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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

考察その三、(⑪)第7期(65~66年)

1999/12/26 れんだいじ、40代、会社経営

 第7期(65~66年)【全学連の転回点到来】
 この期の特徴は、もはや三方向に分化した学生運動の統一機運を最終的に破産させ、学生運動が新たな出発をしていくことを明確にさせたことに認められる。新たに新三派連合が誕生したことが全学連運動の転回点となった。社青同解放派と反戦青年委員会・ベ平連が誕生したのもこの時期である。65年初頭よりの慶応大学の学費値上げ反対闘争はその後に続く私立大学系の同種紛争のハシリとなった。2月アメリカのベトナム民主共和国に対する爆撃開始による反戦闘争と日韓会談阻止闘争という政治課題が、安保闘争後の低迷していた学生運動を盛り返させていくことになった。この頃既に党派的な運動能力を獲得していたのが革マル・民青同・社学同・社青同・中核派の五派潮流であり、これらのセクトが思い思いの理論と闘争方針を引き下げて以降の運動を組織していくことになった。中でも、後者の新三派系が反戦青年委員会との統一闘争を獲得しつつ台頭を見せていくことになり、その倍加する勢いで66年末新三派連合による全学連を誕生させた。こうして自称全学連が三系統確立されることになり、それぞれが競合しつつ学生運動を担っていくという学生運動の転回点に到達するに到った。
 この頃新たに、党の中国共産党との亀裂に伴い毛沢東思想の実践を強く主張する親中共系の日共左派系グループが登場することになり、学生運動内にも影響を与えていくことになった。この間ベトナム戦争がエスカレートしていく一方で世界的に反戦闘争の気運が高まり、この影響も加わってわが国の学生運動を一層加熱させていくこととなった。

(65年)
 この65年時点より、闘争が多方面かつ連続して行なわれていくことになる。これを追跡すれば紙数を増やすばかりとなるのでエポック的な事を経過順に見ていくことにする。なおこの年以降は、学園闘争の流れと自治会執行部争奪の動きとその関連、政治闘争の流れを区分して見た方が理解しやすいので三部構成とする。
(学園闘争の流れ)
 1.30日慶応大学で授業料値上げ反対全学無期限スト突入(2.5日終結)。これが学費闘争の先駆けとなった。9.21日高崎経済大学で学費値上げ反対闘争。9.22日お茶の水女子大で新学生寮管理規定に反対のストライキ突入。
(自治会執行部の争奪の動きとその関連)
 3.30日社青同解放派が結成されている。この頃社青同学生班協議会は、東大・早大等を中心に組織を拡大していく中で中央=協会派と対立し始め、こうした内部抗争の結果日韓闘争の経過で急進主義運動が分派化し、社青同解放派が結成されたという経過となった。社青同解放派は、その後政治団体として革命的労働者協会(革労協)を結成して、傘下の学生組織として反帝学評をつくった。もともと社青同は日本社会党が60年安保闘争後に、学生パワーに目を付けて党の若返りをはかって創設されたものであるが、ここへ戦闘的な過激学生がどんどん加入してきて、社青同内部で解放派を結成したというのが史実のようである。解放派は、社青同内部で着々と勢力を伸張させ、東京地本を占拠するまでに至る。なお、第四インター系の加入戦術で解放派を離れた部分もあるが、ブント系に比しての「四分五裂」は少ない。
 4.7日新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)が都学連再建準備会を結成した。呉越同舟ながら何とかして自前の第三の全学連を創出させようと企図していたということである。結成後アメリカのベトナム侵略戦争に抗議し、米大使館へ400名がデモ。新三派系は折からのベトナム反戦闘争に最も精力的に取り組んでいくことになり、この時点では動員が少ないものの次第に勢いを増していくことになる。民青同系全学連も4.22日アメリカ国務省政策企画委員長ロストゥ来日反対闘争に取り組み、羽田空港に3000名動員、抗議デモを行った。引き続いて来日したロッジに対しても連続してアメリカ大使館などに抗議行動を行った。7.8日中核派・社学同・社青同解放派の新三派連合が都学連結成。11大学・26自治会が参加していた。7月民青同系全学連第16回大会(この大会で先の再建大会を第15回大会とすることに決定した)開催。この大会では、学生の身近で切実な要求実現、学園民主化闘争を引き続き闘うこと、政治課題として10.5日の臨時国会開会へ向けて日韓条約批准阻止闘争に全力をあげて取り組んでいくことを決議した。この頃私立大学の学費値上げ反対闘争、反動的寮規則撤廃闘争も取り組まれた。79大学158自治会結集。12.8日早大で第二学生会館の管理運営権をめぐり大学当局と学生側が紛糾するという早大学会闘争発生。
(政治闘争の流れ)
 4.24日ベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)が初のデモ行進。発起人は、小田実・開高健・掘田善衛・高橋和己・篠田正浩など。この頃からセクトの枠にとらわれない一般市民参加型の反戦運動が立ちあがっていくことになった。このベ平連運動は、今日から見て貴重なメッセージを発信していることが分かる。一つは、ベ平連が闘争課題を「ベトナムに平和を!」と明確にしたことにより、その後のベトナム反戦闘争の巨大なうねりを創出させる発信元となったというプロパガンダ性である。一つは、「セクトの枠にとらわれない」という運動論を創出したことである。ただし、この時点では、セクトが漸くセクト化を獲得しつつ成長していくという「『正』成長」の時期であったのでさほど評価されることなくベ平連もまたセクト的に立ち上げられていくことになったが、セクト運動が「『負』の遺産」を引きずり始めた後退期頃よりはかなり合理的な存在力を示しえたた筈の見識であったと思われる。とはいえ、ベトナム戦争が終結すると共にベ平連も終息していくことになったのが惜しいと思う。結局もう一つの側面であった先進国特有の「一般市民参加型」運動の限界ということにはなる。しかしそれならそれで今からでも改良の余地は大いにあると私は考えている。
 こうしたベ平連運動創出の頃、社会党・総評系のそれ、共産党系のそれもまた折からの日韓闘争を絡めた統一行動を組織し始め「60年安保闘争」以来の大衆運動が動き出していくこととなった。革マル派系・民青同系・新三派系それぞれも取り組みを強めていくことになった。中でも新三派系の動員力が強まり、常時3000名規模の抗議デモを獲得していくことになった。これまで数年数百名規模で推移していたことを考えれば様変わりとなった。5.20日民青同ベトナム侵略反対の統一行動。5.21日各派が「ベトナム侵略阻止・日韓会談粉砕」の統一行動。5000名結集。6.9日の社会党系の「原潜阻止・全国実行委員会」と共産党系の「安保反対中央実行委員会」の一日共闘が成立し、民青系全学連は1万名結集。新三派系昼夜で8000名が抗議デモ。6.22日日韓会談が妥結した。この日民青系全学連は6000名結集し、集会とデモを行なった。新三派系も昼夜8000名が抗議デモ、とある(革マル派系も当然取り組んでいる筈であるが手元に資料が無いので割愛する)。
 8.30日反戦青年委員会が結成された。当時左翼戦線では日韓条約批准阻止のための運動の統一が叫ばれていたが、社会党・総評と党の間は安保闘争の分裂以来の対立が解けず、一日共闘の程度を出ない状態が続いていた。この頃ベトナム戦争が政治課題として急速に浮上し始めていた。そのような状況の中で、社会党青少年局、総評青年対策部、社青同の三者の呼びかけによって、社会党系の青年労働者組織として、すなわち「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止の為の、この闘争目標に賛成する全ての青年学生組織に解放された青年の自主的共闘組織」として反戦青年委員会が結成された。反戦青年委員会は、青年労働者の中への影響という「事業」を進め、これに一定の成果を得た点で左翼運動の史実に重要な貢献をしていることが注目されて良いように思われる。反戦青年委員会には「日共」系を除くあらゆる左翼集団77の団体・個人が参加していくことになった。7月に結成されたばかりの新三派系都学連も加入していた。
 60年代の青年左翼運動は、ほとんど学生運動に限られていたが、この反戦青年委員会が結成されると急速に労働者の間に浸透していった。反戦青年委員会のその後の経過は、次第に地区・職場・学校等に結成され組織も拡大していき、それと同時に急進主義化し始め、社会党及び日本共産党を「議会主義カンパニア派」と罵倒するに至り、これらとの「熾烈な党派闘争とそれを貫徹する独自部隊の結集」が革命的左翼の任務であるとするに至り、社会党・総評の統制が及ばないことになった。これを見て「新左翼が反戦青年委員会を組織拡大の場として『わたりに舟』で食い入った」とか、「社会党が『ひさしを貸して 母屋を取られる』ことになった」とか、「『反戦青年委員会』の結成は、こうしてトロッキストの息を吹き返させたという点でも、日本の青年学生運動、民主運動の統一の発展のためにとっても、重大な禍根を残すことになった」(川上徹「学生運動」)とあるが、果たしてそのように受けとめるべきであろうか。
 こういう総括の仕方こそセクト的なそれであると思われる。むしろ、この当時盛り上がりつつあった青年運動に着目して学生のみならず青年労働者の社会的意識を培養する観点から「公党としての歴史的責任」を社会党が果たしたのであり、むしろ党及び民青同は、新しい時代の激動期を向かえつつあった際に何らの指導性を発揮しようとしなかったばかりか、社会党系が組織した反戦青年委員会運動にセクト的に敵対さえしていったというのが史実であり、このことこそ反省すべきでは無かろうか。なるほど反戦青年委員会はその後の運動の盛り上がりの中で各セクトのオルグや加入などで自立性を失い、新左翼系セクトごとの勢力に分裂し、「全国反戦」はセクトが指導する「地区反戦」へと変貌していくことになった。しかし、だから反戦青年委員会の結成を「重大な禍根を残すことになった」と総括するというのは反動的ではなかろうか。私には、「愛される社会党」の真骨頂が垣間見えるように思われる。ここまで整理して分かることは、社会党は右派・左派ごった煮の中で意外と歴史的な役割を果たしてきているということが改めて知らされるということである。
 10.5日臨時国会開会冒頭、「日韓条約批准反対総決起集会」を開き民青同系1万人の学生が参加した。新三派系の労・学3000名が昼夜デモ。以降次第に数を増していき1~2万名規模の闘争へと発展していく。この頃から機動隊のデモ規制が厳しくなり、デモ隊の両側をサンドイッチでジュラルミン盾を手に並進していくことになった。10.15日反戦青年委員会結成後初の全国青年総決起行動。新三派系2600名を始め、1万7700名が国会へデモ。11.5日韓条約批准阻止総決起大会。新三派系労・学1万7000名が国会包囲デモ。11.9日日韓条約強行採決の暴挙に抗議して一日共闘が実現し、18万人の大集会とデモ。民青同系1万5000名が結集した。新三派系連日万余の数で国会デモ展開。12.17日椎名訪韓実力阻止闘争。羽田空港付近で1000名が機動隊と衝突。

(66年)
(学園闘争の流れ)
 1.18-20日早大学費値上げ反対闘争が始まった。全学連加盟自治会であった第一法学部と教育学部自治会の無期限ストライキ突入。全学共闘会議(大口昭彦議長)が結成された。以後150日間全学ストライキ闘争が戦い抜かれた。これは、前年の12月に、早大理事会が教授会にも諮らず、学生が冬休みに入ってから大幅な学費値上げを発表したことに対する憤激から始まった。連日約5000名の抗議集会が開かれた。2.21日機動隊が導入され、203名の逮捕者が出た。2.22日ロック・アウト。大浜総長は退陣に追い込まれた。
 この背景は次のように考えられる。自民党政府の教育行政政策は、この時期増大し続けるベビーブーマーの大学生化に対して何ら有効な受け入れ対策をなしえず、私学へ追いやってきた。一方で戦後直後の社会的合意でもあった「大学の自治」に対するお得意の官僚的統制を進めつつあった。「アメリカさんから頂いたものは日本の風土に合わぬ」というばかりの逆行コースへシフト替えしつつあった。私学経営者は、「大量入学→マスプロ教育→設備投資→借入金増→学費値上げ→大量入学」という悪循環に陥っていくことになった。自民党政府によるこうした教育費の切りつめという反動的な大学政策の一方で、大量の国家予算を財政投融資をはじめ、軍事費政策にはどんどんと予算を投入していた。これにどのように対応していくのかが早大闘争の課題であった。民青同系は、①.教育機会均等の破壊、②.大学運営の非民主的やり方、教授会及び学生自治会の自治権に対する侵害、③.一部理事による闘争弾圧の為の機動隊導入及び国家権力の介入等への批判を組織していくことを指針させた。併せて、④.ひものつかない国庫補助の大幅増額等を要求する学園民主化闘争を指針させていた。
 社青同解放派は、資本と労働の対立という観点からの大学=教育工場論に基づき、闘争を、教育工場を経営する個別資本=早大当局と個別労働=学生の闘いであり、教授一般は労働下士官と捉えたようである。こうした「個別資本からの解放」という理論は、その後学園闘争に対するストライキ、バリケード、武装、コンミューンの樹立へと発展する理論的基礎となった。民青同は、社青同解放派のこうした理論は先鋭理論ではあるが、自民党政府の反動的貧困な大学政策に対する闘いを放棄し、免罪していると批判した。この後明大闘争を担うことになったブントは、この時の早大闘争を総括して概要「各クラスにおける闘争組織という各自治会学年別連絡協議会方式が指揮系統を混乱させ、ひいては全学共闘の機能をマヒさせた」、従って「まさしくあらゆる闘争において、まず第一に要求されるものは、(自治会ではなく)強固な中央集権的な組織の存在である」とした。この理論はやがて「ポツダム自治会破産論」を導き出していくことになった。こうした諸理論の発展が、後の全共闘運動とその大学解体論の下地をつくっていくことになった。
 1.24日東大医学部自治会、インターン配置問題をめぐって卒業試験ボイコット闘争。これが後の東大全学部を巻き込んだ東大紛争→東大闘争に発展していくことになった。1月から3月にかけて横浜国大で学部の名称変更に反対する紛争が起こり、学生がキャンパスを占拠、教職員を排除して学生の自主管理を約1ヶ月余にわたって強行した。その自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した、自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的な事態が発生していた。6.24日青医連・医学連、インターン制廃止統一行動。11.23日明治大学で学費値上げ反対闘争による和泉校舎封鎖発生、11.30日明大全学闘争委員会、学費値上げ阻止の大衆団交。4000名結集。12.9日中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に白紙撤回の要求を認めさせるという学生側が勝利を飾った。
 (自治会執行部の争奪の動きとその関連)
 この春の京大同学会自治会選挙で占拠で民青同系が執行部を掌握した。民青同系は、3月段階で82大学174自治会を押さえたと報告されている。3.28日新三派(中核派・社学同統一派・ML派・社青同)が全学連結成に向けて全国自治会代表者会議開催。9.1日、 既に昨年4月関西派は、「マル戦派」と「ML派」の一部を結合して「社学同全国委員会」(社学同統一派)を結成していたが、このような曲折ののち更にこのたび「社学同統一派」と「マル戦派」の残存部分との合同がなって、ブントは「共産同第6回全国大会」(ブント再建大会)を開催するに至った。ここに6年ぶりに組織統一をみるに至った。これが、「第二次ブント」といわれるものである。他方、「ML派」の一部は、このブントの統合に反対し、毛沢東の思想である「人民戦線路線」を党の路線とし、「帝国主義を打倒するための人民革命」を目的として、68年「日本マルクス・レーニン主義者同盟」(ML同盟)・学生部隊=学生解放戦線を結成し、「第二次ブント」とは違った方向に進むことになる。9.22日新三派系全学連再建決議。10.20日全学連再建準備会。10.24日全学連、東京・大阪・広島・札幌で紀元節復活公聴会阻止闘争。11.12日「社革新」と「日本の声」派が合同し、「共労党」結成。議長に内藤知周、書記長にいいだもも氏が選出される。
 12.17日既に三派都学連を結成させていた新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)は、この頃ML派なども合流させた上で三派系全学連を結成した。これで三つ目の全学連の誕生となった。35大学71自治会・178代議員他1800名。委員長にはブントの斉藤克彦氏、書記長には中核派の秋山勝行氏、副委員長社青同解放派の高橋、社学同の蒲池氏が選出された。翌67.2.19日斉藤氏が失脚し以降中核派の秋山勝行氏が委員長に就任する。この時の議案書は次のように宣言していた。「全学連とは、結成されてより今日まで、どのような紆余曲折があれ、それは日本の闘う学生・人民の砦であった。日本労働者階級、全ての人民の闘いに全学連の旗が立たなかったことはない」、「50年のレッド・パージ阻止闘争を見よ!56年の砂川を!60年の安保を!全学連の闘いは、常に、日本労働者階級と共にあり、その先頭に立った」、「我々再建全学連は、その輝かしい闘いの歴史に恥じず、今まで以上にその闘いの方向に向かって、怒濤の如く驀進して行くだろう」(新左翼20年史67P)以降三派系全学連は最も行動的な全学連として台頭していくことになり、この過程で中核派の主導権掌握がなされていくことになった。この頃よりベトナム戦争が本格化していき、これに歩調を合わすかの如くベトナム反戦闘争に向かうことになった。
 (政治闘争の流れ)
 5.17日反戦青年委員会、ベトナム侵略戦争反対中央総決起集会。労・学4000名が国会デモ。5.30.31-6.1日労・学1万5000名が次第に数を増しながら原潜寄港抗議行動。300名が機動隊・MPと衝突。7.1日ハノイ爆撃機抗議緊急集会。各派数千名。9.7日原潜横須賀寄港抗議闘争。新三派系1200名基地ゲート前でジグザグデモ。ベトナム戦争反対・総評ゼネスト支持中央集会に3000名。この頃各地の大学で抗議闘争発生。10.21日ベトナム戦争阻止・総評・中立労連第三次統一行動に全学連再建準備会1600名参加。