レーニンが無知なのか、不破哲三が無恥なのか?
-『議会の多数を得ての革命』について-
1、投稿の目的
国政選挙で4連敗もするということは、率直に言わせてもらえば、失礼ながら共産
党の現指導部が無能であるということを意味しています。4連敗という事実は、彼ら
が日頃言うところの、理論の実践における検証としても、指導の是非を検証するとい
う意味でも、十分すぎる経験であったはずです。
しかし、この党の指導部は実に超人か、神人とでもいうべき存在であるらしく、国
政選挙で4連敗しても責任をとろうとせず、戦前の「不屈の伝統」(党82周年記念
講演)を説教し、「これこそ、まさに階級闘争だ」(参議院選を総括した2中総発言)
と敗戦を合理化する不破中央委員会議長(以下敬称略)の対応は凡人には到底理解で
きるものではありません。そこで、この党が陥っている苦境の一端を解き明かすため
に、党の中心人物にして頭脳である不破の人物、超人的政治感覚と理論能力(マルク
ス理解)をその著作の中にさぐってみることにしました。
2、不破自慢の著作を素材に
最近、不破は『議会の多数を得ての革命』(新日本出版)という著作を出版しまし
た。この著作は、不破が1997年後半から『レーニンと『資本論』』というシリー
ズで書いたものから、二つのテーマを取り出して1冊の本にしたもので、分量から言っ
て、その3分の2を占める第1部・「『国家と革命』を歴史的に読む」は、初心者向
けに引用文に登場する人名の紹介をつけ加えた点を除いて、『経済』に掲載した文章
とほとんど一字一句違わないものです。
つまり、不破は『経済』に書いたシリーズ論文を7巻本(『レーニンと資本論』)
として出版し、その内の『経済』1999年11月号と12月号に書いた部分(「
『国家と革命』を歴史的に読む」)を新たに『議会の多数を得ての革命』という著作
の第1部に移し替えているわけです。まったく同じ文章を別な題名の著作の主要部分
に取り入れるという著作者としてのモラルという問題もありますが、それはともかく
として、この新著に取り入れた部分(第1部)は、不破のまえがきによれば、200
1年に英語版としても出版されているといいます。その意味では新著の第1部は不破
自慢の著作といえるわけです。
そこで不破の自慢する著作を検討することにしました。つまり、不破による『国家
と革命』批判の内容を素材にその人物とその理論能力を検討しようというわけです。
不破のねらいは、新著の題名からもわかるように『国家と革命』を否定して「議会の
多数を得ての革命」を理論的に、あるいは文献的に基礎づけようとすることにありま
す。
不破の議論のいい加減さは本サイトでもいろいろと指摘されていますが、ここでは、
そのいい加減さをもう少し掘り下げて、いい加減さの底に横たわるものを明らかにし
てみることにしました。どうも、そこまでやらないと、社会主義諸国が崩壊して以来
のこの人物の言動は理解しかねるように思えるからです。むろん、ネット上の小論で
すから、詳細を尽くすというわけにはいきませんが、不破の展開する議論のエッセン
ス部分を示し、それを検討することで課題にこたえることにしました。
読者の皆さんの便宜のために、不破の著作からの引用の出所は3種類の出版物から
のページをすべて記載することにしました。『経済』1999年11月号、12月号
からの引用は「K上xxp(ページ)、K下xxp」と表記し、『レーニンと資本論』
第5巻での表記は「Lxxp」、『議会の多数を得ての革命』での表記は「Gxxp」
と表記しました。不破の著作からの引用文は『経済』のものを使用します。
論旨を追いやすくすることに留意しましたが、論証に厳密さを求め、読者による検
証の便宜を考慮したため、不破の主張は要約せず、そのまま引用したため読みにくい
ものになってしまいました。その点は読者の皆さんのご寛容をお願いします。
なお、『国家と革命』は『帝国主義』とならんで、レーニン理論の中核をなす著作
であることはいうまでもありません。
3、不破による『国家と革命』批判と不破の仮説
周知のように、レーニンが『国家と革命』で描いたものは、20世紀初頭の帝国主
義世界体制のもとでのプロレタリア革命論であり、その中心命題は次のようなもので
す。
「ブルジョア国家がプロレタリア国家(プロレタリアートの独裁)と交 代するのは、『死滅』の道を通じては不可能であり、それは、通例、暴力革命によっ てのみ可能である。」(『国家と革命』国民文庫版33p)
この命題に集約されるレーニンの革命理論について、不破は次のように論評し ています。
「レーニンがおかした理論的な誤りのなかでも最大のものの一つ」(K 下160p、L346p、G149p)かつて聖典のごとく取り扱われていた『国家と革命』が、不破の論評にみられるよ うに、今では弊履のごとく捨て去られているわけですが、以下の点についての検討か ら始めることにします。
「レーニンが、強力革命必然論を、マルクス、エンゲルスの学説の当然 の内容だと思いこみ、その理論化につとめた背景には、ロシアだけでなく、ヨーロッ パ全体で、武装した諸勢力の対立が当然視される、当時の歴史的情勢があったことは、 確かだと思います。同時に、私が、理論面の歴史的状況としてここで提起したいのは、 レーニンが、革命の平和的発展についてのマルクス、エンゲルスの見解、立場をまと まった形では知らなかった、また、知りうる条件がなかったという問題があった、と いうことです。・・・これが私の仮説です。」(K上177p、L288p、G83 ~84p)
不破はレーニンが暴力革命必然論(不破は「強力革命」といっていますが、本 投稿では暴力革命という言葉を用います。その内容は同じ。)に陥った原因として二 つのことをあげています。一つは「当時の歴史的情勢」であり、今ひとつは理論面で、 マルクス、エンゲルスの平和革命論への無知、つまり、マルクスらの文献への無知で あるといっています。このように、二つの原因が考えられるのであれば、普通は、は じめに「当時の歴史的条件」とレーニン理論の関係についての研究に向かうものです。 というのは、いうまでもなく、理論に真理性を与える基準は歴史的な現実、「当時の 歴史的情勢」のうちにあるからです。ところが、不破は理由も明示せずに、なぜか奇 想天外な仮説を掲げて文献史研究へと進むのです。あたかも風車を怪物に見立てて突 進するドン・キホーテのように。文献史研究は不破の得意とするところですから、得 意な領域でレーニンの「誤り」を明らかにしようと意図したのかも知れません。しか し、この道が「賢者の石」ならぬ「躓きの石」を探す道であることは順次明らかにな ります。
4、不破は仮説の証明に成功したか?
それでは、「レーニンが、革命の平和的発展についてのマルクス、エンゲルスの見
解、立場をまとまった形では知らなかった」という仮説を不破がいかに立証するかを
見ていくことにしましょう。
不破はマルクス、エンゲルスの全文献の中から7つの文献を取り出します。それら
の文献は「イギリスでの平和的、合法的な革命の可能性についてマルクス、エンゲル
スが語ったすべての言明をもれなく紹介」(K下157p、L340p、G142p)
したものであるといいます。読者の皆さんは不破のこの言明をしっかりと記憶してお
いて下さい。特にイギリスに関するマルクス、エンゲルスの文献だということを。な
ぜ、イギリスに関する文献だけなのか、独仏に関する文献が除外されているのはなぜ
か、という点については不破は何の説明もしていません。
さて、不破の検証の第1文献は『共産主義の原理』(全集4巻389p、1847
年)です。不破によれば、『共産党宣言』以前に書かれたこの文書で、すでにエンゲ
ルスは「議会の多数をえて社会主義革命にすすむという革命路線の構想を、すでにう
ちだしはじめていた」(K下132p、L297p、G93p)のだそうですが、当
時はイギリスですら普通選挙権などない時代ですから、不破のこの解釈には驚ろかさ
れます。この主張も「不破流の解釈」(後段「10」の<注3>で説明します)で、
ひいきの引き倒しのような議論なのですが、その解釈のもつ重大な問題は後で詳しく
触れることにして、先を急ぐことにします。
では、この文献をレーニンは読んだのかどうか?
不破曰く「当時まだ、どこにも公刊されていなかった」(K下133p、L298
p、G93p)から、レーニンは読んでいないといいます。公刊されたのは1921
年であるとも言っています。
不破が取り上げる第2の文献は『チャーチスト』(アメリカの新聞「ニューヨーク・
デイリートリビューン」への寄稿論文、1852年8月25日、全集8巻336p)
で、第3の文献は『行政改革協会-[憲章]』(「新オーダー新聞」1855年6月8
日、全集11巻266p)です。では、これら第2、第3の文献をレーニンは読んで
いるのでしょうか? 不破は「読む機会がなかった」(K下138p、L307p、
G105p)といいます。というのは、1917年の時点では、これら新聞論説のう
ち公刊されたものは、「きわめて限られていた」(K下138p、L307p、G1
05p)からだそうです。
第4は『ザ・ワールド特派員とのインタビュー』(1871年7月、全集17巻6
10p~613p)です。これもレーニン死後の公刊だから、レーニンは読んでいな
いと不破はいいます。
第5、『ハーグ大会についての演説』(1872年9月8日、全集18巻、158
p)については、「この時点では、その存在を知らなかったと思われます。」(K下
157p、L341p、G143p)と言い、レーニンがその存在を知ったときはい
つかを詮索していますが、「思われます」という推測を越える決定打がでてきません。
第6、『社会主義者取締法に関する帝国議会討論の概要』(1878年9月、全集
34巻412p)は、レーニン死後の公刊であると不破はいっています。
第7は『『資本論』英語版へのエンゲルスの序文』(1886年、『資本論』国民
文庫版第1巻51~57p)です。さて、第5文献に続いて、この文献が不破の難題
なのです。マルクス、エンゲルスの文献収集にかけては革命ロシアの国家事業として
やるほどのレーニンですから、この文献の場合は簡単にレーニンは読んでいなかった
とは言えないのです。そこで、不破はどうするのでしょうか?
「レーニンが活動していた当時でも、読むことはできたはずの文書です が、レーニンの著作や手紙、草稿などのどこにも、『資本論』の英語版を読んだとい う痕跡は残されていないし、エンゲルスの「序文」について言及した箇所も、まった くありません。レーニンは、『資本論』第1巻については、ドイツ語版の第1版と第 2版、ロシア語版を利用していましたから、英語版とその序文については、少なくと も『国家と革命』の執筆の時点では、読んでいなかった可能性が高いと思います。」 (K下157p、L341p、G143p)
40巻以上もあるレーニン全集から、読んだ痕跡を探したのでしょうから、不
破はずいぶんと労力をはらったものです。しかし、ここでの不破の論証をあれこれ詮
索する必要はないでしょう。不破はレーニン手持ちの『資本論』はドイツ語第1版だ
とか、いろいろ書いていますが、要するに不破の推測にすぎないのです。
この『序文』は全集版原文で5ページの短文(『資本論』第1巻、国民文庫版、5
1~57p)で、そのうち3ページは翻訳上の問題についての言及であり、残り約1
ページは『資本論』の普及状況、最後の1ページが世紀末大不況についての言及であ
り、不破が問題にする文章はわずかに最後の5行のみなのです。不破はその仮説を提
起するにあたり、レーニンは「まとまった形では知らなかった」といって、事情を知
らぬ読者には何か長大な論文があるかのような印象を与えていますが、不破が7つの
文献で取り上げるマルクス、エンゲルスの平和革命論とは、長大論文ではなく、以下
のような短いマルクスらの議論なのです。この『序文』の最後の5行は以下のとおり
です。
「また、その人はこの研究によって、すくなくともヨーロッパでは、イ ギリスこそ、不可避的な社会革命が平和的で合法的な手段によって完全に遂行されう る唯一の国である、という結論に達したのである。この平和的で合法的な革命にたい して、イギリスの支配階級が『奴隷制擁護者の反乱』なしに屈服するとはほとんど期 待していない、と彼が付け加えることを決して忘れなかったのは言うまでもない。」 (K下144p、L317p、G116p、『資本論』国民文庫版第1巻57p)
これだけの短文ですから、レーニンが読んだ痕跡を不破が発見できなくても不
思議はないのです。
さて、不破の仮説が証明に成功したといえるでしょうか? とうてい、成功したと
は言えないのです。推測に立脚した証明はどこまで詮索を広げても推測の壁は越えら
れないものです。
5、最初から無理な仮説であった
不破の仮説はマルクスらの平和革命論について知らなかったから、つまり、知らな
いことが理論上の原因で、レーニンは暴力革命必然論を展開したという仮説なのです
が、もともと無理な仮説だったのです。問題がエッフェル塔はどの都市にあるかとい
うような類の単なる知識の問題ではないのですから、レーニンの無知と暴力革命必然
論とは何の因果関係もないのです。レーニンがパリにあるエッフェル塔を知らなけれ
ば、レーニンがエッフェル塔について語ることはできないでしょうが、暴力革命と平
和革命の概念は対概念ともいうべき相互関係にある(現実のロシア革命においても、
平和革命の可能性が開けた時期があるという現実の相互移行)のですから、マルクス
の議論に無知であっても平和革命について議論を展開することは可能なのです。
マルクスが暴力革命全盛の時代(上記第2から第5文献の執筆時期を参照)に平和
革命を考えたのと同様に、マルクスの言説を知らない(?)レーニンが平和革命を考
えることは十分あり得ることです。
それに当時のドイツ社会民主党のイデオロギー状況を想起してみるのも役に立ちま
す。エンゲルスの存命当時(エンゲルスの死去は1895年)から、すでにドイツ社
会民主党内では議会主義(平和革命論)が成長してきており、エンゲルスによる批判
もあり、党内論争ともなり、ヨーロッパに亡命中のレーニン(国外脱出は1900年)
は、その論争を知っていました。レーニンがドイツ社会民主党の頭脳・カウツキー批
判を本格的に開始するのは『国家と革命』執筆(1917年)よりずっと早く第1次
世界大戦勃発(1914年)の時期にまで遡ります。ですから、こうした当時のイデ
オロギー状況を知る者(不破も知っているはずです)にとっては、不破の仮説は最初
から眉つばものの印象を受けるのです。
つまり、もともとのところ、マルクスによる平和革命の可能性についての議論を知
らなければ、レーニンは平和革命について考えられないという因果関係はないのです。
不破の仮説には、不破独特の観念、あるいは思考方法が染みついていることがわか
ります。レーニンはマルクス理論を絶対化するマルクス学説の素述者であるという観
念、マルクスの言説を読んで知らなければ、平和革命について思考できないはずだと
いう驚くべき思考方法、こうした観念なり、思考方法が前提となっていなければ、と
うてい発想できない仮説なのです。ここに不破独特の思考方法の第1の特徴が見られ
ます。
この特徴を不破独特の思考方法の特徴1と呼んでおくことにしましょう。
以上のように、不破の論証は推測の域を越えられなかったわけですから、レーニン
が誤りを犯した原因とする不破の仮説は成立しなかったわけです。 ところが、どう
いうわけか、不破は仮説の証明ができたと考えているのです。不破は上記7文献を含
む諸種の文献を検討し終えて、文献考証の最後にあたる部分、「(5)歴史的な検討
を終わって」において次のように断言しているのです。「私が、何より重大な要因だ
と考えるのは、レーニンが『議会の多数をえての革命』についてのマルクス、エンゲ
ルスの発言をまったく知らないでいた、という事実です。」(K下157p、L34
0p、G142p)
「議会の多数を得ての革命」にかかわる上記7文献を含む幾多の文献を検討、解説
した後で「まったく知らないでいた」と断言する不破の神経は並のものではありませ
ん。
このような断言は強弁としか評しようがないのですが、次にあげる文献で決着をつ
けることにしましょう。