第6期(61年)【マル学同系全学連の確立と新潮流形成期】
この期の特徴は、三派(社学同・マル学同・民青同)に分裂した全学連内の分裂の動きが止められず、全学連執行部と反執行部が非和解的に対立し始めたことに認められる。ブント-社学同指導部の多くがマル学同に移動したことから、全学連執行部はマル学同が掌握することになった。これに対し、民青同は全自連を通じて自前の全学連創出に向かう事になった。他方、ブント-社学同残留組と革共同関西派と新たに生まれた社青同派と構造改革派が新潮流を形成していくことになった。年末には社学同残留組と社青同派と構造改革派による三派連合が結成された。こうして「全学連三国志」の世界へと突き進んでいくことになる。
60年後半期から61年の3月にかけて、党の構造改革派の動きに連動した新グループが生み出されることになった。民青同系の指導幹部黒羽純久全自連議長・田村・等等力らが「現代学生運動研究会」を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。ここでは、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構造改革路線に基づく独自の政治方針を掲げていた。なお、この間のブント的運動の評価に関する対立もあった。党中央は、「トロッキストは、その最大の目的が社会主義国の転覆と各国のマルクス・レーニン主義党-共産党の破壊にある。文字通りの反革命挑発者集団であり、また当然にわが国の民主運動の挑発的攪乱者である。彼らの極左的言動は彼らの本質を隠蔽するものに過ぎない。従って、トロッキストは民主運動から一掃さるべきであり、その政治的思想的粉砕は我が党だけでなく、民主運動全体の任務である」(日本共産党第7回党大会.14中総決議)と規定していた。が、黒羽らは、「トロッキストは、いわば共産党の『鬼子』」であり、「すなわち彼らの大部分は、共産党内部から共産党に愛想をつかし、あるいは『善意』と『革命的良心』をもって分かれていったのである」(現代学生運動研究会編「現代の学生運動」)として、むしろ共産党の指導の誤りこそトロッキストを生みだした根源であると云う立場をとった。つまり、「60年安保闘争」における党中央の指針に疑義を表明し、ブント全学連急進主義派の戦闘的闘いを好意的に評価し対立したということである。これを党から見れば、左派系トロッキスト学生追いだしの後今また構造改革派学生からの反乱を受けることとなり、いそがしいことであった。いずれも指導部の造反であったことが注目される。この後党と民青同は、構造改革派に握られた全自連の指導権回復に乗り出していくことになる。
4.5日全学連第27回中央委員会が開かれた。この会議は唐牛ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント-社学同の解体」が確認され、「マル学同-革共同全国委への結集」が宣言された。こうしてマル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至った。社学同委員長篠原は、当時の早稲田大学新聞紙上で「共産主義者同盟(ブント)の破産という中で、やはり革共同全国委員会というものが我々の問題として出てきているし、そういったものに結集する方向に社学同を指導するし、共産主義者同盟に指導されていたという社学同というのは解体して、全国委員会の指導のもとにある活動家組織としてのマル学同に個人的にはなるべくすみやかに現実の闘争の中で吸収されていくという方向を、僕は指導して生きたいと思っているんですね」とある。ただし、マル学同下の全学連の動きは、ポスト安保であったことと、ブント全学連的華やかさがなかったせいによってか諸闘争に取り組むも数百名規模の結集しか出来ぬまま低迷していくことになった。その中にあって、6.6日3000名が政暴法粉砕の決起大会に結集。6.15日「6.15日一周年記念総決起集会」に3000名結集。
三分裂したブントの一部が革共同系に流れていった。この様子を見ておくことにする。2月戦旗派(労対派)は、革命的戦旗派を経て、革共同全国委のオルグを受け入れ、大部分が革共同全国委へ向かった。4.20日組織を解散させての合同決議を行ない正式に合同した。田川和夫グループはこの流れである(田川氏は、後の革共同全国委分裂の際には中核派に流れ、さらに後の対革マル戦争の路線対立時に中核派からも離党することになる)。革通派は、池田内閣打倒闘争の中で破産を向かえた。この派からの移行は記されていないので不明。プロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、有力指導者ら一部が合流した。ちなみにプロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏などがいた。「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された。彼らはその後遅れてマル学同へ加盟する」とある。プロ通派の林紘義一派が独立して「共産主義の旗派」を結成するなど、こうしてブントは四分五裂の様相を呈することとなった。こうして社学同からマル学同への組織的移動がなされ、結局ブント-社学同は結成後二年余で崩壊してしまった。この時期までのブントを「第一次ブント」と呼ぶ。
ここで、ブントの解体の要因について考察しておきたいことがある。元々ブントと革共同の間には、深遠なる融和しがたい相違があったものと思われるが、史実は雪崩をうつかの如く革共同への移行がなされた。これは、結成間もなく「60年安保闘争」に突入していかざるをえなかったという党派形成期間の短さによるブントの理論的未熟さにあったものと思われる。「60年安保闘争」の渦中でそれを島-生田指導部にねだるのは酷かもしれないとも思う。私見は、ブントと革共同の間には単に運動論・組織論・革命論を越えた世界観上の認識の相違があったように捉えている。言うなれば、「この世をカオス的に観るのか、ロゴス的に観るのか」という最も基本的なところの相容れざる相違であり、ブントはカオス派であり革共同はロゴス派的であろうとより一層組織形成しつつあったのではなかったのか。この両極の対立は、人類が頭脳を駆使し始めて以来発生しているものであり、私は解けないが故に気質として了解しようとしている。
実際、この両極の対立は、日常の生活に於いても、政治闘争も含めたあらゆる組織形成・運動展開においてもその底流に横たわっているものではなかろうか。キリスト教的聖書にある「初めに言葉ありき」はロゴス派の宣言であり、日本の神道的「森羅万象における八百万的多神観」はカオス派のそれのように受けとめている。両者の認識はいわば極と極との関係にあり、ブントと革共同は、この相容れぬそれぞれの極を代表しており、相対立する世界観に支えられて極化した運動を目指していたのではなかったか、と思う。島氏により、この観点-ごった煮的カオス的な善し悪しさ-が、当時のブントに伝えられていなかったことを私は惜しむ。それは、「60年安保闘争」に挫折したにせよ、ブントのイデオロギーは護持されていくに値あるものと思うから。本来革共同に移行し難いそれとして併存して運動化し得るものであったと思うから。
どちらが良いというのではない。そういう違いにあるブント思想の思想性が島氏周辺に共有できていなかったことが知らされるということである。ブントのこの己自身の思想的立場を知ろうとしない情緒的没理論性がこの後の四分五裂化につきまとうことになる。あるのは情況に対する自身の主体的な関わりであり、ヒロイズムへの純化である。このヒロイズムは、状況が劣化すればするほど先鋭的な方向へ突出していくことで自己存在を確認することになり、誇示し合うことになる。惜しむらくは……というのが私の感慨である。
全自連は、3.16-19日「4全代」を開き、新学期闘争の体制を固めた。5月頃政治的暴力行為防止法案(政防法)が国会に上程された。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。5.21日全自連は「非常事態宣言」を発し、5.31日統一行動を設定し、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。遂に法案は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。マル学同全学連も既述したように取り組んではいるが、昔日の面影を無くしていた。その他潮流はこの期間中も分派抗争の最中にあったようである。
恒例の全学連大会の時期を迎えて、マル学同と反マル学同が思惑を絡めていくことになった。7.6日マル学同の全国大会。全自連も、7.6-7日「7全代」を開催し、大会への参加条件について、①.平等無条件参加、②.権利停止処分撤回、③.大会の民主的運営の3項目を決議した。マル学同に移行しなかった旧ブント-社学同と革共同関西派と社青同は、マル学同のイデオロギー的、セクト主義的な学生運動に反発しており、反マル学同で意見の一致を見て、大会前夜に飯田橋のつるや旅館で対策を講じた。これをつるや連合と言う。各派とも全学連の主導権を狙って画策したということであろう。マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応したようで、マル学同派による指導部独裁体制を企図した。この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れないが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになる。この当時一等秀でた理論的優位性を保持していた革共同全国委系の惜しむべき裏面と私は思っている。こうしたマル学同のやり方に反発して、つるや連合側は早朝より会場を占拠して対抗。マル学同はピケを張るつるや連合に殴りかかったがらちがあかず、角材を調達して武装し襲った。こうして会場を奪還したが、これが学生運動上の内部抗争で初めて武器が登場した瞬間であった。この角材ゲバルト使用を指揮したのが清水丈夫全学連書記長であったと言われている。興味深いことは、その乱闘の最中に全自連が会場に入って来ようとすると、マル学同とつるや連合は乱闘を中止して、一緒になって全自連を追いだし、全自連が去るとまた乱闘を開始したと言う。この感覚も一体何なんだろう。この乱闘は二日間にわたって行なわれ、最終的にはマル学同以外は大会をボイコットし、それぞれが大会を開くことになった。
全学連第17回大会はこうした状況の中で開催され、マル学同派の単独開催となった。代議員は282名と発表されている。実質は150名以下であったとも言われている。一切の他の党派を暴力的に閉め出した体制下で、大会議長を自派より選出し、議案を採決するというまさにマル学同の私物化された大会となった。大会はブント出身の北小路敏を委員長に選出し(新委員長に北海道学芸大の根本仁を選出したともある。よく分からない)、全学連規約を改正して、全学連の活動目的に前衛党の建設を学生運動の基本任務とする「反帝反スタ」路線を公然と打ち出した。つるや連合は、7.9日夜、代議員123名の連名で「我々の退場により、大会は流会したので民主的な大会の続行を要求する」旨決議した。全自連は、67大学125自治会、276名の代議員が集まり、7.10日教育大へ結集した。ところがこの時詳細は分からないが、全自連指導部は全学連第17回大会指導部と「ボス交」の結果全自連解散を為し、全学連再建協議会を結成したとのことである。恐らくこの時の指導部は構造改革派系であり、全学連の統一を切に願っていた構造改革派とマル学同派に何らかの合意が成立したものと考えられる。
党は、第8回党大会開催後のこの頃、「民青同第6回大会、第7回大会路線」を、第8回党大会で強行決議された党綱領によって修正するよう指示し、従わない同盟幹部を排除し、民青同を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えた。明らかな党による民青同の引き回しであったが、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになった。第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争は抑圧されるか後退することになった。日本における社会主義の展望、客観的必然性を青年に示し、日常の闘いと社会主義への志向とを結びつけることを拒否する傾向が強まり、社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になった。これは党が民主主義的「改良・改革」を「革命」と規定するというすり替えから発生しているものと思われる。「二つの敵」を経文のように繰り返すことにより、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。その結果、同盟員の理論的水準は低下し、その下部組織はサークル化傾向に沈潜していくこととなった。党中央は、なぜこうまでして社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろう、としか私には考えられない。
8.30日党は、主要都道府県学対部長会議を開いて、次のような指導をなしたようである。「過去二回の集団転落を生んだ当時の学生党組織の欠陥、弱点を克服して、厳密な学生内党組織の建設を進める為に」と称して、概要①.マルクス・エンゲルス・レーニンの古典と日本共産党の綱領、大会、中央委員会の諸決議の系統的学習。トロッキズム、現代修正主義のえせマルクス・レーニン主義の本質を見分ける能力を身につける学習、②.労働者的規律を重んじ、特に党費の納入、中央機関紙を読むこと、細胞会議に出席することなど、党生活の原則を確立し、党中央の諸決議を積極的に実践する、③.地区委員会の指導を強め、学生細胞は必ず地区委員会に集中する、④.学生の共産党への入党は、民青同盟の活動の中で鍛えられ、試された者を認める、⑤.従って強大な共産党を建設するためにまず民青同盟を拡大し、その活動を活発にし、同盟員のマルクス・レーニン主義の基礎の学習と労働者規律を強める(広谷俊二著現代日本の学生運動)。
前年の日本共産党第8回党大会前後の経過で、「反党分子」として除名され集団離党することとなった春日(庄)ら離党組は、10.7-9日社会主義革新運動(社革)の創立総会を開いた。議長春日(庄)・事務局長内藤。それより前の9月その青年学生組織として青年学生運動革新会議(青学革新会議)を結成した(10.6日ともある)。全自連グループのうち早大・教育大・神戸大・立命館大・法政大・東大などで呼応した。第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心としていた。その背景にあったものは、宮本式の不当な干渉によって民青同を共産主義的青年同盟に発展させる可能性が無くなったという認識に基づいて、マルクス・レーニン主義の原則に立脚する青年同盟の創設の課題を提起していた。青学革新会議の特徴は、この時期党が指導していた新たな全学連の創出を画策するのではなく、ねばり強く学生運動の統一を目指していたことにあった。但し、この方針はマル学同の独善的排他性に対する認識の甘さを示しており、遂に叶えられることのない道のりとなった。青学革新会議は、この経過をさし当たりブント急進主義派と社青同との統一戦線を志向しつつ活動していくこととなった。なお、青学革新会議は、「層としての学生運動論」を採用しており、この時期一層右派的な方向に変質させられつつあった民青同に比較すれば幾分かは左派的な立場にあったといえる。ソ連核実験再開への態度の違いも見られた。なお、このグループもまたこの後春日らの統一社会主義同盟と内藤派に分裂する。青学革新会議もこの動きに連動し、春日派は翌62.5月社会主義学生戦線(フロント.東大教養、神戸大等)、内藤派の系統として63.8月日本共産青年同盟(共青.教育大等)へと続く。
9.4-5日マル学同は、全学連27中委を開き、ソ連核実験反対闘争の方針を決議した。10.7日マル学同系、社学同系二つの都学連大会。10.15-16日全学連28中委では、「反帝・反スタ」路線を全面に押しだし、社学同残留派をブント残党派と言いなし、これら諸派を右翼分裂主義者と決めつけ、これと絶縁することを確認した。これに対し、社学同残留派は、社青同派、構造改革派とともに12月に反マル学同の三派連合を形成した。この年の秋の自治会選挙では、マル学同系・三派連合・民青同で激しく争われたが、マル学同系・三派連合が勢力を一定伸張させた。