2000年1月1日付、川上慎一さんの投稿について2、3気づいた点を書きます。
この見解によれば、莫大なお金を持って大量の株式を保有していても、株主総会に出る以外には企業の経営にかかわっていなければ彼は資産家は資本家ではない、ということになります。
私もさっぱり理解できませんでした。これは「この見解」の中の「ある個人がブルジョアジーであるのは、資本機能を果たすことによって人格的にそれになる」という部分に原因があるように思います。「資本機能を果たす」とはどういうことでしょうか? 株主総会にさえ出ずマネーゲームに狂奔する個人なりグループも「資本家ではない」ということになってしまいます。第一、「個人がブルジョアジーであるかどうか?」という設問からして、果たして問いとしての意味を持ち得るのかどうか、非常に疑問です。「ある会社の株式の過半数をある会社が握る」といった場合、「ブルジョアジーとしての特定の個人」など、もはや指摘できないのではないでしょうか? このあたり非常に基本的なことだと思うのですが、理解不十分ですので教えていただければ幸いです。
社会的所有とは国有でよいのか、あるいは、ほかの形態があるのか、また、単に所有形態の問題ではないのか、というようなことを考えなければならないと思うのです。浩二さんも考えてください。
はい(^^;。
計画経済とは、このような無政府的な市場経済に対するオールターナティブなものとして意味があると私は思っています。
計画経済の意義は、私も昔は感じていました。それだけに現実はどうだったということを知るにつけ、批判的な気持ちが倍加されます。「資本主義の悲惨さを上回る悲惨さで崩壊した計画経済」という図式しか、今のところ私には見えてきません。
無意味な二分法には飽き飽きしていますが、経済については二分法しかあり得ないように思います。市場を考慮するかしないかです。あとはこの割合がどの程度なのか、というバリエーションに過ぎないのではないでしょうか。第三の道ってあるのでしょうか? 寡聞にして知りません。
計画経済は市場を考慮しない経済であると定義していいと思います。市場を考慮するのは無政府的である、したがって計画経済では市場を無視する。しかし私にはここが引っかかるのです。「市場経済は無政府的である」という批判は、裏返せば「政府(またはそれに匹敵する主体)主導による経済でなければならない」ということです。つまり、「無政府的な市場経済」という批判は、「経済を計画的に指導する主体が必要である」ということを言っています。バラバラの個人がそれぞれ勝手に需要を創出するのはけしからん、バラバラの個人ではなく統一された主体が経済を動かすべきである。ならばその「統一された主体」とはだれなのか? 政府、政党。そうしたものにならざるをえません。そして歴史はまさにこれが実践されたと思います。結果がどうあれ、ソ連などの社会主義国はこの意味で忠実にマルクスの言葉を実践した、と私は理解しています。
「歴史上まだ現れていない本来の計画経済」がもしあるとしたらそれはどういうものでしょうか? この場合でも、「無政府的な市場経済」に代るものとしての計画経済であることは間違いないでしょう。市場経済の何が一番悪いかといえば、それが無政府的であることだ、というわけですから。
「市場経済は無政府的だからまずい」のでしょうか? 私はここを疑ってかかることが必要だと思います。疑ったからさてどうなるのか、という答えなど全然わかりません。しかし、「市場経済は無政府的だからまずい」と規定すると、ではその対策は、計画する主体をどこかに統一的に据えた経済だ、ということになる。これ、必然的に一党独裁を展望せざるをえないことになると思うのです。歴史的事実としてそうだったということと同時に、原理的にそうならざるを得ないのではないでしょうか。しかし、複数政党制による自由選挙のもとでの計画経済というのも、ひょっとしたら可能かもしれない。そうすると、政権党が変わるたびに計画も変更される……。想像もつきません。果たして経済は動いていくのでしょうか? このあたり、どのように考えておられますか? SFまがいの問いですが、何かヒントでもいただければ幸いです。
『構造改革論批判』…機会があれば、私なりに読みとったところを投稿したいと思っています。
ぜひお願いします。日本共産党の構造改革論批判における最も根幹的、原理的な根拠とはいったい何なのでしょう。私にはさっぱりそのあたりのイメージが明確にならないのです。
資本主義社会においても社会主義社会においても政権党であることができるというまったく不思議な存在ではないでしょうか。
ところで、浩二さんの政治的信条は「社会主義をめざす」という立場ですか。
日本共産党は、社会主義をめざすために資本主義社会を変革する方針である(資本主義下で政権をとっても、それは資本主義を認めたという意味ではない。資本主義は社会主義への踏み台としてのみ意義を認めるにすぎない)と理解しているので、特に不思議とは感じていません。
「社会主義をめざす」立場かどうかについては、今の時点では「そういう立場は取りえない」としか言えません。しかしこれは、資本主義でいい、資本主義万歳(^^)という意味ではありません。オルタナティブとしての社会主義の意義がまったく見えてこないからこのように言わざるをえないという、消去法的判断です。