共和国憲法を尊重しつつ、ファシズムに代わって登場した独占との闘いの為に、労働者、大衆の広い戦線として、これを動員して、国民の多数を左翼に獲得し、憲法に示されている経済、政治などの諸構造の改革を、当面の目的として社会主義建設への道を前進する」というものであった。言ってみれば、資本主義の内部における「反独占民主主義」によって資本主義改革を否定し、資本主義の外部にこれに代わる「人民民主主義」、即ち「社会主義的民主主義」の建設を目指すということになる。プロレタリアートの独裁についても、「社会主義社会の建設は、資本主義を打倒する革命、社会主義の勝利、共産主義への移行などの間に過渡的な期間を設定する。この過渡的な期間に於いては、社会の指導は、労働者階級及びその同盟者に属しており、プロレタリア独裁の民主的性格は、旧支配階級の残存に反対し、圧倒的多数の人民の利益において、この指導が実現されると云う事実から生まれている」(1956.6.24.イタリア共産党中央委員会報告)としていた。この理論が構造改革論と言われるようになり、春日(庄)グループらが宮本系党中央に反対する論拠としてこれを採用することになった。
こうして誕生しつつあった春日(庄)ら構造改革派は、「党章草案」に見られた戦後日本の国家権力の性格規定においてのアメリカ帝国主義による「従属」規定に対して、日本独占資本の復活を認めた上での日本独占資本主義国家または帝国主義の「自立」として規定し、そこから当面の革命の性質を、「党章草案」的ブルジョア民主主義革命から始まる二段階革命論に対し、社会主義革命の一段階革命論を主張することにより党中央と対立した。興味深いことは、こうした規定は、新左翼系の革共同・ブントとも同じ見方に立っていることであり、左派的な主張であったということにある。が、構造改革派の特徴は、この後の実際の革命運動の進め方にあった。「現マル派」として結集しつつあった安東仁兵衛・佐藤昇・長洲一二・石堂清倫・井汲卓一・前野良・大橋周治・杉田正夫ら構造改革派のイデオローグたちは、前述したイタリアのトリアティの理論及びイタリアの共産党の構造改革の路線を紹介しつつ、党及び労働運動の流れを、反独占社会主義革命の現実的・具体的な展開として「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」へと向かうべきと主張した。これが新政治路線として左翼ジャーナリズムをにぎわかしていくことになったが、「平和共存」時代における「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動を指針させようとしていたことになる。つまり、見方によっては、この時点では「敵の出方論」を採用していた党路線より右派的な革命路線を志向しようとしていた訳であり、他方で日本の革命方向は社会主義革命であるというヌエ的なところがあった。こうした構造改革論は宮本式綱領路線と相容れず、宮本氏はこのちぐはぐ部分を見逃さず、右派理論として一蹴していくことになった。
ところで、以上のような解説以外に付け加えておくことがある。どうやら、春日(庄)ら構造改革派の離党には、「60年安保闘争」におけるブント指導の全学連の評価問題が絡んでいたようであり、春日(庄)らは、ブント的運動を宮本系の言うようなトロッキストの跳ね上がりとはみなさず、党指導による取り込みないし連帯を指針させていた節がある。こうした見解の分裂により、翌61年の第8回党大会に至る過程で春日(庄)ら構造改革派は除名され、集団離党していくことになる。その学生戦線として民青同の幹部が連動し分派を結成していくことになるようである。ちなみに、現在の党路線とは、外皮を宮本系の民族的民主主義革命から始まる二段階革命論で、中身を構造改革系の「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」に向かう「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動と連動させていることに特徴が認められる。これは、不破委員長自身が若き日に構造改革系の論客であったことと関係していると思われる。
7.4-7日全学連第16回大会は三派に分かれて開催されることになった。この第16回大会こそ、全学連統一の最後のチャンスであった。運動論・革命論や安保闘争についての総括について意見がそれぞれ違っても、全学連という学生組織の統一機関としての機能を重視すれば賢明な対処が要求されていたものと思われるが、既に修復不可能であったようである。全学連主流派は、全学連第16回大会参加に当たって都自連の解散を要求したようである。都自連を中心とした反主流派は、①.都自連解散要求の撤回、②.第15回大会は無効である、③.8中執の罷免取り消しを要求したようである。それらは拒否された。お互い相手が呑めない要求を突きつけていることが判る。こうして、全学連第15回臨時大会に続き反対派が閉め出されることになり、全学連の分裂が固定化していくことになった。
こうして全学連第16回大会はブントと革共同全国委派だけの大会となった。反主流派は暴力的に排除されたと云われている。大会では、それぞれの派閥の安保闘争総括論が繰り返され、もはや求心力を持たなかった。委員長に唐牛、書記長に北小路を選出した。「6.19以後の学生と労働者、人民の闘いは、日本帝国主義が安保にかけた二つの政治的目標-国際的威信の確立と国内政治支配の確立-を反対物に転化せしめたがゆえに安保闘争は政治的勝利をもたらした」と総括し、60年秋こそ決戦だとした。
これに対し民青同系都自連は、全学連第16回大会参加を拒否された結果、自前の全学連組織を作っていくことになり、7.4-6日全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成した。都自連を先頭に全国的な連絡会議の確立に奮闘し一定の支持を受けたと言うことになる。全自連は、全学連の規約を守り、民主的運営の回復のために闘うことを明確にしていた。連絡センターとして代表委員会を選出し、教育大・早大第一文・東大教養学部、神戸大などの自治会代表が選ばれた。党は、これを指導し、党員学生がほぼその指導部を制していた。この流れが以降「安保反対、平和と民主主義を守る全学生連絡会議」(平民学連)となり、民青系全学連となる。ところが、この過程で、全自連指導部は前述した構造改革派の影響を受けていくことになった。構造改革派は、東京教育大学・早大・神戸大・大阪大などの指導的活動家等の中に浸透しつつあった。
時は移り、7.15日第二次岸内閣総辞職。7.17日全学連、三池争議に350名の支援団派遣。7.18日宮本書記長、「三井三池の闘争に全党から応援隊を」と呼びかける談話を発表。7.19日第一次池田内閣が成立していた。
7.29日ブント第5回大会が開催された。この大会は大混乱を極めた。「60年安保闘争」が事実上終息し、安保闘争の挫折が明らかになったことを受けて、「ブント-社学同-全学連」内部で、安保条約の成立を阻止し得なかったことに対する指導部への責任追及の形での論争が華々しく行なわれることになった。論争は、この間のブント指導の急進主義的闘争をどう総括するのか、その闘争の指導のあり方や、革命理論をめぐっての複雑な対立へと発展していくこととなった。ブント書記長・島氏は燃え尽きており、既に指導力を持たなかった。この過程で指導部に亀裂が入り、この後8.9日から10月にかけて東京のブント主流は三グループ(それぞれのグループの機関紙の名前をとって、革命の通達派と戦旗派とプロレタリア通信派)に分かれていくことになった。
革命の通達派は、「もっと激しく闘うべきであった」と総括した。8.14日いわゆる星野理論と言われる「安保闘争の挫折と池田内閣の成立」を発表して、ブント政治局の方針を日和見主義であったと攻撃した。それに拠れば、「安保闘争の中で、現実に革命情勢が訪れていたのであり」、「安保闘争で岸政府打倒→政府危機→経済危機→革命」という図式で、権力奪取のための闘いを果敢に提起すべきであったという。「ブントの行動をもっと徹底して深化すべきであった」、「政治局は階級決戦であった安保闘争を過小評価した」と左から批判した。革命の通達派は東大派とも言われ、東大学生細胞の服部信司・星野中・長崎浩らによって構成されていた。これに対し、戦旗派は、ブント的闘争を否定する立場に立ち「組織温存の観点が欠落した一揆主義であった」と総括した。革命の通達派の主張を「主観主義」、「小ブル急進主義」と規定し、革命の通達派的総括は「前衛党建設を妨害する役割しか果たさない、マルクス主義とは縁のない思想だ」と反論した。彼らに拠れば、概要「この間のブント的指導は、安保闘争の中で前衛党の建設を忘れ、小ブル的感性に依拠した小ブル的再生産闘争であり、プチブル的運動でしかなかった」、「その根源はスターリニズムに何事かを期待する残滓的幻想にあり、前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化を為すべきであった」と主張した。戦旗派は労対派とも言われるが、森田実・田川和夫・守田典彦・西江孝之・陶山健一・倉石・佐藤祐・多田・鈴木・大瀬らが連なった。唐牛委員長・社学同委員長篠原浩一郎もこの派に属したようである。プロレタリア通信(プロ通派)派は、全学連書記局派とも言われるが、両者の中間的立場に立って「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ」と主張した。この派には、青木・北小路敏・清水丈夫・林紘義らが連なった。
こうして、安保闘争の総括をめぐって「ブント-社学同-全学連」の分裂が必至となった。つまり、ブントは結成からわずか2年で空中分解することになったという訳である。結局ブントは、革命党として必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊したことになる。60年始め頃から露呈し始めていたブントの思想的・理論的・組織的限界の帰結でもあった。こうしたブントの政治路線は、「革命的敗北主義」・「一点突破全面展開論」と言われる。これをまとめて「ブント主義」とも言う。ただし、この玉砕主義は、後の全共闘運動時に「我々は、力及ばずして倒れることを辞さないが、闘わずして挫けることを拒否する」思想として復権することになる。とはいえ、明大や中大ブントは分裂せずに独自の道を歩んだ。こうして東京のブントは分裂模様を見せたが、「関西ブント-社学同」は独自の安保総括を獲得して大きな分裂には至らなかった。この流れがのちの第二次ブント再建の中心となる。ここまでの軌跡を第一次ブントと言う。
このブント創出から敗北と崩壊の過程について島氏は戦後史の証言ブントの中で次のように語っている。「確かに私たちは並外れたバイタリティーで既成左翼の批判に精を出し、神話をうち砕き、行動した。また、日本現代史の大衆的政治運動を伐り開く役割をも担った」、「あの体験は、それまでの私の素質、能力の限界を超え、政治的水準を突破した行動であった。そして僅かばかりであったかも知れぬが、世界の、時代の、社会の核心に肉薄したのだという自負は今も揺るがない」、「私はブントに集まった人々があの時のそれぞれの行動に悔いを残したということを現在に至るも余り聞かない。これは素晴らしいことではないだろうか。そして自分の意志を最大限出し合って行動したからこそ、社会・政治の核心を衝く運動となったのだ。その限りでブントは生命力を有し、この意味で一つの思想を遺したのかも知れぬ」、「安保闘争に於ける社共の日和見主義は、あれやこれやの戦略戦術上の次元のものではない。社会主義を掲げ、革命を叫んで大衆を扇動し続けてきたが、果たして一回でも本気に権力獲得を目指した闘いを指向したことがあるのか、権力を獲得し如何なる社会主義を日本において実現するのか、どんな新しい国家を創るのか一度でも真剣に考えたことがあるのか、という疑問である」。
9月ブント・革共同系全学連主流派25中委は、「安保闘争は政治的にも敗北であった」総括にとって替えられた。革共同のイニシアチブが進行しつつあったことが判る。9月アカハタ紙上で党指導の批判者への攻撃を続ける。党内構造改革論者は党外出版物で活動する。9.5日池田内閣が「所得倍増政策」発表。9月清水.浅田・三浦・香山らが「共産党の犯した重大な誤りについて徹底的な批判」を加え、非共産党の新左翼への結集を呼びかける「現代思想研究会」が発足した。10.8-9日ブント・革共同系全学連都学連13回大会は、反主流派を排除した中で、主流派内部での意見の違いと混乱が暴力事件にまで発展し、遂に流会した。10.12日浅沼社会党委員長、日比谷公会堂に於ける自民・社会・民社の立ち会い演説中に大日本愛国党員山口二矢によって刺殺される。
10.15日社会党の青年運動組織の結成がなされた。社会主義青年同盟(社青同)の誕生である。遅まきながら社会党は、党の民青同育成方針にならってこのポスト安保直後の時点で自前の青年運動創出の必要を党議決定し、誕生させたということになる。社青同は、同盟の性格と任務として「独占資本の攻撃に対する統一政策、政治路線、組織路線を明らかにし、活動家の大同団結による青年の強大な戦線をつくり、指導する青年同盟」とし、「労働青年を中心に各層青年の先進的活動家の結集体」、「すぐれた活動家の個人加盟組織」、「日本の社会主義革命の勝利の為に闘う政治的実戦部隊」とする階級的な青年運動を志向していた。特徴的なのは社会党との関係であり、「一応社会党から独立した組織とし、現在の社会党に対しては批判はあるが、これを支持し、社会党との間に正式に協議会を持ち、社会党大会には支持団体として代議員を送る」関係として位置づけた。つまり、党と民青同との関係ほどには統制しない緩やかな組織結合を目指したということになる。この社青同はこの後社会党内の左派的潮流を形成していくことになる。ブント運動の花粉が意外なところに運ばれ結実したとも考えられる。
10.20日第23次全国統一行動、全国40カ所で新安保反対・浅沼暗殺抗議全国大会。10.28日「池田内閣打倒」をスローガンとして集会が催されたが、ブント・革共同系全学連各派合わせて1000名以下、学生戦線は低迷状態に入った。11.20日第29回衆議院議員総選挙が行われ、党は得票数115万6733票(2.9%)獲得し、前回の101万を14万増やした。安保闘争の中心地東京では、前回より1万票少なく、得票率も前回より0.6パーセントへっていた。議員数は前回の1名に対し3名当選(大阪1区志賀義雄、同2区川上貫一、京都1区谷口善太郎)した。自民296、社会145、民社17、諸派1、無所属5。
11.10-12.1日「81カ国共産党.労働者党代表者会議」に党代表団団長宮本書記長・袴田・西沢富夫・米原が参加した。モスクワ会議への代表派遣という重大問題について中委総会にはからず、単に全員でない幹部会をもっただけで勝手に決めた。結局自分らの派閥だけで代表を決定した。予備会議と本会議を通じて国際共産主義運動の諸問題について討論が行なわれた。共産党・労働者党代表者会議の声明及び全世界諸国人民への呼びかけが全員一致で採択された。12.7日モスクワにおける「81カ国共産党・労働者党会議の声明」が発表された。57年秋に出されたモスクワ宣言を受け継いだ今度の新声明は、世界の共産主義運動の綱領的文書たる意図を持ち、全世界の民主主義・社会主義の勢力に共通の方向と方針を与えようとするものだった。中ソ双方の意見の取り入れ、イタリアの構造改革コースをめぐる西欧での対立的見解をも適宜に取り入れた折衷的産物だった。日本革命にとって問題は、「アメリカ帝国主義の政治的・経済的・軍事的支配にあるヨーロッパ以外の発達した個々の資本主義諸国」のために、民族独立民主主義革命と社会主義革命との2段階の戦略的な任務が指示されていた。党内にこの規定をめぐって論争が生じた。党中央派は、旧党章草案の基本路線が指示されているのだと主張し、反党章派の構造改革派は、反対に日本の構造改革コースに基づく社会主義革命の方針の正しさが立証されていると主張した。問題は、日本における革命コース方式を何らかの国際的基準によって権威付けようとする双方の態度そのものに存在した。
12.8日第二次池田内閣成立。12.27日池田内閣は、閣議で国民所得倍増計画を決定した。以降日本経済は高度経済成長時代を向かえていくことになる。12.18-28日「第14回中総」。先の選挙結果の評価で意見が対立した。「総選挙の結果と当面の任務」を決議したが、その採決では、中野・西川・亀山・神山の4人の中委が保留を表明し、ここに満場一致という13中総までの中央の先例が破られた。その他「共産党・労働者党代表者会議の声明」及び「全世界諸国人民への呼びかけ」に関する決議を採択。
全自連は、ポスト安保後の60年後半期「民主勢力の前進」に向け共産党への支持活動に取り組んだ。急進主義派が安保後の挫折感に浸っている間に、浅沼刺殺抗議闘争、総選挙闘争に取り組む中で勢力を拡大し、60末には約170自治会を結集し、全学連組織のほぼ50パーセントを占めた。12.17-18日全自連4全大で、「日本の学生運動の主流はもはや全自連である」と宣言し、新たな全学連の結成を決議した。