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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

1893年のドイツ社会民主党と2004年の日本共産党

2004/12/17 原 仙作

 人文学徒さんが、10月25日付の投稿(党員欄)で日本共産党の改革像の骨格を示されていますが、当サイトで議論すべき主要なテーマの一つだと思います。そこで、議論の発展を願って以下のような参考資料を投稿します。
 党改革の前提となる党の現状について共通認識を形成するために、一つの対比を通じて、私がこれまで投稿したものとは別の視点から問題点を明らかにしてみたいと思います。
 現在の日本共産党(以下JCPと略記)と対比する対象は、エンゲルスがその晩年、1890年代に観察したドイツ社会民主党(以下、SPDと略記)です。百年の歴史を越えて、いわばグローバルに、不破氏が得意とする世界史の流れを俯瞰する視野にたって問題を考えてみようというわけです。以下、どんな世界が見えてくるかをご覧下さい。

1、1893年のSPDの選挙戦と現在のJCP
 エンゲルスは今を去ること110年前の、1893年に行われたドイツ帝国議会選挙で、SPDが躍進したことを高く評価して次のように述べています。

「わが党の成長が正常な率でつづいていけば、われわれは、1900年と1910年とのあいだに多数派になるでしょう。」(「『ザ・デイリー・クロニクル』紙特派員とのエンゲルスのインタビュー」全集22巻542ページ)

 エンゲルスをしてこのように言わしめた当時のSPDの選挙事情を概観してみると、次のような具合でした。
 まず、選挙制度ですが、当時の選挙制度は定員1名の小選挙区制で、選挙区の投票数の絶対過半数を得て当選、絶対過半数に達しなければ上位2名の決選投票で当選者を決めるという選挙制度でした。現在の日本の衆議院選挙よりはるかに当選することが難しい選挙制度であることがわかります。
 このような選挙制度のもとで獲得したSPDの議席は、エンゲルスによれば、第1次投票では24議席、第2次投票(決選投票)に残った85名のうち20名が当選しました。つまり、合計で44議席になるわけです。得票数は178万、得票率は「全投票数の4分の1以上」(全集22巻、513p)となっています。しかも、「われわれは、ベルリンでは定員6名のうち、5議席を得ました。」(「同インタビュー」全集22巻537ページ)というほどに躍進しました。老エンゲルスのるんるん気分がわかるような気がします。
 そこで、SPDが得た得票率を、さきに行われた参議院選の得票数に換算すると、25%の得票率では比例代表の得票に換算して約1400万票になります。参考までに各党の比例代表得票数を列記すると、自民1680万、民主2110万、公明860万、共産440万、社民300万となっています。つまり、当時のSPDは自民党に肉薄する得票数を得ていたわけで、エンゲルスの未来予想もうなずけるのです。じじつ、1912年の選挙では110議席を獲得し議会第一党(「ドイツ史」山川出版、344ページ)に躍進しています。
 SPDの選挙戦でのたたかいぶりを見ると、

「一種の急進=共和派の政党である国民党の一小部分を例外として、全政党がわれわれに反対して連合しました。われわれは391名の候補者をたて、他党と協定することを拒否しました。われわれはそれをやる気があったら、もう、2、30議席ふやしていたかもしれませんが、」(同インタビュー、全集22巻538ページ)

 このエンゲルスの発言からわかることですが、SPDは総議席数397のうち、391の選挙区で候補を立て、そのうち109名(一発当選24プラス決選投票候補者85)が当選か当選圏内の得票数を得ていたことになり、44議席を獲得し、選挙協力をすれば、さらに2、30議席増やすことができただろうというわけです。昨年の総選挙で300の小選挙区に候補者を立てながら1議席も獲得できなかったJCPとの違いは歴然としています。

2、当時のドイツの社会状況
 さて、このような躍進をとげたSPDをめぐる当時の社会状況を見てみましょう。
 まず、最初に取り上げなければならないのは、社会主義者の出版と集会を禁止していた社会主義者取締法です。この法律はビスマルクによって制定され、1878年から1890年までの12年間実施されていました。したがって、党の機関紙(週刊)は国外で印刷されて、非合法にドイツに持ち込まれ、集会も非合法でしか開催できなかったわけです。その弾圧ぶりをエンゲルスは次のように書いています。

「プロイセンだけで、1879年10月から1880年10月にいたる1年間に大逆罪、反逆罪的重罪、不敬罪等々のかどで投獄された者は、じつに1108人にのぼっており、政治的誹毀、ビスマルク侮辱または政府誹謗等々のかどで投獄された者は、じつに1万94人にのぼった。1万1202人の政治犯・・」(「ビスマルクとドイツ労働者党」1881年、全集19巻275ページ)

 当時の国家は、皇帝ウィルヘルム2世をいただくボナパルチズム国家(ブルジョア国家の一形態)と言われていますが、社会主義者取締法が廃止された1890年段階においてもなお、「半ば絶対主義的な」(エンゲルス「1891年の社会民主党綱領草案の批判」全集22巻240ページ)ものでした。エンゲルスによれば、帝国憲法を「人民とその代議機関とに与えられた権利によって測れば、1850年のプロイセン憲法のまったくの敷きうつしである」(同239ページ)といい、「政府が全能で、帝国議会や、その他すべての代議機関が実権をもたないこのドイツ」(同240ページ) 「ドイツでは公然たる共和主義的な党綱領をかかげることさえ許されないという事実」(同241ページ)とまで述べています。
 日本の戦前同様の状態だったわけであり、今日の日本とは比べものにならない困難な条件の下でSPDは活動していたことがわかります。この党は1890年までドイツ社会主義労働者党という名称で活動していましたが、圧政のもとでも着実に得票数を増やしてきています。1877年49万、1884年55万、1887年76万、1890年143万という具合(エンゲルス『ドイツにおける社会主義』1891年、全集22巻256ページ)です。
 経済はどうでしょうか?日本には歴史的にもまれな戦後の高度成長がありましたが、ドイツの大工業も急速な発展を遂げつつありました。普仏戦争の結果、「フランスではもちろん、1871年5月の出血から回復するまでには何年もかかった。ところが、ドイツでは、工業が、-おまけにフランスからとった数十億の金のおかげで、まるで温室づくりのように助成され、-いよいよ急速に発達したが、それよりもさらに迅速に、さらに根づよく社会民主党は成長した。」(エンゲルス「『フランスにおける階級闘争』への序文」1895年、全集22巻513ページ)
 ビスマルクの圧政と急速な経済発展の下で、SPDは勢力を拡大してきたわけです。
 当時のドイツと現在の日本の階級構成をみると、少し古い資料ですが、岩波新書の『日本の階級構成』(大橋隆憲編1971年)によれば、1965年の労働者階級の比率56.9%(同書85ページ)となっており、40年後の現在では60%を越えているでしょう。1895年のドイツでみると、「工・手工業」を職業とする者の比率37.8%(「ドイツ社会民主党史序説」安世舟著1968年、96ページ)となっています。基準のとり方が違うので一概には比較できないのですが、現在の日本の方が労働者階級の構成比率がずっと高いことは容易に想像できます。1890年のドイツの労働組合員数36万4千人(安、同書112ページ)、2001年の日本の労働組合員数1121万人(労働省「平成13年・労働組合基礎調査速報」)となっています。

3、西ヨーロッパにおける当時のデモクラシー観
 もう一つ、国民意識にかかわるものとして、当時の民主主義(デモクラシー)観がどのようなものであったかを見てみましょう。政治学者・田中浩氏の著作『国家と個人』(岩波、1990年)にDemocracyという言葉がイギリスで使用され始めた歴史的経緯がビアードの著作『共和国』から引用されています。

「デモクラシーという言葉は16世紀の初頭のころすでに英語になったものです。そのころ英語でものを書いたひとびとは、デモクラシーという語をアテネその他の古代都市国家にあった政治形態の意で使ったのでした。・・・英語で使用されはじめのころは、デモクラシーという語は、別に良い意味も悪い意味ももってはいなかったのです。しかし、英国人が、17世紀のクロムウェル革命を終点とする、あのながい激烈な闘争をおっぱじめたころから、デモクラシーという語は、社会闘争の意味合いをもつようになりました。保守派は暴民・衆愚-かれらは人民一般をこう呼んでいたのです-による政治という意味で、この語を使いました。保守派にとっては、それは、およそ考え得れる最悪の政治形態-法・秩序および財産などを破壊にみちびく、たんなる混乱・無秩序状態-を意味したのです。」(田中・同書72ページ)

 また、政治学者・福田歓一氏の著作『近代民主主義とその展望』(岩波新書)によれば、「本家のヨーロッパの場合はどうであるかといいますと、実はここでも民主主義という言葉ははなはだいかがわしい言葉であって、それが間違いなく正当な言葉、いい意味をもった言葉として確立したのはこの第1次世界大戦のときであったのであります。」(福田・同書3ページ)と述べています。つまり第1次世界大戦までは、デモクラシーという言葉は保守派はもちろんのこと、通常は歓迎されざる言葉として理解されてきたというのです。
 保守派の論客・長谷川三千子氏も『民主主義とは何か』(文春新書)という著作で、デモクラシーという言葉がフランス大革命の「暴民の支配」と結びつけられ、マイナスのイメージを持つ言葉として使われてきたという福田氏の主張を「この説明は正しく的を射た説明」(長谷川同書13ページ)だと述べています。
 イギリスのクロムウェル革命と結びつけるか、フランス大革命と結びつけるかは学者の議論に任せるとして、いずれにしても、第1次大戦前はデモクラシーという言葉は通常はマイナスのイメージで理解されてきたと考えていいでしょう。
 そういうことになると、「民主主義をたたかいとること」というスローガンを1848年に打ち出した『共産党宣言』の先駆性も理解できますが、それだけに、その実現をめざすSPDの運動の困難さは、社会主義者取締法の鉄鎖とともに想像を絶する困難があったことは容易に理解できます。

4、得票における落差が示す問題の所在
 このように、当時のSPDが置かれた社会環境とその得票を一方におき、今日のJCPが置かれた社会環境と得票を対比してみると、いったいどのようなことが見えてくるでしょうか?
 今日のJCPがおかれた政治的・社会的環境は、当時のSPDの場合より格段に有利なはずなのです。絶対的に有利だとすら言えるでしょう。労働者階級に属する人間が大多数を占め、高等教育が普及し、民主主義が肯定的に評価され、自由な言論と集会、それにもとづく選挙戦ができるのですから。しかし、実際には選挙戦での到達点はJCPの440万票対SPDの1400万票(換算値)という落差があるわけです。
 この落差の関係は、本来の理解(マルクス主義の一般的見地=労働者階級とその政党の歴史的発展の法則性)では逆でなければならないはずなのです。選挙戦での前進、後退はあるわけですが、100年という期間で見れば、どう解釈してもJCPのほうが発展していなければおかしいのです。SPDは1875年の創立(ラサール派との統一)以来、20年足らずで1400万票の水準に到達しています。しかも、そのほとんどの期間を通じて社会主義者取締法が実施されていたのです。
 いわば、110年前のSPDとくらべると、得票数の歴史的発展段階が一段階も二段階も下のレベルにある政党が現在のJCPなのです。
 JCPの創立は1922年ですが、戦前のJCPの活動は無視(注)することにして、戦後だけでも約60年間も活動してきているわけですから、この落差は画段階的なものと言わざるをえないのです。
 この比較から見えてくるJCPの落差・停滞は、その主要な原因をJCPを取り巻く政治的社会的環境に求めることができるでしょうか。JCPが活動する日本の特殊な環境(代表的なものは反共風土、高度経済成長)というよりも、むしろJCPの活動に根本的な欠陥があることを示していると考えるほうが、自然であり、合理的だと思えるのです。党自身に主要な原因があり、社会環境は従属的な原因だ、というわけです。上記の社会環境を比較してみればその逆は考えられません。確かに社会主義諸国の崩壊という大状況もありますが、その崩壊以前でも、この落差は埋められていたわけではないのです。
<(注)ここでの比較は、そのまま戦前のJCPの活動を照射する視角としても使えます。エンゲルスはインタビューで次のようにすら述べています。

「われわれの組織は-敵が賞賛しかつ絶望するほど-完璧です。それがそんなに完璧になったのは、アイルランドにたいする貴国の強圧法と非常によく似た、ビスマルクの社会主義者取締法のおかげです。」(「同インタビュー」全集22巻542ページ)

 JCPは戦前の党組織が壊滅した理由として治安維持法による弾圧をあげるのですが、エンゲルスは逆のことを言っています。このエンゲルスの発言は「ほら」話とは考えられません。とすれば、戦前のJCPの活動を見る場合、「唯一反戦の党」というJCPが誇ってきた自己評価を含めて、全面的な見直しが必要であることをエンゲルスの発言は教えています。私の狭い知見の範囲では、そこに切り込んだのは故丸山真男、ただ一人です。
 また、このエンゲルスの指摘は次のような問題を提起しています。マルクス党の実践における失敗の原因を外的諸条件に求めることが一体どこまで許されるのか、という問題です。私見では、弁証法的唯物論とそれに基づく実践の意味に関わり、また、その実践的担い手の道徳的優位性をも担保する問題のように見えるのです。かつて、レーニンが「絶対に活路のない情勢というものはない。」(「共産主義インターナショナル第2回大会」レーニン全集31巻、219ページ)と言った言葉が思い出されます。この問題について、どなたかの投稿を期待したいものです。>

5、エンゲルスの指摘と奇妙に符合するJCPの姿
 上記のインタビューでエンゲルスは重要な指摘をしています。

「われわれの綱領は、イギリスの社会民主連盟の綱領とほとんど同じです。もっともわれわれの政策は非常に違うが。」

 綱領はほとんど同じで政策は非常に違う! これはどういうことでしょうか? エンゲルスの注釈を聞いてみましょう。

「イギリスの社会民主連盟は、小さな宗派にすぎず、またそのようにだけ行動しています。この連盟は、封鎖的な一団体です。それは、総じて労働運動の指導にあたるやり方とこれを社会主義に向けさせるやり方を理解しませんでした。これはマルクス主義を正教派信仰に変えてしまったのです。」(全集22巻、539p)

 イギリスに住み、長年、イギリスの政治・労働運動を観察してきたエンゲルスのこの指摘は、うえに述べた歴史的落差の原因について考える場合、非常に重要だと思います。綱領がほとんど同じでも、それは採用する政策、運動の進め方などの同一性、類似性を保証するものではなく、それらの相違が党勢の伸張に直結していることを実例で示しています。
 同じような綱領を掲げていても、つまり、大局的には正しい綱領を掲げていても、一方は1400万票を獲得する水準に到達し、他方のイギリス社会民主連盟は小セクトのままとどまる。小セクトにとどまる理由はその党が進める政策に問題があり、「そのようにだけ行動」(実践)しているからなのであって、その行動は「封鎖的な一団体」という特徴を持ち、労働運動を指導する仕方を知らず、従ってまた、国民の支持を得る仕方を知らないということなのであって、それらの政策・行動に共通する問題とはマルクス主義を実践の指針にするのではなく、また実践による検証という反省をくぐらせることのない「信仰」・教義に変えてしまったということにあるわけです。
 エンゲルスの社会民主連盟についての特徴づけは、そのまま現在のJCPにあてはまります。
 なお、『社会民主主義連盟』についての全集編集者の注をみると、次のように書かれています。

「イギリスの社会主義的組織で、1884年8月に創立され、主としてインテリ層出身の種々雑多な社会主義的分子を集めていた。連盟の指導権を長く握ったのは、改良主義者、とりわけ日和見主義的セクト的政策を押し進めたハインドマンであった。」(全集22巻、572p)

 この編集者による注釈では、「主としてインテリ層出身」という指摘が注目されるところです。

6、結論  以上のような検討からすれば、JCPが発展できない主要な原因は、これまで多くの投稿者によって指摘されてきたように、宗派(セクト)的な理論認識と現実認識およびそれらにもとづくセクト的な実践活動にあることは間違いないのです。
 実例を挙げてみましょう。そのセクト的な理論認識は、私の「党理論・政策」欄への投稿「レーニンが無知なのか、不破哲三が無恥なのか」で一例を示しました。そのセクト的な現実認識は、去る2中総における参議院選の総括=「党の議席の値打ちの押し出し」論に見ることができます。また、そのセクト的な実践活動の事例は国政選挙における全小選挙区への立候補に見ることができます。
 最後に、SPDがとった選挙戦術に関して、ふたたび、エンゲルスの上記インタビューからの発言を引用すると、次のような興味深いことを言っています。

「第2次投票(決選投票-引用者・注)のさいに賛成投票すべき候補者をわれわれがもたなかった選挙区では、われわれの支持者には、軍事法案と、一切の増税、一切の人民の権利の制限に反対投票することを誓う候補者にだけ投票するようにとの指示がだされました。」(全集22巻、540p)

 このエンゲルスの発言をよりよく理解するために、多少の注釈をすると、SPDに対して共和派国民党の一部を除いて、ほとんど全ての党が反SPD連合に参加したにもかかわらず、SPD支持者への呼びかけでは、共和派国民党の一部だけに限定しておらず、全政党を対象に、当時の政治情勢の中心問題であった軍備増強に反対する候補者への投票を呼びかけているということです。JCPのセクト的な選挙戦術との相違は明瞭です。

7、補足 セクト的な現実認識の最新の事例
 最近、党中央は党内事情を理由に、全選挙区立候補を事実上取りやめることにしたようですが、ここでも取りやめの理由はセクト的現実認識にふさわしく、日本の政治情勢ではなく党内事情であることが特徴的です。このような転換を行ったのは、「現在の党の力量を考えてのこと」(「赤旗」11月9日)で、供託金没収の問題もあり、選挙区で日常活動を行わない党員が選挙の時だけ立候補を繰り返すのは「かえってわが党の国政に対する真剣さが問われることにもなりかねない」(同「赤旗」11月9日付)からだそうです。この転換は歓迎すべきことですが、どこまでもセクト的な認識に貫かれている点は見落とすわけにはいきません。
 また、直近では北朝鮮側が出してきたニセ遺骨問題をめぐり、「責任負える当事者」に交渉担当者を代えろという提案(12月10日付「赤旗」)をしていますが、まったく現実が見えない(あるいは何らかの理由により見ようとしない)馬鹿げた提案であることは一目瞭然です。ニセ遺骨の再提出が、責任ある北朝鮮国家中枢の行為であることは、JCP中央以外は誰にでも察知できることです。経済制裁へ直進する事態を回避する苦肉の提案であると好意的に解釈するにしても、国民から嗤われるような提案では意味がありません。こうしてJCP中央の主張は国民から遊離していくのです。