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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

考察その三、補足「日本共産党第8回党大会」について

1999/12/20 れんだいじ、40代、会社経営

 党は、61年になって「日本共産党第8回党大会」を開催しており、この経過は今日的に見ても見過ごすことが出来ない部分が多いと判断し、別立てでウオッチしておくことにする。その理由は、今日「さざ波通信」誌上で指摘されている党の非民主的運営の原型のほとんどがこの「日本共産党第8回党大会」前後のプロセスに現れていると思われることによる。もう一つの理由は、今日の党を支持する最後の絆として綱領路線への依拠が言われていることに対しても、無慈悲ではあるがそれは党支持の基準にはならないということを指摘したいためである。私の意図は、現執行部の依拠する正当性に対して根本から否定を試みようとすることにある。私の精神においては、このことと党の支持・不支持とは一切関係ない。党は党であり、歴史を持つ。新時代のよりましな社会の仕組みづくりに向けて奮闘して貰いたいと思う。社会にそういう緊張感があってこそ世の中は良くなると信じている。現下の風潮は左翼の不在であり、これは却って国を危うからしめると思っている。

「日本共産党第8回党大会」について
 1月ソ連共産党第22回大会におけるフルシチョフの公然たるアルバニア批判と周恩来のそれへの反論によって中ソ論争が公然化している。アメリカではケネディー大統領が就任している。この頃党は、党内に構造改革派が発生し大きく揺れている。2月党中央は、東京都千代田区・東京都・大阪府・その他の党会議において、構造改革派系革新派分子に圧力をかけて役員から排除している。2.15日学生新聞を創刊して、構造改革派に握られた「全自連」の指導権回復に乗り出している。
 3.1-13日と25-28日までの2回にわたって「第16中総」が開かれた。この間58年の「第2中総」で設置された「綱領問題小委員会」は、都合29回の会議を経てきたが、この「第16中総」に決議用「綱領草案」が提出された。しかるに「綱領草案」は大激論を生み結局満場一致とならず、中央役員44名中、4分の1に近い10名が反対又は保留した。内訳は、中委31名中、亀山・西川・山田・内藤・波多の5名が反対。神山・中野の2名が保留。決議権を持たない中委候補6名中2名が反対。また中央統制監査委員7名中、議長の春日(庄)が反対。また中委の政治報告草案についても6中央委員が反対し、中委候補2名が保留した。結局最終日の3.28日「綱領草案」は多数決で決定された。
 綱領問題に決着が付けられるまでに2年半の経過を要したことになり、かなりの難産であったということになる。この時、大会議案に反対と保留の中央委員または中委候補は、自らの意見を下部の機関や組織で述べてはならず、400字詰原稿用紙25枚以内にまとめた意見書を、希望によって党報に発表することが出来ると決められた。以後、党中央による綱領反対派に対する統制・抑制・官僚的圧迫が強化されることになり、予備工作が進行した。
 4.12日アカハタは、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責を問われた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分をページ全面に発表した(中委書記局「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反に関する決定の発表にあたって」)。4.17日アカハタはこのアピールに賛成して中央の説得に従わなかった数名の同志が、規律違反の処分を受けた顛末を報じた。数名の同志とは、主に「新日本文学会」に属する小林勝・柾木・岡本・大西・小林祥らの作家・評論家たちであった。
 4.30日アカハタ特別付録として「綱領草案」が、5.3日アカハタ特別付録として「中委政治報告草案」が発表された。第7回大会の時は、「党章草案」が57年9月発表されて、翌58年7月に大会が開かれたのだから、10ヶ月にあまる討議期間があった。この度は7月下旬に予定された大会まで3ヶ月に足らなかった。5.6-8日都道府県委員長会議において、中央から綱領討議に対する厳重な規制が指示された。以後7月にかけての都道県党会議において、革新反対派への抑圧を強化し、反対派議員の排除が強行されていった。5.9-11日全国活動者会議。5.13日アカハタに規約一部の改正草案が発表された。
 6.9-10日「第17中総」で中央反対派の意見発表中止を決めた。6.12日アカハタは、「大会での討議は議案への賛否をあらわすことではなくて、議案の正しい理解によって各自の誤りをただすことである」という語るに落ちる党官僚の放言を掲載していた。6.14日論文「革命理論の形式的な理解と日本の現実への創造的適用-社会新報の綱領草案批判にこたえる」をアカハタに発表した。こうした中央主流の露骨な策動に対して、反対派の動きははなはだ力弱く、不十分であった。主流派が規約違反の勝手な専断ぶりを示しているのに、反対派は日頃言い含められてきた組織原則を守って対抗運動にでなかった。これらの反対派の中にあって特殊な立場を示したのは、党内左翼反対派を自称する中共路線支持のレーニン主義者集団であった。彼らは、宮本ら党中央の官僚主義指導と統制を激しく非難しつつ、同時に構造改革論者をも現代修正主義として批判した(村崎泉美「第8回党大会と最近の党内情勢」団結第17号)。
 党中央は、反対分子の多いと見られる地方組織に主流派幹部を派遣して、党会議を統制し締め付けをはかった。都道府県党会議の段階で、反対意見を封じ反対分子を排除してしまえば、党大会は彼らの意のままになる道理だった。ここに草案反対者は機関として推薦できないとして、あらかじめ代議員候補のリストからはずすといった規約蹂躙の工作が、全国的に展開されていくこととなった。とりわけ、東京と大阪が集中的な目標とされた。野坂・宮本・袴田・志賀・松島・聴濤・土岐・川上らが手分けして各県の党会議に乗り込んで反対意見を封殺していった。この間、先の16中総の申し合わせで春日(庄)以下10名から提出された意見書の内容は党報へ掲載される権利が留保されていたが、「16中総」の決定をゆがめて伝える恐れがあるという理由で、結局約束は反故にされ、党報への掲載が中止されることとなった。大会直前に発効された前衛8月号には、志賀・袴田・松島・米原らの草案支持の論文をずらり揃えた上で、内藤・内野(壮)・波多らの反対意見書を投稿扱いで載せた。
 府県から地区に至る党会議や委員会総会は、すべて草案を踏み絵として党員を点検する検察の場と化し、大会代議員の選出は、選考委員会によって推薦名簿の段階で厳重にふるいにかけられ、批判意見を持つ代議員候補者は、ほとんど故意に落とされた。「中央は絶対に正しい」、「中央に忠実な機関は又正しい」という詭弁が党の組織体質として定着化していった。この結果、7月上旬までに全国にわたってほぼ終了した大会代議員の選出では、綱領反対派又は反中央分子とみられるものは完全に近く排除されていた。799名のうちわずか10数名がそれではないかと見られたに過ぎない。
 このような状態になるに及び、党内の反対派は7.1日付けで遂に党の内外に公然とアピールを発した。千代田地区細胞(森田・栗原・津田・池山・深沢ら)が、綱領問題に関する意見を「日本人民と党の未来のために」の声明につけて発表した。7.8日、春日(庄)は離党届けを出し、同日夜記者団に、綱領草案の基本的な誤りだけでなく、反対派代議員の選出の組織的排除や反対意見書の発表の一方的中止措置などの措置によって、党内民主主義が踏みにじられ、原則的な党内闘争による改善の見込みはなくなったとする離党声明を公表した。
 7.15日山田・西川・亀山・内藤・内野・原の中央少数派が連名で、14日付けの「党の危機に際して全党の同志に訴う」声明を発表した。大会を前にして現職の統制監査委議長が離党し、中央委員グループが公然と中央批判したことは前代未聞であった。7.19日「新日本文学会」の党員作家・評論家グループは、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、大会を延期せよ」とする意見書を提出した。安部公房・大西巨人・岡本・栗原・国分・小林祥・小林勝・佐多・竹内・菅原・野間・針生一郎・檜山・花田の14名が連名していた。中野は意見書を勧めながら、連名しなかった。
 7.20日党中央は、「第18中総」で春日・山田六左衛門等7名を除名にし、この前後多数の地方機関役員その他を処分した。反対派への大々的カンパニアが展開された。7.22日新たに泉・丹原・黒田・武井・玉井・中野秀人・浜田・広末・柾木の9名を加え、国分・佐多の2名を除いた「新日本文学会」の党員グループ21名連署で党の内外に宮本派指導部非難のアピールを発した。「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本・袴田・松島らによる党の私物化がもたらしたものである」として、彼ら派閥指導部の指導の誤りと独裁的支配、規約の蹂躙と党組織の破壊の事実を挙げ、言葉激しく非難した。7.23日野田・増田・山本・芝・西尾・武井ら6名の旧東京都委員会グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明を発表した。7.24日増田・片山等が連署で離党声明を公表した。山田も。各地方の反対派の離党声明や中央攻撃声明など続々と発表された。大会を前にして党主流の派閥支配に対する怒りと不満が爆発して党の分裂状況が生まれた。
 これに対して、党中央は、7.9日アカハタで幹部会声明と同日の野坂談話、7.10日アカハタで野坂が、「春日(庄)の反党的裏切り行為について」、7.17日「党破壊分子の新たな挑発について」で応戦した。その後は、全国各級機関にわたって、「反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義」等々の大々的非難攻撃キャンペーンを開始した。この一連の過程で宮本氏の秘書グループの暗躍があったとされている。7.20日「第18中総」。党中央は春日ら7名の除名を規約を無視して決定した。この時、波多は綱領草案に対する反対意見を、神山は保留の態度をそれぞれ撤回した。党中央は、7.24日武井、9.2日大西、9.6日針生・安部らを除名。大会までに発表された被処分者は、除名28名.党員権制限9名で、被除名者には中央委員7名、中央部員2名、元都委員8名、県委員1名、理論家及び編集者グループ10名が含まれていた。その他地方組織において、府県委員以下の離党又は処分が大量に見られた。
 以上の経過を経て第8回党大会が開かれることになる。このたびの党創立77周年記念講話で、不破委員長が満場一致で現綱領が採択されたと自画自賛したお気に入りの大会であるが、以下これを俯瞰してみることにする。7.25-31日、日本共産党第8回党大会が開かれた。審査を通過した798名の代議員。規約にある2年に1回という規定に反して、前大会から3年目であった。神山・中野の2中央委員と統制監査委員の松本惣は、病気の中委候補間瀬場とともに、どこからも代議員に選出されなかったため、決議権をもたない評議員の資格で出席を許された。大会の眼目は、新綱領の採択にあった。大会では、綱領・政治報告などを討議した。「春日庄次郎一派の反党的、反階級的裏切り行為の粉砕にかんする決議」を全員一致で採択した。反対派が全部排除されたため議案は全て全員一致で採択された。中央役員の選出は、中委原案通りにしゃんしゃんの全員一致で決定した。反党的潮流を日和見主義として全面的に批判し、綱領とそれに基づく政治報告を決議した。数十万の大衆的前衛党建設の目標を提起。党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画を全党的につくり、取り組むことを決定した。
 万一綱領反対者が発言しないかと恐れた中央は、大会運営の厳重な統制をはかり、大会発言者には全て事前に発言の要旨を文書で提出させ、綿密に審査した後大会幹部団の指名によって発言を許可するということにした。野坂の政治報告・宮本の綱領草案報告は、拍手又拍手の中で行なわれ、それらの討論は中央に忠誠を誓う儀式とかわりなかった。その後の大会討議においては、反対意見は姿を消し、綱領草案についてもこれの実践的検証を誓う没理論的発言か、草案反対派との闘争を手柄話にするお茶坊主発言が相次いだ。神山・中野・波多らは綱領草案支持を表明し、かつて反独占社会主義革命を主張した中西・鈴木らも自己批判して草案支持を明らかにした。志賀は、会期中発言らしい発言を一度もしなかった。こうして議案は綱領以下全て全員一致で採択された。このことを党史では次のように言う。概要「(大会が採択した綱領は、)党内民主主義が完全に保障されているもとで4年間にわたって全党的に討論を尽くし党の英知を傾けて創造された、日本人民解放の科学的な指針である」、「日本革命の正しい路線を歪め、党と労働者階級を米日反動に対する革命闘争からそらせようとする各種の日和見主義、右翼社会民主主義、トロッキズムなどとの激しい闘いによって、一層磨きをかけられたものであった」(日本共産党の65年)。
 7.31日の役員選挙は、無記名連記で行われた。新中央の大幅増員。中委は31名から60名。中委候補は6名から35名。統制監査委は7名から8名。新中央には、党勢拡大その他主流に忠実だった都道府県委員長・委員クラスが大量に登用された。前大会で責を問われて中委の候補者リストから外されていた旧所感派の悔い改め派・紺野ら数名が中央委員に復活した。神山・中野はかろうじて中委に入れられた。波多や神奈川県委員長として党勢拡大に好成績をあげた中西功などは中央に入れられなかった。
 大会最終日の31日と8.2日の二日間「第1回中総」を開いて、中委議長野坂・書記長宮本、中委幹部会員として野坂・宮本・袴田・志賀・春日正・蔵原・聴濤・松島・鈴木が、書記局員として宮本・袴田・松島・米原・伊井・安斎・紺野・土岐・平葦・高原の10名を選出した。野坂・志賀は実質上棚上げされた。これに代わって宮本・袴田という戦前の党の最終中央コンビが指導権を握り、その周辺に宮本忠誠派の松島・きくなみらが配置された。こうして宮本盤石体制が確立した。
 この当時の党の〈世界情勢に対する認識〉について。「アメリカ帝国主義は、世界における侵略と反動の主柱、最大の国際的搾取者、国際的憲兵、世界各国人民の共通の敵となっている」と認識した上で、「アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際的統一戦線を、世界の反帝民主勢力の当面の基本任務」として提起した。〈国内情勢に対する認識〉について。 国家の独立をめぐっての「従属」規定が引き続き採用され、51年綱領の「植民地.従属国」から「高度の資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国」と規定した。ここから日本を基本的に支配する者は、「アメリカ帝国主義とそれに従属して同盟関係にある日本の独占資本勢力との二つである」とする「二つの敵論」を一層明確に導き出していた。当面の革命は、「民族の完全独立と民主主義擁護の為の人民民主主義革命である」とし、これを社会主義革命に急速に発展させるべきだとするいわゆる2段階革命の戦略方針をとった。基本的に旧党章草案と同じであったが、旧党章草案時の「平和・民主・独立」と順位が替えられて「独立・民主・平和・中立」なるスローガンとなった。
 〈党の機関運営〉について。規約改正は反動的に改悪された。党大会の召集の延期、下級組織の委員の移動と配置、地方における中委の代表機関の設置、党員の多い工場や経営の危機に対する中委指導に必要な措置これら全てが新たに中央委員会で出来るようになった。中央の権限強化だけでなく、幹部会は必要な場合常任幹部会を置くことが出来、幹部会は中央統制監査委員会に出席することが出来るようになって、今や中委-幹部会-常任幹部会と、少数独裁制への移行の保証が与えられるに至った。他方、規律違反で審議中の者は6ヶ月の枠で党員権利を停止されることとなった。鉄の規律や一枚岩の団結が強調された。こうして次第次第に執行部独裁化方向へ規約の改正がなされていくことになった。この辺りの規約改正経過について、現党員はどのようにご納得されているのだろう。ちなみに、イギリス共産党は、58年の第25回大会で「党内民主主義について」という文書を発表しており、ここでは次のように語られている。「党大会の討論の際には、各支部の内部ばかりでなく、さらに党機関誌の紙上でも相争う見解が自由に発表され無ければならないということ、党大会前の討論には、我々の機関紙誌はこれまでよりもずっと大きな紙面をさく必要があるということを、疑問の余地のないこととして承認し、明瞭に言明しなければならない。」、「大会前の討論の時期には、可能な限り広範な討論が開かれ、党機関紙誌は全ての見解と提案に目立った場所を与える義務があり、各支部は、大会日程に関する決議の中で、自分の政治的見解を述べる権利がある」。日本共産党は自主独立であるから、イギリス共産党が何を言おうと関知しないとでも言うのだろうか。