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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

日本共産党の客観主義哲学について

2005/1/1 人文学徒

 原仙作さん。僕の「日本共産党の全体像をこんなふうに変えてみたい」のテーマに ついて、17日「理論・政策欄」で「議論の発展を願」われた丁寧な資料と討論、ご 苦労様でした。またありがとうございました。この討論は、僕の最大論点の興味深い フォローだと読むことができて、有難いやら嬉しいやらさらにその上に、「朋あり、 遠方より来る」と、またしても親しみが増したというそんな感じ。早速僕も全く微力 ながら、貴方のこの議論をフォローしてみたいという気持が湧いてきました。

 本論に入る前に、さざ波の皆さん全てに、改めて訴えたいことがあります。僕の二 つの、論文、エッセーについて、もっと議論が欲しいということです。僕の議論が優 れているなどというつもりでは全くなくて、共産党そのものを対象にした全体的情勢 分析(9月16日「日本共産党の惨状の本質に関わって」)、その全体的改革像(1 0月25日「エッセー、日本共産党の全体像をこんなふうに変えてみたい」)という 論点こそさざ波が論議すべき最大テーマではないかと、こう言いたいのです。このサ イトでこれより大切な議論があるでしょうか。皆さん、きつく言わせて頂けばこの点 をおいて他にこのサイトで何を討論するんでしょう?朝鮮問題もイラン問題も勿論大 事です。が、日本国民として主体的な立場でこれらの課題を話し合おうとすればこの 政党の問題こそ避けて通れないというのが、ここに意識して集まった方々の立場、人 生なのではないのでしょうか(別にそうでない方、そんな積もりはないと言われる 方、個別問題だけで参加していると言われる方などを排除する意図は毛頭ありません よ。またもちろん、もう別の政党を作らなければことが進まないから、そのことを呼 び掛けるという投稿も同等に良いわけですけれど。)。 部分的でも良い、間違って いても良い、訥々とした言葉でもよい。日本共産党内部においても、みんなが「改革 全体」に関わってしゃべらないから、不破法王が生まれるという側面もあるわけで しょう。そういうのは、やっぱりいけませんよ。

 僕も引っかかりましたが、ここにはネット荒らし(客観的には、というのも含みま す。個人批判専門のものはこれでしょう?)もいますね。党や左翼への「嘆き」、 「皮肉」と見せかけた内容、口調。ご自分の見解は結局、ほとんど冷やかし同然の命 題、遊び感情だけ。こういうゲーム屋さん、愉快犯に関わっては、誠実に付き合った その相手の方の立派さばかりが僕には見えますがそれはさておき、これとはまた別 に、実証抜きの「ほとんどアジ演説」や、叫び・悲鳴に等しい「公式的時事評論」や も見られます。こういうもの全ての中にも、リアルで面白いもの、一つのエッセーと しては楽しめるものはありますし、時事問題の方々もここに多く参加はしてきて欲し い。しかし、さざ波の志にあった投稿(内容の質ではないですよ)を相手にしてその 議論を発展させるフォローがもっともっと必要ではないでしょうか。恥を忍んで、こ の論点「全体」の「焦点」の部分の積もりで提起していることについては。よろしく お願いします。

 なおこういう議論については「割り込み」、「飛び入り」、「場外」その他全く自由 な参加が望まれます。さざ波はそもそも1対1でやるところではなくって、いわば各 テーマについて自由・平等参加の、それも随時入退場自由の、いわば「円卓討論場」 のはず。「左の左」のここの主催者は、「左の右」のこの僕の投稿を一度も没にした ことがないというそれほどに日本共産党とは違って討論の自由を尊重している方々で す。そこのところもよろしくお願いいたします。

 さて原さんの結論的部分を抜粋してみましょう。

「マルクス党の実践における失敗の原因を外的諸条件に求めることが一体どこまで許 されるのか、という問題です。私見では、弁証法的唯物論とそれに基づく実践の意味 に関わり、また、その実践的担い手の道徳的優位性をも担保する問題のように見える のです。かつて、レーニンが『絶対に活路のない情勢というものはない。』(『共産 主義インターナショナル第2回大会』レーニン全集31巻、219ページ)と言った 言葉が思い出されます。この問題について、どなたかの投稿を期待したいもので す。」
「同じような綱領を掲げていても、つまり、大局的には正しい綱領を掲げていても、 一方は1400万票を獲得する水準に到達し、他方のイギリス社会民主連盟は小セク トのままとどまる。小セクトにとどまる理由はその党が進める政策に問題があり、 『そのようにだけ行動』(実践)しているからなのであって、その行動は『封鎖的な 一団体』という特徴を持ち、労働運動を指導する仕方を知らず、従ってまた、国民の 支持を得る仕方を知らないということなのであって、それらの政策・行動に共通する 問題とはマルクス主義を実践の指針にするのではなく、また実践による検証という反 省をくぐらせることのない『信仰』・教義に変えてしまったということにあるわけで す。」

 さて、日本共産党(以下、僕もJCPと略します)の致命的欠陥も東欧崩壊つまりス ターリン主義、党官僚制と呼ばれてきた諸「現象」も哲学的には、人間の実践概念不 在、「客観主義」という同じ本質を持ったものではないかと、僕は考えてきました。 そもそも僕のこのさざ波への初投稿、「『科学』の批判」(03年11月15日、 「組織論・運動論」)が、一定の哲学的知識がある方ならば題名からも推察できるよ うに、そういう「客観主義哲学」批判を内容とするものの積もりです。

 さて初めに、マルクスの実践概念の哲学史的位置づけを振り返ってみましょう。

 マルクスの先生、ヘーゲルの哲学は昔の言葉ではよく「思惟即存在」と言われまし た。ドイツ古典哲学の最大テーマ、主観・客観問題を、絶対精神が自己を外化したそ の上でその外化を自覚していく、そういう自己運動の体系として捉えることによって 「思惟即存在」を、「実現」していったものです。観念論体系としてではありますが 「事柄に即する」という態度で、ヘーゲルはこれを行っていきました。そして若いマ ルクスは、このヘーゲルの体系を意識した上でこれを「感性的人間的活動」、実践と いう概念によって捉え直そうとしたのでした。この場合、この概念の定義はさしあ たってこんなふうに言うしかありません。ヘーゲル体系の中心に置かれた客観的精神 のようなものでもなく、我々個々の人間の意識のようなものでもなく、静止した物体 でもない、人間たちが行い誰の目にも見えるような活動の総体と。「ドイツイデオロ ギー」や「フォイエルバッハテーゼ」の時代のマルクスの概念であって、当時までの 哲学の根本的諸概念に匹敵するグローバルさを付与された概念です。そして二十世紀 になって、世界の唯物論哲学の世界では、この実践概念と歴史の唯物論的要素(「土 台」)との関わりについて、ずっと論争が続いてきたかと思います。政治の世界の 「正統マルクス主義」はこの実践概念の全てをこの史的唯物論に換え、その基本叙述 は終わったとしてさらに、「哲学の基本も終わった」と扱ったわけでした。人間世界 の唯物論的叙述が済んだのだから、もう人間が感じ、考え得る世界というもの全ての 唯物論的叙述(弁証法的唯物論)が基本的に確立されたのだと言い続けてきたわけで す。そのうえでさらに、こういう「正統派」の弁証法的唯物論への世界の共産党の帰 依ぶりは、まー以下のような凄い調子だったんです。「史的唯物論が成立しなけれ ば、弁証法的唯物論は成立しないでしょう」とちょっとでも言おうものなら即座に、 「唯物史観主義だ」とか「ほら、例の実践の哲学ね」、「物質概念のかわりに実践を 持ってくるおつもりか!」と批判するという、そんな有様でした。その後マルクスは 確かに、土台の現代版、「資本」に焦点を当てた研究をおのれのライフワークとして いきます。だからと言って、資本が現代社会の「土台」としていかに広大な照射力を 持つからといって、ドイツ古典哲学のグローバルさを残して、その後のマルクスを導 いていった実践という全体的根本的な概念の全てを資本とか、土台とか、さらには物 質という概念に置き換えることができるのでしょうか。この実践という概念は、それ を視点にして始まった社会分析で資本その他いくつかの現代の土台に関わる概念を発 見してしまえば、もう過渡期の生煮えの概念だとして捨て去られるようなものだった のでしょうか。僕はそうではないと考えます。未来を目指すという最も実践らしい実 践にかかわっては、なおさらそんなことはできないと考えます。

 こうして世界の歴代共産党に欠けていたものが、マルクスのこの実践概念をその十分 な豊かさにおいて捉えることなのだと僕は考えています。例えば、「人々自身が世界 を現実に変えつつあらねば、世の中にその明日の正しい認識も生まれない」という、 ドイツ古典哲学の認識論の課題に関わってマルクスが実践概念に付与した最重要の側 面などは一体、どうなってしまったのでしょうか。JCPも含めた過去の共産党の全て がこのように、自分たちは世界とその明日の骨子をすでに掴んだとして、その骨子 を、それもその切れ端を「広める」こと以外を軽視し、世界を現実に変える術という ものには注意を払ってこなかったのではないでしょうか。

 実践概念のこういう位置づけについて、レーニンは違いました。その言葉をあげてみ ましょう。「疑いもなく、ヘーゲルでは実践が、一つの環として、しかも客観的 (ヘーゲルによると“絶対的”)真理への移行として、認識過程の分析のうちにその 位置を占めている。したがってマルクスは、直接にヘーゲルに結びついて、実践とい う基準を認識論に導入しているのである;フォイエルバッハにかんするテーゼを参照 せよ」(全集38巻、181ページ)

 さて、レーニンの言葉を上げて原さんが言われたように、どんなに外的条件が困難で も活路はあると思います。レーニンがそう断言できたのは、レーニンが真理体系を 知っていたからというのではなくて、常に実践、感性的人間的活動の広い裾野に着目 できたからだと、原さんと同じように僕も言いたいものです。原さんのレーニンのこ の引用のすぐ後にこんな言葉がありますね。「『絶対』に活路がないことを、まえ もって『証明』しようというのは、空っぽな衒学か、さもなければ概念と言葉をもて あそぶことだろう。このことやこれに類した問題のほうとうの『証明』となりうるの は、実践だけである。」(全集31巻219ページ)

 唯物論とはなによりも、世界の「始原」の問題を問うものです。乱暴な言い方になり ますが、歴史のなかに「物質的なもの」を類推するように探し出してきては、「物 的」要素が結局は観念的要素をこう決めるというだけの一辺倒のものではないはずで す。人間たちの意識も歴史を動かすと言ったとしたら、世界の始原が物質だというこ とを否定したり、この世界の全てが我々の意識の産物だと言ったということになるの でしょうか。そんなはずはありません。

 従来から上部構造の「相対的」独自性ということが言われてきました。そして、資本 主義を克服するには特に、今までの歴史とは全く違って、さしあたってまず上部構造 が決定的な意味を持ちます。というのは、社会主義は過去の生産関係と違って自然に は生まれてこず、国家を握ってのみ生み出せるものだからです。(ここでは1国社会 主義の問題は置いておきます。)つまり現在ではまず、選挙を典型とする上部構造の 相対的独自性と言われたものの世界で、決着をつけていかなければならないというこ とです。それも多分、負けては盛り返し盛り返しては負けを、何度も何度も。だから といってしかしながら、JCPのように選挙で人々の意識を捉えるということ、公 約、党勢拡大などを過大視して、人々自身の実践というものを提起しあうことをおろ そかにした勢力が作る政府などは、半年も持たず、それらの勢力は社会的信用を失っ ていくことでしょう。

 普通選挙制度のある国の先進国革命は後進国の選挙、革命よりも、その始まりがはるかに難しいと昔から言われてきました。ロシア帝国や戦前の中国と違って一定民主主 義を享受している国では、当然体制側を告発する術が難しくなります。さらに、そう いう国では「告発型」、「公約中心型」、「予言型」は、他の政党も歴史的にこれと 同じことをして国民を裏切り続けてきているので、全く有効ではないということも重 なってくるのではないでしょうか。それらと全く区別されず、公約、同じような政党 の言葉というものとして、共産党の言葉もはなから信用されないからです。投票率5 0%などということがそのことを示しています。つまり、先進国では宣伝、説得だけ でなく、もっと人間の認識というものの原点に返って、人々自身の実践を通した認識 が必要ということだと考えるのです。人々とともに適切な実践を提起しあうという武 器を鍛えあわなければ、日常的で密度も濃いイデオロギー媒体をほとんど握っている ような現代の大資本に対して、それを規制しようと言う勢力が選挙に勝てるはずもな いということです。ちなみに、普通選挙など全くなくて、「敵への告発」がはるかに 信用されやすかったはずの帝政ロシアにおいてさえ、レーニンはこんなことを強調し ていました。革命は宣伝中心では全くだめで、人々自身の政治的経験(見聞ではな い)というものが不可欠であること。政党の戦略と戦術の正しさを人々が納得するの は、彼ら自身の運動と実践とをくぐり抜けてのことであること。(全集31巻、9ペー ジ、82ページなど) レーニンのこういう命題に着目するたびに、「大衆運動と党 勢拡大との二本足」を言ってきた日本共産党が他方で、「まず、大衆運動をやってか らという段階論はだめだ」、「大衆運動さえやっていれば良いという誤った思想」な どと言い続けてセクト的な党勢拡大に偏ってきたことが、僕にはひどく気になったも のでした。全ての活動の場所で第1に拡大をせよ。拡大をして選挙に勝てば公約、要 求が実現する。こんなに無味乾燥で、抽象的な政治方針では、全く元気は出ません し、何よりも、党員以外の国民の目線からしたら他の政党の公約とどこが違うので しょうか。言っている公約内容が違うというのではあまりに主観的です。こうして問 題は、今この日本で長期的に見てどういう実践を国民と共に提起し続けあうのかとい うことだと思うのです。無理なく生活現実に即して、みんなが長期にわたって行いう る普通の生活要求実現スタイル、党が昔しきりに言った「護民官(もちろん自分も守 るのですよ)」という言葉が一番良いと僕は思います。

 JCP(中央)は、原水爆禁止運動、青年運動、民主主義文学運動、民主的出版社そ して多分、生協、民医連とその病院そして全労連などなどいろんな分野のともに実践 提起をしあえる場所を、一面的に偏った「政治、選挙、党勢拡大優先運動論」によっ て引き回し、蹴散らし続けてきたと言えると思います。その結果、これらの「大衆組 織」自身が「共産党セクト」として、不本意ながらその欠陥全てを押しつけられてき たかの観もあるのではないでしょうか。しかもJCP(中央)は、そのように蹴散ら してきた理論をきっぱりと美しく自己批判もできないのです。現在の幹部たちの責任 になるようなことができないということです。上記のような護民官活動に腰を据え直 すためには、現在の最高幹部たちは辞めるべきだと僕は考えています。そうでない 「なし崩し変更」は無責任に見えて元気も出ませんし、何よりも対外的に信用されま せん。

 山や谷はあっても、やりたい放題の巨大資本、多国籍資本は、地球環境問題などもあ ることですし、やがては規制されていくと僕は思います。資本主義の範囲内での 「(世界的な)計画化」も含めてのことですが。しかし、そうしようという演説をい くらしたところでそうなるスピードが速まるわけもありません。そうなると語りまわ るだけでただそれを待っているのが、通常、政治的スタイルとしての客観主義と呼ば れてきました。問題はそれを早めること、そのための実践提起、生活スタイル自身を 作っていくことだと考えています。

 最後になりましたが、以上のような考え方で僕は10月25日党員欄「エッセー 日本共 産党の全体像をこんなふうに変えてみたい」を書いたつもりです。