この頃泥沼化していたベトナム戦争が解放戦線側有利のまま最終局面を向かえてますます激化していた。68年はこのベトナム戦争を基軸にして国際情勢全体が回っていた形跡があり、その逐一の動向がわが国の学生運動にも反映していたと思われる。この背景には、青年期特有の正義感というべきか「64年11月成立した佐藤内閣のもと、ベトナム侵略への協力、加担はさらに強化された。日本は、日米安保条約の拡大解釈と運用によって兵員や武器の補給基地とされ、日本の船舶まで輸送に使われ、沖縄基地がB52爆撃機の北爆発進基地としてしばしば使われる(65年以来)など、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の、まさに前線基地にかえられ」、「日本無しにベトナム侵略は困難と云われるほど、日本はベトナム侵略の総合基地にされ」(日本共産党の65年223P)つつ引き続き高度経済成長を謳歌しつつあった社会への同意し難い感情があったものと思われる。要は儲かれば何をしても良いのかという不義に対する青年の怒りのようなものがあった、と私は捉えている。この年に限り経過を月順に追って見てみることにする。なお、この年チェコで「プラハの春」と言われた民衆闘争が勃発し、これに対し6-8月頃ソ連軍のチェコ進駐が始まったことも大きな争点になった。つまり、米ソ両大国の横暴が洋の東西で進行したことになり、国際的非難が巻き起こることになった。
1月南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)・北ベトナム軍が米海兵隊ケサン基地の包囲作戦を開始。アメリカ軍北爆再開。解放戦線がテト大攻勢。解放戦線兵がサイゴンで米大使館構内を一時的に占拠。南ベトナム民族民主平和連合結成。この頃チェコで「プラハの春」が本格化。2月解放戦線がサイゴンに大攻勢をかける。ケサン攻防戦激化。米機がハイフォンを爆撃。解放戦線軍第2次攻勢、サイゴンの米大使館など砲撃。ロンドン、口ーマ、西ベルリンなど世界各地で反米デモ。北爆強化される。テト攻勢開始から25日間の激戦ののち、南べトナム政府軍がフエの旧王宮を奪回。3月北ベトナム外務省、B-52の沖縄基地使用について日本政府を非難。南ベトナムのソンミで米軍による大虐殺事件おこる(報道はのち)。 ロンドンでベトナム反戦デモ、米大使館を襲う。 周恩来中国首相がソ連のベトナム援助は「ニセモノ」と非難。スウェーデン政府が米のベトナム政策を非難。4月キング牧師暗殺される。全米各地で黒人暴動続発。米コロンビア大学封鎖される。5月フランス「5月危機」はじまる。ジョンソン米大統領が北ベトナム提案を受諾しパリで予備会談を開くと発表。解放戦線が第3次攻勢を開始。パリの学生デモ激化。サイゴン地区で激戦、市街戦。 米・北ベトナム第1回準備会談。 米・北べトナム第1回パリ会談。西ベルリンの学生ゼネスト。6月ソ連戦車隊がチェコ領内に進駐。米国政府がワシントンの「貧者の行進」集会を実力で弾圧、ワシントンに非常事態宣言。米軍ケサン基地放棄を発表。7月核拡散防止条約調印。8月ベトナムの米軍54万人に達する。8.20日ソ連ワルシャワ条約機構軍チェコ侵入。ジョンソン米大統領がソ連軍のチェコ即時撤退を要求、仏・伊共産党はソ連を非難、ハノイ放送はソ連支持を示唆。人民日報が「ソ連修正主義者集団」は「社会帝国主義」に成り下がったと非難、周恩来首相はチェコ人民の抵抗を支持すると演説。 ロンドンでベトナム反戦、ビアフラ支援の大デモ。全米動員委員会が民主党大会へ反戦デモ、大量逮捕される。10月ロンドンで4万人の反戦デモ。ジョンソン米大統領が11月1日以降北ベトナムに対するいっさいの爆撃・艦砲射撃・地上砲撃を停止すると発表。11月米大統領選挙、ニクソン当選。この年、米国での兵役拒否をめぐる裁判は2427件。68年の国際情勢は以上のような流れで推移した。こういう世情がわが国の学生運動にも反映し、前例のない闘争期を現出することになった。
第8期(68年)【全共闘運動の盛り上がり期】
この期の特徴は、今日から振り返ってみて「68-70年学生運動」という大きな山を画しており、戦後学生闘争のエポックとなった。「60年安保闘争」で見せたブントの玉砕主義闘争以降最大の昂揚期を向かえ、いわばそのルネッサンス期となった。この時期に、急速にノンセクト・ラディカルが台頭してきた。このノンセクト・ラディカルを主勢力として反代々木系セクト8派と提携し、全共闘運動及び反戦青年委員会運動を生みだしていくことになった。
ノンセクト・ラディカルの台頭の背景にあったものとして「団塊の世代」論が注目されている。「団塊の世代」は丁度この時期大挙して大学生になり、世界的にもベビーブーマー世代の叛乱として共時的なブームを生み出しつつあった。学生運動がこの世代に伝播するや「層としての学生」にマスが加わってパワーを発揮せしめることになり、全共闘運動を創出していくことになった。この運動の流れは日大と東大が二つの山を創り、全国規模の学園闘争として史上空前の盛り上がりで波及させていくこととなった。この流れは民青同の学園民主化闘争と敵対した。革マル派は、民青同と対立しつつ全共闘運動とも一線を画していた。全共闘は正面の敵に機動隊-国家権力を、目前に大学当局-民青同-右翼を、横脇に革マル派を抱えつつ、「60年安保闘争」を上回る「70年安保闘争」の展開を目指していくことになった。
全共闘運動は、バリケード封鎖を伴うスト方式で全国各地に学園紛争を激化させて行った。バリケード内は解放空間と呼ばれた。この解放空間が次第に街頭へと広がっていくことになる。翌69年の東大闘争に呼応した神田-お茶の水解放区、京大闘争に呼応した東一条解放区などがその代表的例である。「カルチェラタンを!」の掛け声が至るところで聞かれていた。全共闘運動は次第に激しさを増していき、機動隊によりガス弾も使用されるに至った。学生は、これに対して、歩道の敷石を砕いて投石し、火炎ビンをも登場させた。こうした過激派運動をより詳細に見れば、一層の武闘化路線に中核派とブント系諸派・毛派諸派・アナーキスト系が進もうとしており、これに一定の歯止めをきかせていたのが革マル派・社青同解放派・構造改革派らであった。反戦青年委員会も各セクト別に分かれていくことになった。このような戦術の過激化の由来として、右翼の攻撃の修羅場をくぐってきた日大全共闘の経験、学生労働者よりはるかに過激(竹槍、糞尿、農薬)だった三里塚農民の闘いぶり、文化大革命最中の中国共産党の暴力革命礼賛的影響があったと思われる。
このルネッサンス期の花を潰した内的要因について考察することは意味のあることであろう。なぜ「あだ花」に帰せしめられたのかを問うてみようということだ。必ず原因がある筈である。このような問題意識を脳裏に据えつつ以下考察に入る。
(学園闘争の流れ)
1.13日中央大学昼間部自治会、学費値上げ反対全学スト突入。この頃医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになった。日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及していくこととなった。1.29日東京大学医学部で研修医(インターン)の無権利状態に反対し、民主化を求める改善闘争をその発端とし、この闘争過程で為された不当処分を契機に医学部学生自治会が無期限ストライキに突入。2.16日中大学費値上げ反対闘争が白紙撤回で勝利決着。3.11日東大当局が春見事件をめぐって退学4名を含む17名の医学部学生の処分発表。3.26日東大医共闘学生安田講堂占拠、卒業式の実力阻止。3.28日東大医共闘学生、登録医制・不当処分に抗議して卒業式実力阻止、300名が時計台前に座り込み。5.21日日大生3万人が大衆団交要求しデモ。5.25日白山通りで日大生5000名がデモ。5.27日、日大全学共闘会議(日大全共闘)結成。議長秋田明大。以降日大闘争激化する。体育会系右翼学生の介入と襲撃。流血・負傷が繰り返される。6.11日、 日大全共闘大衆団交。6.15日東大では医学部全共闘・医学連の学生ら数十人が安田講堂占拠。6.17日東大当局が機動隊を導入し医学部学生排除。6.18日東大全学闘争連合結成。各学部が次々にストライキに入り、東大・日大闘争激化。6.28日東洋大に機動隊導入、172名逮捕される。7.2日東大全学闘争連合が安田講堂を再占拠、封鎖する。
7.5日東大全学共闘会議(東大全共闘)結成、初の決起集会に3000名結集。慶応大教養学部自治会、無期限スト突入。7.16日東大全共闘、7項目要求確認。7.23日東大全共闘を支持する全学助手共闘会議結成。8.28日東大医学部の学生が医学部本館を封鎖、研究や実験が停止した。民青同との抗争激化。9.12日日大全共闘総決起集会。数万名結集。この頃東大闘争が拡大していくことになり、9.19日工・経・教育学部もストに突入。9.20日、日大全学ストに突入。9.27日東大医学部赤レンガ館を研究者が自主封鎖。民青同との対立が抜き差しならない方向で進んだ。9.30日、日大全共闘、両国講堂に3万人集まり、大学当局と10時間大衆団交。10.1日東大の理・農・法学部も無期限ストライキ突入。10.11日福島大学全学スト突入。10.12日東大全学無期限ストに突入。
この間「大学の運営に関する臨時措置法案」(大学運営措置法)が政府から押しつけられることになった。「戦後民主主義」が獲得していた「大学の自治と学問の自由」に対する大きな制限を伴ったものであった。民青同系全学連は、「大学の自治と自由を擁護」する観点からこの新大管法との闘争を組織しつつ、他方で「政府・自民党に泳がされたトロッキスト、ニセ左翼暴力集団を孤立」させようとして全共闘運動と敵対していくことになった。11.1日東大大河内総長辞任。東大総長が任期を全うせず辞任するのは戦後初めてのことであり、東大90年の歴史にも前例がない。11.4日加藤教授総長代行就任。11.12日東大総合図書館前で全共闘と民青同学生が衝突。11.14日駒場第三・第六本館封鎖をめぐり再び全共闘と民青同学生が衝突。11.19日加藤総長代行が民青同派と公開予備折衝に入る。11.22日東大校内で東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会。新左翼系約2万名が集結、デモ。民青同系と小競り合い。12月この頃より東大のみならず各大学で民青同・右翼グループがバリケード封鎖解除の動き強める。12.29日坂田文相、東大全学部の入試中止を決定した。
こうして68年末から翌69年にかけて全共闘運動は決戦気運に突入して行くことになった。卒業-就職期を控えて大学当局も全共闘側も年度中に何らかの解決が計られねばならないという事情があった。こうして翌69年1月の東大時計台闘争(安田講堂攻防戦)に向けて全共闘運動はセレモニーに向かうことになった。この間新大管法の施行に伴い、中大、岡山大、広島大、早大、京大、日大等々の封鎖解除も並行的に進行した。
この運動に民青同が如何に対置したか。この時の民青同の党指導による「オカシナ」役割を見て取ることは難しくはない。単に運動を競りあい的に対置したのではない。ただし、私は、個々の運動現場においてトロ系によりテロられた民青同の事実を加減しようとは思わない。実際には相当程度暴力行為が日常化していたと見ている。全共闘系の暴力癖は、諸セクトのそれも含めた指導部の規律指導と教育能力の欠如であり、運動に対する不真面目さであり、偏狭さであったし、一部分においては「反共的」でさえあったと思う。史上、運動主体側がこの辺りの規律を厳格にしえない闘争で成功した例はないと私は見ている。ただし、別稿で考察する予定であるが、そういう事を踏まえてもなお見過ごせない民青同による躍起とした全共闘運動つぶしがあったことも事実である。ここに宮本執行部が牛耳る党に指導され続けた民青同の反動的役割を見て取ることは難しくはない。単に運動の競りあい的に対置したのではない。「突破者」の著者キツネ目の男宮崎氏が明らかにしているあかつき行動隊は誇張でも何でもない。今日この時の闘争を指導した川上氏や宮崎氏によって、この時民青同が、「宮本氏の直接指令!」により、共産党提供資金で、全国から1万人の民青・学生を動員し、1万本の鉄パイプ、ヘルメットを用意し、いわゆる“ゲバ民”(鉄パイプ、ゲバ棒で武装したゲバルト民青)を組織し、68年から69年にかけて全国の大学で闘われた全共闘運動に対してゲバルトで対抗した史実とその論理は解明されねばならない課題として残されていると思う。それが全共闘運動をも上回る指針・信念に支えられた行動で有ればまだしも、事実は単に全共闘運動潰しであったのではないかということを私は疑惑している。先の「4.17スト」においても考察したが、宮本執行部による党運動は、平時においては運動の必要を説き、いざ実際に運動が昂揚し始めると運動の盛り揚げに党が指導力を発揮するのではなく、「左」から闘争の鎮静化に乗り出すという癖があり、この時の“ゲバ民”はその好例の史実として考察してみたいというのが私の観点となっている。
68年の紛争校120校、うち封鎖・占拠されたもの39校。69年には、紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校となる。当時の全国の大学総数は379校であったから、その37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。大学当局は管理能力を失い、学生側は代々木系と反代々木系の対立、過激派各派の衝突や内ゲバも繰り返されていくことになり、全くアナーキーな状態が現出した。
(自治会執行部の争奪の動きとその関連)
4.3日ブントマル戦派が共産同労働者革命派結成準備会(労革派)を発足させた。第二次ブントは66年に再建されたものの、戦旗派との対立が依然解消されておらず派閥的な対立抗争が続いていた。前年の共産同第7回大会での革命綱領をめぐる理論対立から、マル戦派は、戦旗派を「小ブル急進主義集団」と攻撃して、大会をボイコットして第二次ブントから離脱していた。この結果、関西ブントが第二次ブント統一派の指導部を握ることとなった。
7.11日革マル派全学連第25回大会開催。80大学・150自治会・146代議員・2000名参加。この数字が正確であるとすれば、革マル派の空前の著しい台頭が見て取れる。7.14日中核派全学連大会開催される。こうして中核派は、中核派全学連として単独大会を開催して正式に三派全学連から離脱することになった。101大学・157自治会・127代議員・1500名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派の進出もまた凄まじいものがあったということになる。してみれば、ブント-社学同系の分立抗争ぶりとは対照的に元革共同勢が大幅に組織を伸ばしていることが分かる。
この年度の民青系自治会数の発表が川上氏「学生運動」には記されていないので想像する以外にはないが、大きく後退を余儀なくされていたのではないかと思われる。一般に都合の良い数字は語られるが悪い方に至ると伏せられるという悪しき左翼の性癖が認められる。事実を正確に伝え、そこから工夫を大衆的に討議するという整風化がなぜなされないのだろうかと私は思う。ちなみに、この時期の民青同の活動の重点は、大学民主化闘争とこの頃より党が重視させていた革新自治体づくりの応援活動にかなりの比重を割いていたのではないかと思われる。革新自治体の流れは、67.3-4月の全国一斉地方選挙で首都東京における美濃部亮吉革新知事の誕生、68.7月参議院選挙での前進、68.11月革新系候補屋良朝苗氏の沖縄首席選挙勝利、69.7月革新都政のもとでの最初の都議選での勝利等々に見て取れる。こうした選挙戦活動の背景に、党より「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」方針が掲げられ、これに呼応しようとした民青同の活動があったものと思われるが、「日本共産党の65年」を見る限り記述が欠落させられている。これは一体どうしたことなんだろう、私には不自然不可解現象である。また最近「21世紀の早い時期に民主連合政権をつくる」という闘争方針がリバイバルしているようであるが、これも挫折すると同じように呼び掛けそのものさえ無かったことにするつもりであろうか。
この時期中核派は、大衆運動の高揚期には組織をかけてでも闘争をやり抜くという旧ブント的方針で闘争を指導し、支持を獲得していった。この手法は勇ましく人気も出たが、一方逮捕など組織的な消耗が避けられなかった。こうした中核派の闘争指導に対して、革マル派は、大衆闘争上の現象的激動を革命的激動と取り違える妄想と批判した。革マル派は「革マル体操」と揶揄されながらも、ゲバ棒はかついでも機動隊との衝突は極力避けつつ組織温存を重視した。こうした革マル派の闘争指導に対して、中核派は、革命的組織作りはそのような真空中でつくられるのではなく、革命的激動の中で攻撃的に対応することを通じて勝ち取られるものだと批判し武闘路線に邁進した。既述したが私には、どちらの言い分が正しいと言うよりは、このやり方の方が自分にとってしっくり合うという気質の差のように思われる。
7.19日中核派全学連の旗揚げに抗して、反中核派連合の第二次ブント統一派-社学同、ML派、社青同解放派、第4インターなどが反帝全学連を発足させようと反帝全学連大会を開催予定したが、社青同解放派とML派が壇上を占拠し、社学同と衝突。大会は乱闘となり流産した。こうした難産の末7.21日反帝全学連第19回全国大会が開催された。79大学・131自治会・170代議員が参加。これだけのセクトが寄り集まって元革共同両派に匹敵しているという勢力関係が知れる。藤本敏夫氏が委員長、久保井氏が副委員長に選出された。これで4つ目の全学連が誕生することとなった。しかし、反帝全学連は結成当初よりのゴタゴタが付きまとい、社学同と社青同解放派の対立が激化していくことになる。7.25日民青同全学連大会開催。
8月マル戦派は、幹部間の対立から前衛派と怒濤派に分裂した。戦略戦術の総括、岩田理論の評価の対立から、岩田理論の正統継承派を主張する前衛派と、学生活動家を擁し多数派の怒濤派に分裂した。前衛派は、後に党名を共産主義者党と改称し、青年・学生組織として青年共産同盟を発足させる。岩田理論に基づき概要「68年のフランスの五月危機を契機に世界は不可避的な経済危機に入った」、「資本主義の末期的危機」、「この危機が『階級決戦の原動力』になる」等の主張を基礎理論とし、「工場占拠、ゼネストによる二重権力の創出」、「反合反帝の工場闘争をプロレタリア日本革命へ」と闘争を指針させていた。基本的には議会主義を否定しながらも、手段としての議会進出を認め、労働運動を重視した。更に、国際・国内情勢について、それぞれの時点での問題点を分析し、その都度、闘争の在り方を明らかにしていることが注目される。指導下にある組織としては「首都圏行動委員会連合」(首行連)があり、機関紙`としては「前衛」を発行した。一方、怒濤派は、後に労働者共産主義委員会(労共委)と改称し機関紙「怒濤」を発行、下部組織として共産主義戦線(共戦)を結成することになる。
10月第二次ブントの統合に反対したML派の一部少数派は、毛沢東思想を受け入れて、「帝国主義打倒の人民革命」を志向するようになり、マルクス・レーニン主義者同盟(ML同盟)を結成、その傘下に学生解放戦線・労働者解放戦線を組織した。ML同盟は公然武力闘争を主張し、かっての「球根栽培法」等を再刊し火炎瓶闘争を指導し始めた。12月共産同第8回大会開催した。第二次ブント主流のブント統一派(戦旗派)も、軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。一体全体このブント系の組織論はどうなっているんだろうか。趣味の世界ならご随意にと言いたいところだが、政治闘争となるとそうばかりも言えない気がするのは私だけだろうか。
12.10日中核派全学連臨時全国大会、委員長に金山克巳氏選出。この68年の特徴として、以上のような動きの他にべ平連支部が各地域ごとの他に各大学にも急速に結成されていったことも注目される。既に66年には 東大ベトナム反戦会議、 京都府立大、三重大等。67年には帝塚山学院高等部、神戸大、沖縄大学、 広島大、 立命館大、一橋大等で支部結成されていたが、68年になると信大、同志社大、北大、小樽商大、大阪工大、竜谷大、東工大、芝浦工大、東工大、慶応医学部、東大、青山学院、国立音大、農工大、世田工、東京水産大、東京外語大、大阪芸大、工学院大、神戸商大等が発足した。
(政治闘争の流れ)
1.15日佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。佐世保現地と東京での闘いが呼応した。社共共闘の現地集会に共産党の入場拒否を反戦青年委員会が誘導して入場。1500名機動隊と衝突。以後1週間現地で激闘。東京でも総決起集会が開かれ、三派・革マル派・反戦青年委ら13団体の共催で1万余名。佐世保へむかう中核派学生に凶器準備集合罪が適用され飯田橋駅で131名を逮捕。ブント系学生が外務省に乱入89名逮捕される。1.31日中核派主催の全学連佐世保闘争報告大集会、6000名結集。2.20日王子野戦病院設置阻止闘争。以降三里塚闘争と並行しつつ闘われる。2.26日三里塚空港実力粉砕現地総決起集会、3000名結集、衝突。戸村一作反対同盟委員長ら400名が重軽傷。3.10日三里塚闘争。反対同盟1300名を中心に全国から労学農・市民1万人参加。全学連2000名機動隊と衝突。3.15日在日米軍、王子野戦病院を4月に開設と発表。3.20日三里塚空港粉砕成田集会。労農学5000名が集会とデモ。3.28日王子野戦病院反対闘争。学生1000名が病院に突撃し49名が基地内に突入。3.31日三里塚闘争。4.1日王子野戦病院設置阻止闘争。4.4日アメリカでキング牧師が暗殺される。4.26日国際反戦統一行動。全学連3000名がデモ。4.28沖縄デー闘争。5.2日 沖縄原水協・べ平連のデモ隊、嘉手納基地の武装米兵と衝突。5.7日べ平連が沖縄などで脱走の米兵6人について記者会見で発表。6.4 日ソ連軍のチェコ侵入に抗議して九大で学長、教職員、学生らの抗議デモ。
6.15日日比谷野音で「アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する6.15集会」開かれる。1万2000名結集。このベトナム反戦青年学生決起集会で、中核派対革マル派・社青同解放派連合という構図での乱闘騒ぎが起こる。全国反戦は以降完全に分裂。この「内ゲバ」は考察されるに値する。こうした「内ゲバ」が統一集会に於いて「70年安保闘争」決戦期前に発生しているという内部的瓦解性の面と、後の展開からしてみて少々奇妙な構図が見える。つまり、中核派対革マル派・社青同解放派連合という構図は、どういう背景からもたらされたのだろうか。衆知のように中核派対革マル派・社青同解放派対革マル派というのが70年以降の構図であることを思えば、この時の経過が私には分からない。お互い運動に責任を持つ立場からすれば、こうした経過は明確にしておくべきでは無かろうか。いずれにせよ、当面の運動の利益の前に党派の利益が優先されていることにはなる。果たして、安保決戦期前のこの内部対立性(新左翼対民青同、新左翼内のセクト抗争)は偶然なのだろうか。私はそのようには見ていない。こういうことでは百年かけても左翼運動が首尾良く推移することはないと思う。
6.21日 全共闘系学生、社学同は駿河台で路上にバリケードを築き神田解放区闘争を展開。6.26日 反戦青年委と学生、東京新宿駅で米軍ガソリンタンク車輸送阻止のデモ。8.16日べ平連クループ、嘉手納基地前で坐りこみ。27名全員が逮捕され、翌日コザ警察は全員を送検。8月ソ連など5カ国の軍隊がチェコスロバキアに侵入し、全土を占領するというチェコ事件が発生した。8.21日ソ連軍のチェコ武力介入に緊急抗議集会。8.24日三里塚闘争。9.22日米軍タンク車輸送阻止闘争。各派4000名が立川基地周辺で集会とデモ。10.8日羽田闘争1周年集会。中核派・社学同・ML派・反戦青年委員会約1万人参加。革マル派と社青同解放派は別個に集会。構造改革派系も合流しその後新宿駅で米タン阻止闘争。144名逮捕される。10.13日 べ平連事務所を、先の新宿デモとの関連で警視庁が初捜索。10.20日「10月反戦行動」実行委による市民デモ。明治公園→新宿駅西口、3000名結集。9名逮捕される。そのあと新宿駅東口でべ平連街頭演説会。石田郁夫、小田実、小中陽太郎、日高六郎ら発言。1万名結集。社学同の学生26名防衛庁突入。
10.21日国際反戦デー。全国で46都道府県560カ所で30万名参加。31大学60自治会スト決行。全学連統一行動は、中央集会に1万余を結集。新宿・国会・防衛庁等で2万人デモ。機動隊と激突。社学同統一派系1000名は中央大終結後防衛庁突入闘争。社青同解放派系は早大終結後国会とアメリカ大使館に突入闘争。革マル派と構造改革派(フロント)900名(1700名ともある)は東大で終結後国会へ向かう途中で機動隊と衝突。中核派・ML派・第4インター1500名はお茶の水駅前終結後新宿駅へ向かい、労働者・市民2万人と合流した後騒動化。政府は、翌22日騒乱罪を適用指令、769名逮捕される。
11.6日琉球政府主席選挙で屋良朝苗当選。11.7日沖縄闘争。学生・反戦青年委員会約5000名が首相官邸デモ。中核派・ML派・社学同。この闘いで秋山全学連委員長ら474名逮捕される。11.24日三里塚空港粉砕・ボーリング実力阻止全国総決起大会。労農学8000名実力デモ。