年末年始で多少の時間がありますので、先日の浩二さんの投稿に対して私なりにまとめてみます。
この本では『国家資本主義』について、何かきちんとした定義をしているのでしょうか?
以下のように定義しています。
国家資本主義を定義すると、生産手段が国家に帰属し、その占有・処分権をもつ国家官僚が資本機能を遂行し、生産手段から切り離された直接的生産者が賃労働に従事する経済システムといえる。(『ソ連の社会主義とは何だったのか』47頁)
必要上、もう1か所引用します。
この定義からすれば、当然のことながら、景気循環の変動幅を調整するため、国家が財政・金融政策を通じて民間資本の誘導をはかる、いわゆるケインズ型修正資本主義はこのカテゴリーには含まれない。ただし、私的所有を原則としながらも、国家が生産から分配までを統制する戦時経済のような場合には、実機能上、国家資本主義であるといえる。(同48頁)
みられるように、この見解は「所有形態」をまったく問題にしていません。この章の筆者は「近代ブルジョア国家では身分制の階級構造と異なり、個人はその生産において果たす位置機能によって特定の階級に帰属することになる。ある個人がブルジョアジーであるのは、資本機能を果たすことによって人格的にそれになるからである。」(同56頁)としています。この見解によれば、莫大なお金を持って大量の株式を保有していても、株主総会に出る以外には企業の経営にかかわっていなければ彼は資産家は資本家ではない、ということになります。
先の投稿<ソ連社会主義を考える(1)…ロシア革命とは何だったのか >で引用した「この意味で共産主義者は、自分の理論を、私的所有の廃止、という一語にまとめることができる」(『共産党宣言』全集4巻488頁)でもわかるように、所有形態は資本主義、社会主義を考える上で根本的な問題であって、このことを避けて、どうして「ソ連社会主義=国家資本主義」という図式が成立するのだろうかと疑問に思います。このこととあわせて、(たとえソビエト権力が変質したとしても)、プロレタリアートの権力のもとで展開された「国家資本主義」であるという点も適切に考慮されているとは思えません。この2点が私が「資本主義のそれであった」とする同書の見解に同意できないもっとも大きな理由です。
私は学問的には「素人」ですが、ソ連社会主義を政治と切り離して経済学的な問題としてだけとらえたのでは、正しく理解できないのではないかと思っています。
資本家が存在せず、生産手段が「私有」されていなければ、それは社会主義ではないでしょうか?
私も基本的にはそう思います。ただし、私的所有を廃絶したけれども、労働者や農民の「個人的所有」が再建されていたとは考えにくいのも事実です。社会的所有とは国有でよいのか、あるいは、ほかの形態があるのか、また、単に所有形態の問題ではないのか、というようなことを考えなければならないと思うのです。浩二さんも考えてください。
ソ連に市場経済は存在したとでもいうのでしょうか?
浩二さんは、JCPウオッチでだいぶ手厳しく計画経済を批判して見えるようですが、私は、かつてソ連で行なわれた「計画経済」ははたしてその名にふさわしいものであったかどうかは疑わしい、と思っています。
私見ですが(専門的に説明せよといわれると困りますので)、市場経済というのは資本主義経済の最も重要な契機であると思います。これは最大の利益を求めるための過酷な競争原理に基づくものであり、本来的に生産の無政府性と不可分に結びついているものです。恐慌はこのことから原理的に説明されるのではないかと思います。現在、私の身の回りをながめてみても、町なかの喫茶店、金物屋、本屋などの小さな商店が何軒も潰れ、閉店しています。企業どうしが厳しい競争をしていますので、企業は際限なく原価を切り下げ低価格競争を展開しています。原価切り下げのために、その矛先は労働者に向けられています。膨大な非常用労働者の増加、賃金、一時金(ボーナス)の切り下げへと直結しています。
計画経済とは、このような無政府的な市場経済に対するオールターナティブなものとして意味があると私は思っています。
計画経済に対する批判はよく見ると、統制経済、指令型経済に対する批判である場合が多いのではないでしょうか。社会主義における計画経済とはどのようなものであるべきかを考えるときに、やはりソ連の実験から学ばなければならないと思うのですが、この点についてはかつてのソ連経済はむしろ「反面教師」的なところが多かったのではないかと思っています。かつて、きゅうりの漬け物を何トンつくる、ということまで数量化されたという話は笑い話ではありません。
『国家資本主義』規定は、生産手段を国有化すればどういうことになるか、それを現実に「試した」歴史に対する冒涜であり、現存した社会主義を直視することを避け、「本来の社会主義」を遠い未来の中に無傷で祭り上げようとする策動以外の何ものでもないと思います。知的怠慢のさいたるものです。
浩二さんが前半の部分をどのように考えて書いているかはちょと推察しにくいのですが、「冒涜」という言葉をそのまま理解して、「それを現実に『試した』歴史」を尊重すべきだと理解することにします。同書は、ソ連社会主義を考えるにあたっては、学問的に考えるべきであり、「価値判断」を排除しなければならない、と説いています。合理的な論証を進めるべきところで「感情的に」なってはいけませんが、失業、低賃金、倒産、不安な老後をかかえ、生活の困難に直面し、世の中を変えたいと思う人にとって「価値判断」を排除することなどできるはずはありません。
現存した社会主義を直視なければならないし、「本来の社会主義」を無傷で祭り上げる必要もありません。「知的怠慢」もあるでしょうが、「知的怠慢」の人は社会主義を必要としないのかもしれません。
発達した資本主義国が生産手段を国有化すれば「本来の社会主義」になるのでしょうか?
国家独占資本主義段階における革命論として、かつて構造改革論が展開されました。浩二さんのこの疑問は「構造改革論」と関連するものがあります。いま私の手もとに『構造改革論批判』(日本共産党中央委員会出版局・1966年刊)という本があります。たぶんもう手に入らないのではないかと思う本ですが、この中で、若き日の不破哲三氏が「修正主義『国家独占資本主義』論批判」を戦闘的に展開しています。おもに日本の修正主義を批判したものですが、カウツキーを批判したり、「国家の『漸進的改造』論」をも鋭く批判したりしています。注意深く読むと、今日の彼の路線の萌芽を見て取ることができるのですが、全体としては、月刊『経済』でレーニン批判を始めた人の論文とは思えない内容です。機会があれば、私なりに読みとったところを投稿したいと思っています。
はっきり言って日本共産党は、その理論的支柱とする科学的社会主義からは、こと社会主義に関する限り、今や、何も引き出すことができない地点に立っているのではないかと思います。平成不況打開のための政策も中身はケインズ政策だと思います。科学的社会主義から導き出した政策ではさらさらないと思います。
日本共産党は、科学的社会主義の存在意義を、現在、どのように弁護するつもりでしょうか。日本共産党は科学的社会主義の旗を取り下げる時期に来ているのではないでしょうか?
「最後のアダ花」として日本共産党は民主党との連立政権を展望している。これが80年間にわたって「本来の社会主義」をめざしていた政党のやることでしょうか? 正面から自己批判する勇気のない政党の、あわれな姿でしかありません。
もし、日本共産党が非常に近い将来、資本主義の枠内での改革を目指す政府に参加したとします。そして、社会主義をめざすとしているのですから、社会主義になったときにもまた当然政府に参加することになるでしょう。これはどういうことでしょうか。資本主義社会においても社会主義社会においても政権党であることができるというまったく不思議な存在ではないでしょうか。
ところで、浩二さんの政治的信条は「社会主義をめざす」という立場ですか。
以上私なりに可能な範囲でレス投稿します。