12、不破流の解釈がもたらすもの
すでにみたように、理論の背後の歴史的諸条件を忘れて、その理論を解釈すれば、その理論を自動的に固定的な定式へ変換することを意味します。このような固定化が生ずれば、その理論が保っていた他の理論的な諸命題との関連(この関連を担保するのが、また、その当時の歴史的諸条件)も切断されてしまいます。(注2)で引用した「イネッサ・アルマンドへの手紙」にある(β)「他の諸命題と関連させてのみ」という指摘を見てください。この切断が意味することを認識主体の側(ここでは不破)に即して言えば、理論的な諸命題間の関連が見失われてしまうことを意味しています。
具体例をあげてみましょう。レーニンは当時の帝国主義世界では暴力革命が通例だと主張しましたが、この主張と暴力革命を遂行する革命政党の組織形態とは密接な関係があります。他方、不破の主張する「議会の多数を得ての革命」を採用するとすれば、その背後の歴史的諸条件はレーニン段階とは根本的に異なっていること(共和制=民主主義の定着を歴史的基礎とする平和革命の通例たる地位への上昇と暴力革命の例外的地位への後退。単に一般的な可能性として一国のレベルで平和革命を把握することを許さない歴史段階の到来=先進国を中心とする平和革命論の一般化、通例化。マルクス、レーニン段階との根本的相違)が前提とされているのであり、当然、「議会の多数を得ての革命」という革命戦略はレーニン段階の革命政党の組織形態とは異なった組織形態を必要とします。
それがどのような組織形態であるかは、現代的な探求の問題(当サイトで多くの意見がある)で、社会主義諸国が崩壊して以降は、さらに新たな歴史的条件が積み上がってきたと見るべきなのです。ところが、不破にあっては、レーニンの革命戦略(暴力革命通例)と当時の世界史的な歴史諸条件の関連が切断されていますから、レーニン党組織論(民主集中性といわれていますが)と暴力革命論通例との密接な関連も切断されています。それだから、不破の認識では、暴力革命論とレーニン党組織論が別個に独立に把握されることになり、「議会の多数を得ての革命」戦略とレーニン党組織論が平然と同居することも可能なのです。現実には密接に結びつけられている、それどころか、民主制の契機が後退させられて党中央独裁の組織論(第22回党大会・規約改定、第23条・中央委員会で中央委員を罷免できる規定)になっています。
つまり、不破流の解釈で『国家と革命』批判をし、「議会の多数を得ての革命」を打ち出したところで、それと密接に関連する他の諸問題(党組織論等)への新たな対応はまったく理解できず、不破の思考の赴くままに、時代錯誤の規約改悪になったり、あるいは古いものをそのまま引きずり、古いものと新しいものとが奇妙に連結されるという事態に立ち至るのです。
新綱領がなし崩しの「社会民主主義」綱領となり、不破の綱領案報告が詭弁にみちたものとなった理論的原因がここにあります。古いものと新しいものとが奇妙に連結された新綱領の路線ですから、整然たる説明はもともと不可能であり、それゆえに、全党的な真の公開討論と言うことになれば、議論百出、党中央は立ち往生すること必定です。そこで、党中央は、通常とは逆に、まず規約改定から手をつけて党員の言論統制を強化し、そのうえで、整然たる説明が不能な新綱領を党内討議とは名ばかりの質疑応答で採択するという手順を採用することになるわけです(注4)。
そして、今ひとつ重要なことは次の点です。共産党が現在採用している組織形態=「民主集中性」はレーニンの党組織論ではありません。歴史的な諸条件が違うところへ、レーニンの党組織論を持ってきても、それはレーニンの党組織論ではないのです。似て非なるものです。マルクスが「私はマルクス主義者ではない」と言ったゆえんです。歴史的な諸条件が異なるところへ、仮にまったく同じ組織を持ってきたと仮定しても、その組織が果たす機能は同じものではあり得ません。だから、似て非なるものなのです。不破は「議会の多数を得ての革命」と似て非なるレーニン党組織論を結びつけているわけです。
同じことは、「議会の多数を得ての革命」自体についても言えるのです。現代の平和革命論はマルクス段階の平和革命論とは異なるもの、異なる必然性にあります。当時とはまったく歴史的諸条件が異なるからです。飛行機すらなかった時代と宇宙からターゲットを測定してミサイル攻撃をする時代では異なって当然です。不破のように、マルクスに助けを求めて産業資本主義の最後の平穏な発展の時期に出てきたマルクスの平和革命論に、いわば先祖返りしても、現代の平和革命の諸条件は一歩たりとも明らかにできません。 現代の平和革命の諸条件とは、共産党の全運動をも含むのであり、そこには大衆運動との関わりや選挙戦術、さらには、新綱領の社会主義論(未来社会論、それはプロレタリア独裁論や社会主義諸国の80年の経験の総括を含むべきものです)から国政選挙で敗北したときの対応にいたるまで、およそ、ありとあらゆる共産党の活動領域が含まれてきます。そればかりではありません。旧来の社会民主主義やその政党との関係、統一戦線という考え方やその形態、はては、一般民主主義運動の歴史的役割の変化(世界の反戦運動高揚の意味、NPO、NGOなど)と党の関係、したがってまた党の歴史的な役割の変化なども当然含まれてきます。党とその運動をとりまく全社会関係が変化してくるときに、党の歴史的役割がマルクス、レーニン段階のものと異なってくるのは当然のことです。前衛党規定が削除される歴史的根拠がここにあります。
そうした諸関係の新たなる創造のために、党員、国民の偉大なる創意、実践こそが求められているときに、創造的な探求の方向でではなく、不破のように、官僚的な組織運営と、後ろ向きの馬鹿げた文献研究で、マルクスに救いを求め、マルクスを誤って解釈していては、あらゆる意味で従来の運動と思考の枠組みから抜け出すことはできません。その一例が前衛党規定を削除したものの、それに替わる新たな党理念を打ち出せず、相変わらず、前衛党的対応をとっていることに見ることができます。その意味では不破の「議会の多数を得ての革命」論は、古いものを身いっぱいにまとう恐ろしくミゼラブルで臆病な、いまだ抽象的な平和革命論にすぎません。パリ・コミューンが血の海に敗北した時代に、マルクスがイギリスに平和革命の可能性を見いだした先駆性や、第1次世界大戦の殺戮とロシア革命の中で千載一遇の好機を利用して平和革命の可能性を追求するレーニンの大胆不敵さとは比べるべくもありません。
その場所ではありませんが、ついでに言わせてもらえば、不破の思考方法の第4の特徴は不破独自のものではなく、世界的に共産主義者の党が行ってきた共通の理論的な誤りなのであり、共産主義が世界的に凋落した根本的な理論上の原因のように見えるのです。
そして、現在流行のレーニン批判は、不破や、逆に不破らを批判する者を含めて、似て非なるレーニン組織論をレーニン組織論と理解(錯覚)して批判する類のものが大半です。むろん、レーニンとて人の子、無謬ではありませんが、こうした産湯とともに赤子を流すような風潮の根本は、すでに見てきたような不破らが独占的に解釈してきた「科学的」社会主義にあることもいうまでもありません。
<(注4)ふり返ってみれば、2000年の規約改定時が共産党の転換点であったようにみえます。本来やるべきことがすべて逆になり、それとともに、共産党の国政選挙における凋落が開始してしまいました。国民はこの党を良く見ている(高等教育の普及、情報化時代の進展、社会主義諸国の崩壊、湾岸戦争等を経過して進む既成の権威の崩壊と個人の自己決定思想の一般化)のであって、やはり、党中央が立ち往生しても、あえて党中央の実情をさらけ出し、誠意と熱意、そして勇気を奮い起こし、真の路線採択に向けた全党討議を貫徹するべきだったように思えるのです。レーニンは大戦と内戦の最中にブレスト講和条約をめぐって、党内での大論争を敢行しています。それに比べれば、大論争をする条件はいくらでもあるのに、姑息に官僚的な対応で事態を糊塗する不破の怯懦は形容すべき言葉もありません。
この時期はと言えば、1998年の参議院選で820万票の票を獲得し、不破は情勢が我々の路線に接近してきたと手放しの喜びようで、足下の機関紙の減少や各種運動の停滞、青年層の弱体化などを忘れたかのごとき有頂天ぶりでした。一方、日本経済に目を向けると山一証券などの大企業が倒産、日産の5工場閉鎖などが新聞をにぎわし、失業者が増大し、企業は再生に向けてリストラに血道を上げていた時期でした。日本経済の全面的な編成替えを思わせる、この未曾有のリストラが意味するところを現実の分析から摘出し、よりいっそうの発展のための政治方針を練り上げるのではなく、不破は虚構の仮説を書き上げることに熱中し、統制強化の規約改定→新綱領という構想を練っていたわけです。ごらんのように、ここでも不破のやっていることは、歴史の現実(歴史的諸条件!)との対決=分析ではなく、歴史を忘れた理論、文献への逃避行なのです。不破がいかに情勢を見ることに暗いか、歴史的諸条件を忘れた不破のマルクス理解が現実を分析することに、いかに役立たないか、それは当サイト「さざ波通信」の創刊が1999年の2月であることと対比するだけでも明瞭なのです。
事ここに至れば、自己変革ぬきでは、窮地からの脱出口は対外的には国民の窮乏化待望、民主党らの大失策、大分裂を期待するほかなく、党内的には実践の成果もなく、理論の神通力もなくなったのでは、不破の神格化で党内結束をはかるほか手がないという、本質的に受動的で、アナクロニズムな対応に追い込まれてしまいます。最近の「赤旗」には不破神格化の傾向が強く出てきています。裸の王様が紙面をうろつくようになりました。参議院選を総括した2中総では、窮鼠猫をかむかのごとく、国民に論戦を挑むという対策まで出てきています。飼い主(国民が主人公!とは共産党のオハコではなかったのか?)である国民にまで噛みつくようでは、不破には周囲が完全に見えなくなっているのです。共産党の指導者は次の言葉を思い出して、頭を冷やし、国民を改革する前におのれを改革することが必要となっているのです。「政治的責任は峻厳な結果責任」(丸山真男「戦争責任論の盲点」1956年、『戦中と戦後の間』所収、みすず書房)なのです。結果に責任を負えぬ者はおのれの政治活動を反省することはできません。なぜなら、善良なる意思が、それ自体で無条件に肯定されてしまうからです。善良なる意思が野放しにされたことによって、左翼運動がどれだけの損害と悲劇を生んできたことか。>
13、おわりに
革命の平和的可能性をめぐる議論は、ロシア革命以来、90年近くもの間、プロレタリア独裁論とともに議論されてきたマルクス主義革命論の主要問題のひとつです。この問題で、すでに見たような初歩的な誤りを犯し、それにまったく気づかない不破の議論(注5)は一体何を意味するのでしょうか? 考えなければならないのはこのことです。
ここで不破が犯した誤りは個別の理論上の誤りではなく、マルクス主義そのものの理解にかかわる重大な誤り(史的唯物論の無理解)なのです。マルクスを隅から隅まで暗記していてもマルクスを理解できなかった有名なカウツキーの前例もあるくらいですから驚くにはあたらないのですが、レーニンの亡霊を呼び出していえば、つぎのようになるでしょう。
「マルクス主義の経文読みであるカウツキーが、マルクス主義をこのように途方もなくゆがめたことは、どう説明すべきであろうか?この現象の哲学的基礎を述べるとすれば、ことは弁証法を折衷主義や詭弁とすりかえることに帰着する。」(「プロレタリア革命と背教者カウツキー」全集28巻246p)
そして、帰着の結果は国民に論戦を挑み、噛みつくところまで来てしまったのです。
最後に言わなければならないことは次のことです。すでに見たように、「議会の多数をえての革命」を称揚する政治的意図から学問的良心を投げ捨て、レーニン無知論をでっち上げる詐欺師の所業、マルクスらの平和革命論すら歪曲するマルクス理解、このような人物が日本共産党の中心に君臨し、「科学的」社会主義を独占的に解釈し、党中央独裁となる規約改悪(第22回党大会、第5条の5、第23条)を行い、なし崩しの新綱領を作成し、国政選挙で4連敗の大惨敗を喫しても「これこそ、まさに階級闘争だ」と、無責任にその地位に居直る傲岸と破廉恥、そのうえ、党創立記念講演で「不屈の伝統」を説教し、新綱領の歴史的意義を講釈する厚顔。
この有様で、国民の信頼と共感を得られるのかどうか? 党員の創意ある多彩な活動を引き出しえるのかどうか? 多感な青年たちを結集できるのかどうか? 科学的社会主義を再生させる旺盛な理論活動を行うことができるのかどうか? 今や、不破は党改革をはばみ日本共産党凋落の根源になっているのです。
<(注5)不破はマルクス、エンゲルスの革命論、特に革命の平和的移行の問題を二度にわたって研究してきたと述べています(K下130P、L293p、G89p)が、実際には三度です。いや、新著を入れれば四度目ともいえましょう。1967年にでた無署名論文「極左日和見主義者の中傷と挑発」(通称「4・29論文」)において、すでに取り扱われており、この投稿で取り上げた7文献のうち5文献が引用されています。それらの文献とは第2文献、第4文献、第5文献、第6文献、第7文献であり、不破は「4・29論文」作成にあたり、文献収集の苦労話を「世紀の転換点に立って」(2000年1月3日付の「赤旗」、「レーニンと『資本論』」第5巻所収)というインタビュー記事で語っています。
不破の議論の変化は「4・29論文」を起点として、日本共産党の綱領から「プロレタリアートの独裁」という用語を削除するために書かれた「科学的社会主義と執権問題」(1976年、不破「科学的社会主義研究」所収)、1990年には「赤旗」連載の「自由と民主主義の先駆的な推進者ーマルクス、エンゲルスの理論と実践から」という論文(不破・「科学的社会主義における民主主義の探求」所収)へと、徐々に、時代の変化に便乗してレーニン批判のボルテージを上げ、本稿が取り上げた『議会で多数を得ての革命』が最新の到達点となっています。何度も同じ道を通いながら、腕を上げたのは虚構の仕掛けについてだけであり、誤った思考方法(特徴1~4)はついに是正されず、本投稿で摘出できるようになるほど、逆に純化されて表出される結果になっています。
なお、不破のこの著作について、党の幹部による評価について触れておきます。まず、2000年1月3日付の「赤旗」インタビューでは、インタビュアーの一人、山口富雄(現幹部会員・衆議院議員)は「こんどの研究は『国家と革命』の再検討として、新しい到達点にきたな、と思っています。」などと、著作の内容にそぐわぬ、まったくの提灯インタビューぶりです。不破の兄である上田(党幹部会副委員長)は鶴見俊輔との対談で次のように言っています。「ともに不破哲三議長の研究成果ですが、党の常任幹部会でも討議して、レーニンの『国家と革命』のその考え方を乗り越えて、本当に平和的民主主義的な革命の路線というものを党としてしっかりすえました。」(「経済」新日本出版2004年1月号、45ページ) 「4・29論文」とはまったく逆の評価になる不破の議論がいとも簡単に常任幹部会で承認されており、党大会で採択されていないうちから、不破の議論が新綱領の基礎になっていることも表明されているわけです。
最後に現常任幹部会員であり、都委員長、先の都知事選の候補者ともなった若林義春が「赤旗」(2004年8月29日)にのせた書評を見てみましょう。「私が今回の著作を読んで画期的だと思うことの第1は、直接の吟味の対象はレーニンの理論であっても、そのための不可欠の作業としておこなわれたマルクス、エンゲルスの国家論、革命論について、まとまった解明がおこなわれたことです。」 万歳三唱の提灯書評の見本がここにあります。不破が解説したエンゲルスの極めて短い第1文献だけでも、まともに読んでいれば(注3参照)、こんな評価は決してできなかったでしょう。そればかりではありません。不破がウソをついてきたことまでオウム返しに書き込んでいます。レーニンの理論について「4・29論文」で早くも「批判の態度を明らかにしてきました。」と恥ずかしげもなく書き込む精神は、ただの太鼓持ちか、そうでなければカルト信者のそれと変わりはありません。書評一つとってもおのれの見識が試されるという緊張感はどこにもありません。不破の周辺の幹部団のなかには、不破の議論を批判的に吟味するという精神はないようで、共産党の凋落に符節を合わせて王様は裸になっていくようです。
2004/9/11