第8期(67年)【ベトナム反戦闘争と学生運動の激化】
この時期は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、今日の状況から見れば邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという分かりやすい正邪の構図があった。アメリカ帝国主義に対する闘いは、本国アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃とべトナム反戦の結合宣言等々を含めた反戦闘争が活発化し始め、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアの青年学生もこれに呼応し始めていた。わが国でもベ平連の集いが各地で生まれつつ次第に支持の環を増し始めていた。こうした情況と世論を背景にして、この時期これに学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に全国各大学の学園闘争として飛び火し始めることなった。民青同系全学連は主として学園民主化闘争を、新三派系全学連は主として反戦政治闘争を、革マル派系全学連は「それらの乗り越え闘争」を担うという特徴が見られた。特に新三派系全学連による砂川基地拡張阻止闘争・羽田闘争・佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争・王子野戦病院建設阻止闘争・三里塚空港阻止闘争等の連続政治闘争が耳目を引きつけていくことになった。この経過で、全学連急進主義派の闘争が機動隊の規制強化といたちごっこで過激化していくことになり、過激派と言われるようになった。
(学園闘争の流れ)
1.20日明大学費値上げ大衆団交に1万5000名。1.22日高崎経済大、不正入学反対バリスト突入。3.12日高崎経済大全学無期限スト突入。 6.14日東京教育大、筑波移転問題をめぐりスト突入。
(自治会執行部の争奪の動きとその関連)
2月共労党の下に学生組織プロ学同結成。7.12日新三派系全学連定期全国大会。44大学(結成時35大学)・85自治会(結成時71自治会)・275代議員(結成時178代議員)の1500名が参加。新三派系が勢力を扶植しつつあったことが分かる。秋山委員長再選。ただし、新三派系全学連の蜜月時代はここまでであり、これ以降中核派の台頭が著しくなっていくことによってかどうか、翌68.7月中核派は自前の全学連結成大会を開催し分岐独立することになる。同月反中核派連合の社学同「統一派」、ML派、社青同解放派、第4インターなども又反帝全学連第19回全国大会を開催し、反帝全学連を発足させることになった。ところが、この反帝全学連も社学同と社青同解放派間の対立が激化し、翌69.3月社学同側が単独で大会を開催し社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派が単独大会を開き、解放派全学連として独立することになる。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。
こうして、革マル派は革マル派全学連を、民青同は民青同系全学連を、中核派は中核派全学連を、ブント各派は社学同全学連等を、社青同解放派が全国反帝学生評議会連合(反帝学評)及び解放派全学連を結成し、併せて5つの全学連が揃い踏みすることになるというのが67~69年の学生運動の流れとなる。なお、社学同派全学連はわずか3ヶ月後に内部での内紛が激化し分裂していくことになる。
従って、この当時の学生運動の流れは、大雑把に見て「五流派」と「その他系」に識別できることになる。「その他系」とは、ベ平連系、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派の他ノンセクト・ラジカル等々であり、これらが混在することになる。ここで「当時の五流派その他系」の特徴付けをしておこうと思う。識別指標は様々な観点から可能である。第一に「日本共産党の指導下に有りや無しや」を指標とすれば、指導下にあるのが民青同のみであり、日本共産党の党本部のある「代々木」を指標としてこれを「代々木系」と言い、これに反発するセクトを「反代々木系」と識別することが出来る。主にブントがこの意識を強く持つ。革共同系は、左翼運動の歪曲として「日本共産党」の打倒を標榜するところから「日共」と呼び捨てにすることとなる。ただし、この分け方も「日共」の打倒を観点とする立場と、「代々木」を正確には「宮本執行部の指導下の日共」と理解し「日本共産党」の正当性系譜を争う構造改革派系諸派・毛派系諸派・民学同系とは趣が異なる。社青同解放派は社会党出身であるからまたニュアンスが異なるという風な違いがある。「代々木系」の民青同及び「元代々木系」の構造改革系派・民学同派は概ね非暴力革命的議会主義的な穏和主義路線を、それら以外の「反代々木系」は概ね暴力革命的街頭闘争的な急進主義路線を目指したという特徴がある。これによって「反代々木系急進主義派」は過激派とも呼ばれることになる。
第二に「『トロッキズム』の影響の有りや無しや」を指標とすれば、「代々木系」・「元代々木系」・毛派系諸派らのトロッキズムの影響を受けないセクトを「既成左翼」と云い、その影響を受けた革共同系及びブント系を「新左翼」と言いなし識別することも可能である。ただし、この分け方による場合、お互いを「新・旧」とはみなさないので、「既成左翼」側が「新左翼」を評価する場合これをトロッキストと罵り、「新左翼」側が「既成左翼」を評価する場合スターリニストと雑言する関係になる。なお、毛派系は「トロッキズム」に替わるものが「毛沢東思想」であり少々ややこしくなる。「毛イズム」はスターリニスト的な系譜で暴力革命的急進主義路線を志向しており、「既成左翼」の側からは暴力革命路線でもって十把一からげでトロッキスト的に映り、「新左翼」側からはスターリニストには変わりがないということになる。社青同系の場合もこの範疇で括りにくい。「スターリニズム」・「トロッキズム」的なイデオロギーの濃いものを持たず、運動論的に見て穏和化路線を追求したのが社青同協会派であり、急進主義路線を選択したのが社青同解放派と識別することができる。その他ベ平連系はそもそも左翼運動理論に依拠しない市民運動を標榜したところから運動を起こしており、市民的抗議運動として運動展開していった風があるのでこれも括れない。
第三に「ご本家意識の強い純血式運動路線に拘りを持つや否や」を指標とした場合には、運動の盛り上がりよりもセクト的な党派意識を優先する方が民青同・革マル派であり、その他諸セクトは闘争の盛り上げを第一義として競り合い運動を重視していったという違いがある。つまり民青同・革マル派は党派的に排他的非統一運動型であるということに共通項が認められ、これらを除いた他の諸セクトは課題別の共闘組織を組み易い統一運動可能型の党派であったという識別も可能である。なお、この仕訳とは別途のさほどセクト的な党派意識も持たず統一運動型ともなじまなかった突出型の毛派系・ブント赤軍系・アナーキスト系らも存在した。実に左翼運動もまたややこしい。
あるいは又日本国憲法を主幹とする「『戦後民主主義』を護持しようとする意識が有りや否や」の観点を指標とする区分も出来る。概要穏和化路線に向かう党派はこれを肯定し、急進主義路線を志向する党派はこれの欺瞞性を指摘するという傾向にある。ただし、70年代半ば以降のことではあるが、超過激派と言われる日本赤軍の一部グループは護憲傾向と民族的愛国心を運動の前提になるものとして再評価しつつある点が異色ということになる。
私には、これらの違いは理論の正当性の是非もさることながら、運動を担う者たちの今日的に生物分子学で明らかにされつつある或る種の気質の差が介在しているようにさえ思われる。理論をどう構築しようとも、理論そのものは善し悪しを語らない。理論の正しさを主張するのはあくまで「人」であって、「人」はその人の気質性向によって好みの理論を採用する。理論の当否は、理論自身が生み出す力によって規定されるとはいえ、現象的にはそれを信奉する人の量と質によって実践的に検証される、という関係にあるのではなかろうか。であるが故に、本来理論の創造性には自由な空気と非暴力的相互批判の通行が担保されねばならない、と考える。これは私の経験からも言えるが、セクト(一般に組織)には似合いの者が結集し縁無き衆生は近寄らず、近寄ったとしても離れるということが法則であり、事実あの頃私は一目で相手が何系の者であるかが分かったが、この体験からそういう気質論に拘るようになった。これは政治のみならず宗教であれ業種・会社であれ趣味であれ、有効な根底の認識となって今も信奉している。
(政治闘争の流れ)
2.26砂川基地拡張阻止青年総決起集会に労学1500名結集、機動隊と衝突。3.2日善隣会館事件。4.28日沖縄デー。労学5000名が集会とデモ。5.26-28日三派系全学連、砂川基地拡張阻止、公安条例撤廃のデモ2000名結集し、機動隊と衝突。革マル派250名独自集会。6.15日「第7回6.15記念集会」。ブント・中核派・社青同解放派・社学同ML派・革マル派・民青同・アナーキスト系各派が独自集会。6.30日全学連、佐藤訪韓阻止闘争で300名が機動隊と衝突。7.9日ベトナム侵略反対・砂川基地拡張阻止集会に労学5万人。全学連・反戦青年委員会8000名は基地正門前に座り込み。
67.10月からの7ヶ月は、後に「激動の7ヶ月」と言われ、三派全学連の特に中核派の行動が目立った。この頃からヘルメットにタオルで覆面、角材のゲバ棒という闘争スタイルが定着した。これは65年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾などが登場していたという背景と関連していたようである。この間の機動隊によるデモ隊の「先制的並列サンドイッチ規制」がデモ隊に無力感を与え、いずれ闘争現場で乱闘することが双方明白になっていた。学生側には、機動隊のこの規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂にこの頃から学生運動急進主義派の方もヘルメット・タオル覆面・ゲバ棒という闘争スタイルを編み出していくことになった。この闘争スタイルは、当時の法規制すれすれの自衛武装戦術であり、これを牧歌的といって了解することが適正であるかどうか疑問も残るが、この頃の警察警備隊指揮者にはこれを許容するなにがしかの思いがあり、そう言う意味では取締り側にものどかさの度量があったのかも知れない。そういう時代が許容した範囲において、秋山勝行委員長の下新三派系全学連は機動隊に突進していく闘争を展開していくことになった。これに対して、警察はこれを実地訓練と見、またどんどん逮捕して保釈金で財政的にも締め上げ弾圧していく。しかし、それでも闘争が闘争員を生みだし、新三派系全学連が急速に力を増していくことになった。中でも中核派の伸張が著しく、反代々木系の最大セクトに成長していくことになった。
当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問が発表され、三派全学連はこれを実力阻止する方針を打ち出した。ベトナム戦争の激化に伴い安保体制の下で参戦国化しつつあった佐藤政府に対する抗議を旗印に反戦青年委員会を巻き込みながら、10.8日武装した三派全学連と革マル派全学連の部隊は羽田空港へと向かった。社青同解放派900名、中核派1000名、革マル派400名がそれぞれ機動隊と激しく衝突した。この時中核派のデモに参加していた京大生山崎博昭氏が警備車両に引かれて死亡するという事件が起こった。北小路敏元全学連委員長ら58名が逮捕された。機動隊は60年安保闘争以来初めてガス弾を使用した。結果として佐藤首相は羽田を離陸したが、これが第一次羽田闘争と云われているものである。この闘いが60年安保闘争後の低迷を断ち切る合図となって新左翼運動が再び盛り上がっていくこととなった。そういう意味で、第一次羽田闘争は「革命的左翼誕生の日」として新左翼史上に銘記されることとなった。また、ヘルメット・角材などが初めて最初から闘争の武器として用意され闘われたという点でも転回点となった。「直接行動ラジカリズムの全面展開」、「組織された暴力の公然たる登場」とも言われている。この闘いを一つの境として、全学連急進主義派は自衛武装の時代からこの後街頭実力闘争へ、更に解放区-市街戦闘争へ、更に爆弾闘争へ、ハイジャックの時代へと突入していくことになる。なお、この日民青同系全学連は、形だけの代表数十人を羽田に派遣しただけだったと言われている。あいにく「赤旗祭り」が多摩湖畔で開かれていた。
この後第二次羽田闘争、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院建設阻止闘争、三里塚空港阻止闘争へと立て続けに闘争が爆発していくことになる。10.9日各大学で山崎君虐殺抗議集会とデモが行われる。キューバ革命の指導者ゲバラの処刑がボリビア政府によって発表される。10.10日空港公団、機動隊2000名を動員して三里塚空港杭打ちを実施。反対同盟1000名が阻止行動。10.17日虐殺抗議山崎君追悼中央葬に1万余名参加。秋山委員長逮捕される。10.21日ベトナム反戦統一行動。全国44都道府県で140万人参加。東京集会昼夜で6万名参加。11.3日全学連、三里塚闘争に初めて組織的に参加。沖縄で祖国復帰総決起大会、18万名参加。11.12日佐藤訪米実力阻止闘争(第二次羽田闘争)。三派全学連3000名空港付近で機動隊と激しく衝突。反戦青年委・民学同・フロントなどの構造改革派系学生も参加しデモ。