前回の投稿<ソ連社会主義を考える(2)>のあとで、浩二さんの質問に答える形で補足をしましたが、「ソ連=国家資本主義」論の特徴とこれに対する私の考えをまとめてみます。
① 広い範囲にわたって、マルクスの思想の中に見られるはなはだ抽象的な概念規定を多用し、これを一種のモデルに見立てて、ソ連社会主義がどれほどこれとかけ離れていたかを、いわば思弁の世界で論じている。新しい社会主義を展望するならば、マルクス主義の創始者たちの未来社会に対する予測とともにできるだけ具体的にソ連社会主義の検証をしなければならない。
② 所有の問題――「私的所有が廃絶された」という事実は、資本主義か社会主義かを論ずるときのもっとも根本的な指標である。また国家権力が誰の掌中にあるか、つまり、権力がブルジョア権力であるのか、プロレタリア権力であるのか、をほとんど問題にしていない。
③ 革命後のソ連社会においては、かつて「勤労し搾取される人々」であった労働者や農民の生活は明らかに向上し、社会全体が明らかに文明的視点からみて進歩している。今日でも膨大な数のストリートチルドレンなどをかかえる発展途上国の民衆の生活と比較してみれば明らかである。このことをほとんど考慮していない。
④ 物質的諸条件がじゅうぶんに用意されていなければ社会主義が不可能であるとする立場に立てば、ロシア革命はとうてい肯定されることはなく、レーニンはロシアとロシアの民衆を誤った道に導いたということになる。そして、ソ連が存在したという事実がその後の世界に与えた巨大なポジティブな影響をも肯定的には考えることができなくなる。
今回の投稿では、②と③を中心にして考えてみようと思います。日本共産党の「自由と民主主義の宣言」から引用します。この党の前・現党首は口を極めてソ連を非難し、ソ連は「社会主義とは縁もゆかりもない」とか「巨大な妨害物」であったとしていることを念頭において読んで下さい。また、この「宣言」には検討する必要があるものがあると私は考えていますので、私はこれを全面的に無批判に肯定しているわけではありません。
自由と民主主義のこれらの前進と達成に、科学的社会主義の事業が重大な貢献をおこなったことは、誰も否定することのできない明白な歴史の事実である。1917年にロシアでおこった社会主義革命は、レーニンが指導にあたった時期には、おくれた社会・経済状態からの発足という歴史的な制約にもかかわらず、またすくなくない試行錯誤をともないながら、科学的社会主義の真価を発揮した業績によって世界の進歩に貢献した。とくに新しい政権が、植民地をふくむ民族自決を世界的な原則として宣言し、旧ロシア帝国の領域内にあった諸民族の自決を実際に実現したこと、男女同権、8時間労働制や有給休暇制、社会保障制度などの宣言と実行によって、人民の生存の自由を基本的人権の内容として前面におしだしたことは、世界の勤労大衆と被抑圧諸民族をはげまし、資本主義諸国にも大きな影響をあたえた。その人類史的な意義は、スターリンらその後の歴代指導者の誤りの累積やその結果おこったソ連の崩壊によっても、失われるものではない。 (日本共産党の「自由と民主主義の宣言」1996年7月13日一部改定より)
これは、「レーニンはよかったけれどもスターリンが悪い」という通俗的な見解(その当否は別して)に道を開くものですが、「その人類史的な意義は、スターリンらその後の歴代指導者の誤りの累積やその結果おこったソ連の崩壊によっても、失われるものではない」わけですし、レーニンは1924年に没しているので、74年間のソ連の歴史において、レーニンが指導にあたった時期はわずかに6年間ほどでした。私は個人的にはどうしてもスターリンを肯定的に見られないので、レーニン没後の社会主義建設に肯定されるべきものがあったとすれば、それは何よりもソ連人民の努力として評価されるべきだろうと思っています。大切なことは、21世紀に社会主義を目指す人々が、ソ連社会主義の実験から受け継ぐべきものは何であり、否定すべきものは何であるかを明らかにすることではないでしょうか。
このような「人類史的意義」をもつものとして評価されるべきものがソ連社会で可能であったのはなぜでしょうか。これを多少とも唯物論的に理解しようとすれば、ソ連社会において「私的所有が廃絶されていた」こと、「プロレタリアートの権力が確立した」こと以外にその根拠をみつけることはできないでしょう。したがって、それがどれほど大きな否定的な側面をもっていたにしろ、このような「人類史的意義」をその中に見いだすことができるから、私はソ連社会を社会主義であったと理解することにしているのです。けっしてソ連社会を、その生成から崩壊までの全過程を、全面的に肯定しているわけではありません。
74年間のソ連社会主義の建設と崩壊の歴史をおおざっぱに特徴的に区分するとすれば、レーニンが行ったネップの時代(1927年頃まで継続した)、その後のスターリン指導下で行われた農業の強制的集団化と大工業化の時代(この時代に工業化が急速に進行した)、フルシチョフによる改革の試みの時代(スターリン批判が行われた。ちなみにこれ以後は血の粛清に類するようなことは行われていない)、長い停滞のブレジネフ時代(豊かな鉱産資源の輸出が行われた)、ゴルバチョフによる「改革」の試みと崩壊への準備の時代ということになると思います。歴代のソ連指導者ごとにある程度の区分が可能であるということは、ソ連における「社会主義建設と崩壊」の歴史が単なる経済的な過程ではなく、すぐれて政治的な過程であったからです。この全歴史はいずれ実証的、科学的に検討されなければならないことはいうまでもありません。ただ、これを私が今すぐ(あるいは今すぐでなくても)やることはできませんし、この投稿欄を利用してできるようなこととも思えません。ここではとりあえず、私の中間的なまとめとして、私にとって学ぶところの多かった以下の著作から引用をさせていただくこととします。
だからソビエト官僚制下の生産関係の本質は、おおよそ以下のように規定することができる。
生産手段の国家的所有と計画経済の導入は社会主義の基礎的前提条件である。革命後のロシア・ソ連はこの意味で社会主義へ前進する最低限度の可能性を有した。しかし、その可能性が現実性に成長・転化するためには資本主義から受け継いだ諸要素(特権と不平等、政治的にも経済的にも)を克服し、国家の運営と計画の作成・実施に生産者が着実に参加していかなければならない。しかるに、ソビエト官僚制の支配が定着する中で、資本主義的要素は一面で廃棄され、(資本家的・私的所有の廃止)、一面で温存された(不平等と特権の中には旧社会を凌ぐものさえあった)。これがソ連における生産関係を社会主義へ向けて発展させる上でいかに巨大な障害となったかは改めて言うまでもない。もしも、何らかの手段・経過によってこの障害が排除されるならば、生産関係が社会主義的性格を新たに発展させる可能性を得る。だが逆に、排除がいつまでもいつまでも伸び伸びになるとすれば、社会主義とは反対に資本主義への逆転もあり得る。何よりも、依然として強力な外部資本主義世界がソ連とソ連国民に圧力をかけ、逆転を促すことになる。官僚制はこれを自己の生存にとって危険とみなしはするが、さりとてこれを排除する能力を持たないからである。(『ソ連史概説・私の社会主義経済論』上島武著・132頁)
この引用で著者は、「社会主義へ前進する最低限度の可能性を有した」と規定してはいるものの、ソ連を社会主義であったとは規定していません。私はこのことを承知で引用しています。私はこの規定がおそらく正しいだろうと考えています。だから、私自身はソ連社会を社会主義であったと規定することに若干の逡巡がないわけではありません。しかし、社会主義か資本主義かという二者択一式に問われれば、私は迷わず社会主義であったといいます。そして、なおこれにこだわるのは、「覇権主義」というカテゴリーを持ち出して、ソ連もアメリカ帝国主義もひっくるめてしまうやり方には何としても同意できないからです。
私が社会主義思想に接近していったのは、安保闘争から数年後の1960年代の半ばのことです。高校の教師の感化を受けて日ソ協会(日本共産党とソ連の蜜月時代のことでした)に入っている友人がいました。「今日のソ連邦」という写真誌が定期的に発行され、社会主義の宣伝がさかんな時代でした。私はそこから民青→共産党へと接近していったのです。その後、日本共産党とソ連共産党との厳しい対立の時代を経過しましたが、それでもソ連を社会主義ではない、などとは考えたこともありませんでした。それほどソ連の「現存」ということは重い事実でした。
たそがれさんが<ソ連崩壊と社会主義1999/11/14>で「私は、別にソ連のあり方を支持していたわけではありませんが、その崩壊に大きな衝撃を受けました。ソ連崩壊によって、少なくともマルクス的な、あるいはレーニン的な社会主義・共産主義の困難が証明されたと思ったからです」と書いてみえますが、たそがれさんも私と同じく50歳代です。多かれ少なかれ私たちの世代に共通した思いがあるのだと思います。したがって、私の投稿内容にそういう時代的な烙印を感じられる方がいても不思議ではありません。
ソ連社会に社会主義とは認めがたいもの――たとえば、特権的な党や国家官僚の存在、硬直した党の組織原則、社会主義的民主主義の著しい欠如など――についてはソ連が存在している時代にも広く知られていましたし、私自身もそれなりに知っていました。しかし、それらは、いわば単なる「政策上の誤謬」という程度のものであり、社会主義の本質的な問題であるとは考えませんでした。これらはおもに反社会主義や「トロツキスト」(トロツキストやその蔑称であるトロという呼称は私自身は1960年代の終わり頃から使うことをやめました)からなされる一種の「反共攻撃」としてしか受けとめていませんでした。そういう来歴をもっていますので、自分自身の反省の念をいだきながら投稿をしています。
ノーメンクラツーラ、ソ連の党と政治システムの問題などについて考えながら、機会があれば投稿したいと思います。