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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

考察その三、(⑩)第6期(62~64年)

1999/12/24 れんだいじ、40代、会社経営

第6期(62~64年)【全学連の三方向分裂化と民青系全学連の「再建」】
 これより62年から64年までの動きについては逐一見ていかず、流れの基本方向を追ってみることにする。却ってその方が判りやすいと思うから。原水禁運動、中ソ論争問題等について重要な問題が呈示されていると思うが長くなるので割愛し学生運動内の動きを追っていくことにした。
 この期の特徴は、正統全学連執行部をマル学同が占め、民青同は別途に全自連→平民学連経由で全学連を再建させていくことになる。これに対して、社学同再建派・社青同・構造改革派が三派連合しつつ全学連の統一を模索していくことになるも、マル学同との間に折り合いがつかず逆に緊張が高まるばかりであった。ところが、世の中まか不思議な事が起こる。マル学同に流れ込んだ旧ブント系の影響を受けたか革共同全国委内に№1の黒田氏と№2の本田氏の間に確執が発生し、いわゆる革マル派と中核派へ分裂することになる。マル学同から追い出された形になった中核派が三派連合に合流していくことになり、この流れが民青同に続いて三番手の全学連を模索していくことになった。この過程であくまで全学連の全的統一を目指した構造改革派が抜け落ち、社学同再建派・社青同・中核派の新三派連合が誕生することになる。こうして、学生運動内部にはマル学同と民青同と新三派連合系という三大潮流が生まれ、その他に構造改革派系・「日本の声-民学同」派系・革共同関西派系等々という様々な支流が立ち現れることになった。この間旧ブント系の対立は治まらず合同-再分裂と目まぐるしく推移しつつ二度と求心力を持てなかった。この間の主要な動きについて見ておくことにする。
 (62年)3月日韓外相会談。4月キューバ危機、8月中ソ論争激化。
 5.25日池田首相は、大学管理問題として「大学が赤の温床」になっているとして大学管理法の必要性を強調した。民青同系は、この大管法闘争に真っ先に取り組み、この過程で6.1日全自連崩壊の後を受けて東京学生平民共闘を正式に発足させた(平民とは「安保反対・平和と民主主義を守る」という略語)。この動きが7.14-15日「学生戦線統一のための全国発起人会議」開催へとなった。全国より70余自治会参加。「安保反対・平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(平民学連)結成を呼び掛け、翌63年平民学連が結成されることになる。ちなみにこの時大管法闘争を重視したのは民青同系と構造改革派系だけであり、いわゆるトロ系急進主義者は闘争課題に設定していなかったようである。
 7月、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派の三派が連合して「全自代」を開催した。かれらは全学連再建を呼号し続けたが、折からの大管法に取り組むのかどうかをめぐっての運動方針食い違いが発生し最終的に暴力的な分裂に発展した。ブントは「憲法公聴会阻止」闘争一本槍を主張し、構造改革派が大管法闘争への取り組みを主張した。ブントが武装部隊を会場に導入して、構造改革派派を叩き出してしまった。こうして、連合したばかりの三派連合は空中分解した。この動きから判ることは、ブントの組織論における致命的な欠陥性である。一体全体ブント系は、「60年安保闘争」総括後空中分解したまま今に至るも四分五裂をますます深め統合能力を持たない。意見・見解・指針の違いが分党化せねばならないとでも勘違いしている風があり、恐らく「お山の大将」式に星の数ほど党派を作りたいのだろう。なお、意見の相違については、ゲバルトによって決着させたいようでもある。しかし、残念ながら少数派閥化することにより、このゲバルトにおいてもマル学同に対して歯が立たなくなってしまったのは致しかたない。
 私見に拠れば、キャンパス内における反対派封殺がなぜ犯罪的であるかというと、既述したようにも思うが、右翼・宗教運動家らの跋扈には無頓着でありつつ左翼意識の持ち主がテロられる事により、結果として左翼運動が縊死することになるからである。大体において学生内の左派系意識の持主は全体の2割もいれば良い方であり、この2割内で叩き合いをすることにより貴重な人士の輩出が制限されることに無頓着過ぎるのがケシカラナイと思う。これも既述したが、元々ブントは、カオス的世界観を基調にして運動の急進主義を主導的に担ってきたという経過がある。「60年安保闘争」の領導には、反対派の存在は許されるどころかそれらを前提としつつ主体的な自派の運動を創出していくことにより圧倒的な支持を獲得してきたという自信が漲っていたのではなかったのか。この前提を許容しえなくなったブントはもはやブントではなく、大衆から見放されるばかりの余命幾ばくかの道へ自ら転落していくことになったとしても致しかたなかろう。この経過もおいおいに見ていくつもりだ。
 この年夏の世界青年学生平和友好祭日本実行委員会で、共産党の指示に基づいて民青同の代表は、この間まで運動を一緒に担っていた構造改革派系青学革新会議の参加を排除した。思想・信条・政党・党派のいかんにかかわりなく、平和友好祭は元々平和と友好のスローガンの下に幅広く青年を結集する友好祭運動であったが、理由がふるっている。革新会議はファシスト団体であると言って参加を拒否したのである。昨日まで一緒に「平和と民主主義」の旗印を掲げて闘っていた旧同志たちを、反代々木化したからという理由しか考えられないが、反代々木=反共=ファシズムという三段論法によりファシスト視したのである。これを「前時代的な硬直した思考図式」といって批判する者もいるが、私には、宮本氏の「芥川論」考察で明示したように、氏の典型的な近親憎悪的気質による「排除の強権論理」の現れとしてしか考えられない。この論理は日本左翼(よその国ではどうなのかが分からないのでとりあえずこう書くことにする)の宿弊と私は考えている。いずれにせよ、この平和友好祭には自民党系の青年運動も参加していたようであるから、宮本式統一戦線論に隠されている反動的本質がここでも見て取れるであろう。このことは、第8回原水禁世界大会をめぐっての社青同に対する度を超した非難攻撃にもあらわれている。労働組合運動にせよ、青年運動にせよ組織的自主性を保障することは、党の指導原則であるべきことではあるが、何気ない普段の時には守られるものの一朝事ある時はかなぐり捨てられるという経過を見て取ることが出来る。先のカオス・ロゴス観で仕訳すると、宮本氏の場合にはロゴス派の系流であり且つ統制フェチという特徴づけが相応しい。
 10月中央教育審議会が大管法答申を出してくるなど一段と現実味を増すことになった。これを受けて、この時平民学連は、大管法闘争に大々的に取り組んでいくことを指針にした。11.13日平民学連結成に向けての「全国地方ブロック代表者会議」を開催した。そこで、民青同系105自治会。三派連合86自治会、マル学同51自治会という勢力分布が発表された。占有率40%ということになる。63年中の全学連再建方針を決議した。1ヶ月半後に再び代表者会議が開かれ、民青同系175自治会、反民青同系120自治会と発表した。占有率60%ということになる。この間の自治会選挙で民青同系の進出がなされたということになる。11.17日「大学管理制度改悪粉砕全国統一行動」を決定し、当日は東京3000名、全国7地区で集会、抗議デモを展開した。
 こうした大管闘争の盛り上がりを見て、三派連合も、更に遅れてマル学同もこの闘争に参入してくることとなった。11.30日マル学同も含めた四派連合が形成され、約4000名の集会が持たれた。この四派連合に対して、「民主運動の前進しているところには、『なんでも』『どこでも』介入して行き、それまでの自分たちの『論理』も『道筋』も意に介しないトロッキスト各派の無節操ぶりを示してあまりあった」(川上徹「学生運動」)と揶揄されている。
 大管闘争に取り組む姿勢の違いの背景に、民青同系といわゆるトロ系には「大学の自治」に関する観点の相違があることがこの後次第にはっきりしていくことになる。分かりやすく言えば、民青同系は学園民主化闘争を重視し、トロ系はこれを軽視するというよりは欺瞞体制とみなし権力機構一般と同じく打破の対象としていくというぐらいに真反対の立場に立つ。この後この差が次第次第に拡幅していくことになる。この問題もまた左翼運動内の未解明な理論的分野であり、相互に感情的に反発し合うだけで今日に至っているように思われる。この情緒性がたまらなく日本的と言えるように思う。
 この四派連合の直後マル学同内部で対立が発生する。この四派連合結成をめぐって、マル学同が三派との統一戦線闘争を組んだことの是非をめぐって論争が激化していくことになった。全学連委員長根本仁は四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた書記長小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義」と非難し、後者は前者を「セクト主義」と非難した。マル学同内部のこの対立は以降抜き差しならないところまで尾を引いていくことになった。
 (63年)「中ソ論争」の公然化。11.22日ケネディー暗殺される。
 4.1-2日革共同全国委に分裂が発生し、中核派と革マル派が誕生することになった。これを革共同の第三次分裂と言う。この分裂の直接の契機は、前年の62.9月の「第3回革共同全国委総会」(三全総)時点での革共同全国委の中心人物であった黒田氏と本多氏の間の抜き差しならない意見対立にあり、四派連合問題もまたこの延長線上で発生したものであった。つまり、革共同全国委内の黒田派と本多派の論争・抗争がマル学同内部にも波及していった結果として四派連合問題をも発生させ、これが導火線となって革共同の第三次分裂がもたらされたという経過になる。この抗争は次のように決着することになる。革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、黒田派についたのは現在JR東労組で活動している倉川篤(松崎明)氏と森茂氏らの少数であった。こうして黒田派は、革共同全国委から出ていくことになり、新たに革共同・革命的マルクス主義派(革マル派)を結成することになった。これが革マル派の誕生である。こうしてマル学同の上部指導組織の革共同全国委で路線対立が起きた訳だから、当然の事ながらマル学同内部にも対立が波及していくことになった。しかし、マル学同では逆の現象が起き、革共同全国委では少数派だった黒田派はマル学同ではむしろ圧倒的多数派であった。こうしてマル学同内部では革マル派が優勢を保ったため、本多派の方がマル学同全学連から追われ飛び出していくこととなった。本多派は以降新たにマル学同中核派を結成することになった。こうしてマル学同の学生組織も革マル派と中核派に分裂することとなった。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。これより以後は、革マル派が正統全学連の旗を独占し続け、早稲田大学を拠点に革マル派全学連として存在を誇示し続けていくことになる。
 この対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。「革共同の中にも実践派と書斎-評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのこと」(戦後史の証言ブント.古賀)である。大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。中核派は、大量に移入してきたブントの影響に拠ったものか元々のトップリーダー本田氏の気質としてあったものか分からないが、他党派と共闘する中で競合的に指導性を獲得していこうとして運動の盛り揚げの相乗効果を重視しようとしていた。議会闘争にも取り組む姿勢を見せる。黒田氏の主体性論に基づく「他党派解体路線」は大衆蔑視のプチブル的主体性であり、「セクト主義、理論フェチ、日和見主義」であると言う。これに対し、革マル派は、中核派は黒田理論の生命線とも云うべき主体性論を欠いた「大衆追随主義、過激主義」であると言う。例えば、この時期マル学同は他党派の集会に押し掛け攪乱する等の行動が見られたが、これは他党派は理論的に克服されるべき批判の対象であり、常に自派の質量的発展こそが正道であるとする「黒田理論」的観点からなされているものであった。革マル派にとっては、この「他党派解体路線」は理論の原則性として革命的主体理論と不即不離の関係にあり、曲げてはならない運動上の絶対基準原則であり、共闘による「水膨れ」は邪道でしかないと言う。運動論のこうした相違は当然組織論についても食い違いを見せることになる。情勢分析についても観点の相違が存在していた。中核派は革マル派に対して、「危機でないと論証力説して帝国主義と戦わない日和見主義」といい、革マル派は、中核派に対して、「主観的、信念に基づく危機感のあおり立て」と言う。もう一つの対立視点についても述べておく。両派とも綱領路線として「反帝・反スタ主義」を掲げるが、両派とも「反帝・反スタ」の比重について同時的に達成されねばならないとはするものの、幾分か中核派は帝国主義主要打撃論=反帝論より重視に近く、革マル派はスターリニスト主要打撃論=反スタより重視に近いという立場の違いがあったようである。この両派の対立の背景に、民青同系平民学連の進出に対する対応の仕方の違いも関係していたとの見方もある。中核派の小野田らは、これに対処するには三派との協調が必要と主張し、革マル派の根本らは、如何なる理由付けにせよ他党派との理論闘争を疎かにするような妥協を排し、断固思想闘争を展開することの必要性を強調した。
 これらの主張は、私には、どちらが正しいとかを決定することが不能な気質の違いのようなものではないかと思える。先のカオス・ロゴス識別に従えば、中核派はカオス派の立場に立っており、その意味では大量移入したブントの影響がもたらしたものとも考えられる。つまり、ブントが革共同全国委から中核派を引き連れて先祖帰りしたとみなすことが出来るかもしれない。実際に、中核派の以降の動きを見れば旧ブント的行動と理論を展開していくことになる。こうなると党の建設方針から労働運動戦術から何から何まで対立していくことになるのも不思議ではない。してみれば、革マル派の方が革共同の正統の流れを引き継いでおり、この間のブントの移入と中核派としての分離の過程は肌触りの違う者が結局出ていったということになるようである。
 7.16-18日民青同系全学連の先駆的形態として、平民学連が結成された。この大会には、全学連規約に準じて代議員が各自治会から選出された。72大学、121自治会、230名の代議員参加、傍聴者3500名を越えた。平民学連が重視したのは、自治会に関する次のような規約遵守基準を明確にしていたことにある。①.自治会は学生のあらゆる民主的要求を汲み上げ実現すること、自治会はみんなのもの、みんなの利益を守るもの、という観点の明確化。②.民主勢力との統一強化。安保共闘会議に結集し、人民の利益の中でこそ学生の利益が守られることを明確にすること。③.国際学連と共に反帝平和の国際統一戦線としての一翼として、全世界学生との連帯強化。④.自治会の民主的運営を徹底的に保障すること。この立場を貫くためには、学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要である。
 私は、この主張における「自治会の民主的運営を徹底的に保障すること」を支持する。ただし、この項目が「学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要である」と結びつけられることには同意しない。この主張はセクト的な立場の表明であり、その意味ではこの文章が接続されることにより「自治会の民主的運営の保障」はマヌーバーに転化せしめられていることになる。そういうセクト的対応ではなくて、「組織の民主的運営と執行部権限」理論の解明は今なお重大な課題として突きつけられていると思われる。この部分の解明がなしえたら左翼運動は一気に華開いていくことが出来るかもしれないとも思う。
 (64年)
 7月現在時点で、平民学連に結集ないし、民主化している自治会224・マル学同27・社学同22・社青同21・構造改革派38という力関係になった。占有率67%ということになる。民青同系が急速に支持を増やしていることが知れる。平民学連は、いよいよ全学連の再建が具体的日程に上ってきている段階と位置づけた。9月初め「全学連を再建しよう」という「全国学友への呼びかけ」発表。9.8日米原潜寄港阻止、アメリカのインドシナ侵略抗議、安保共闘再開要求の総決起大会。1200名の隊列を組んで参加。10.17-18日全自代開催。正式参加自治会150,オブザーバー自治会35,その他個人オブザーバー35名が参加した。全学連再建のための基準提案が決議された。①過去のいきさつに関わらず、②無条件で、③全ての学生自治会が参加でき、④全学連規約に従って、再建大会を開催しよう。提案は、賛成128・反対14・保留4で可決された。この時反対派の様子が明らかにされていないが、構造改革派とこの頃誕生していた志賀グループの「日本の声-民学同」派の影響下の学生グループであったようである。彼らは、民青同系全学連を新たに創る方向に向かうのではなく、諸潮流との統一を主張し、急進主義者む(トロッキスト)を含めた統一を模索するべきであり、その根回しのないままの全学連再建は時期尚早であるという全学連再建時期尚早論を主張したようである。川上徹著「学生運動」では、「それは惨めな失敗に終わった」とある。
 9.7-8日中核派・ブント・社青同は、新三派連合を結成した。だが、この新三派連合結成後まもなくブントの内部対立が生じた。特に平民学連に対抗するためにも、従来の政治闘争主義に対する自己批判が必要とする少数派(マルクス主義戦線派=マル戦派と独立社学同)とそうした観点に反発する多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)とに分裂して、ブントの勢力は急速に衰えていった。8.3日新三派連合は、「全学連再建準備全国学生集会」を開いた。これに先立って中核派は、都学連再建を企図したが、革マル派の妨害で失敗した。革マル派との対立を深めた中核派は7.2日夜、早大校内に於いて大乱闘事件を引き起こした。ところが、平民学連の呼びかけが出され、学生の中でそれが討論されてくるに及んで、新三派連合も革マル派も構造改革派も含めて連合して、10.19日「原潜阻止全国学生連絡会議」を結成した。この流れで全学連再建が議題に取り上げられたが、革マル派は一切の全学連再建は認めないという立場に固執し、新三派は自分たちだけでも即時全学連再建を主張した。構造改革派は、この時も諸潮流の統一を主張したようであるが、さんざん野次られた挙げ句暴力的に発言を阻止された。
 11月第9回党大会が開催され、民主連合政府構想発表された。この大会で党は、「学生大衆との結びつきを強め、反共分裂主義者と有効に闘い、機の熟しつつある学生運動の組織的統一を成功させるように援助しなければならない」と述べ、「学生運動が、全人民的政治課題に積極的に取り組むと共に、学生の生活上、勉学上の要求、文化、スポーツなどの要求にも十分な注意を払い、広範な学生を結集しつつ民族民主統一戦線の一翼として発展するよう、努力しなければならない」と強調した。「こうして、共産党と民青同盟は、学生運動それ自体の発展のために闘いつつ、学生の多面的な要求に基づく闘いを先頭に立って進め、さらに学生が将来も民主的、進歩的インテリゲンチァとして成長していけるように、長期的観点に立った指導を学生党員、同盟員に対して行なった。また、1960年、61年のトロッキスト、修正主義者との闘いの教訓に学んで、労働者規律と理論学習を強めていった」。
 12.10-11日民青系全学連が「再建」された。全自連→全学連再建準備協議→構造改革派の分離→平民学連→全学連の「再建」という流れで辿り着いた。この夜平民学連は第7回全国代表者会議を開き解散を決議した。こうして、革マル派全学連に続いて二つの全学連が出現することとなった。71大学129自治会から代議員276名、評議員182名。この全学連は順調に発展し、66年7月には全国の大学自治会の過半数(84大学・189自治会)を結集した。68年2月には国際学連の代表権を回復させた。「(この民主的学生運動こそ)戦前、戦後の進歩的、民主的学生運動の伝統を引き継ぐものであり、現代の学生運動の真の代表であり、かつ、祖国の独立と平和、民主主義を望む幾百千万の勤労人民の良き息子であり、娘である」(川上徹「学生運動」)とある。
 12.18-19日ブント・中核派らが中心になって都学連再建準備大会開催。革マル派は途中退場し、構造改革派は代表を送らなかった。12.20-21日「全自代」が開かれたが、革マル派は参加せず、構造改革派と中核派が対立して散会した。中核派が全学連即時再建を強く主張したことが原因であったようである。