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「科学的社会主義」討論欄

「個人的所有の再建」命題について(8)

2000/1/5 吉野傍、30代、アルバイター

 浩二さんよりいただいたいくつかの再反論をも念頭に置きながら、さらに、個人的所有の再建命題の問題について考えてみたいと思います。
 ここで検討するのは、ひき続いて「消費手段の個人的所有」説の是非ですが、今回は19世紀的世界を前提にした議論ではなく、むしろ20世紀の先進資本主義国の現実を踏まえての、「消費手段説」の現代的意義ないし限界についてです。
 当時における労働者階級の貧困をリアルに見るならば、社会主義が消費手段の個人的所有を再建するという説もあながち的外れではない、ということについてはすでに以前の投稿で指摘しておきました。当時において念頭に置かれている「消費手段」とは、基本的に、健康で文化的最低限の生活を保障するような消費手段、すなわち基本的な衣食住の手段だと思いますが、現在の発達した資本主義国をふまえるなら、このような水準で議論が終わるわけではありません。もっと突っ込んだ考察が必要になります。
 私は、日本を含む先進資本主義国を前提にするなら、「消費手段」説には2つの重要な限界があると思います。1つはすでに、これまでの論争総括の中で紹介した批判ですが、現代社会において、個々人の生活においてより重要な意味を持つのは、個人的消費手段ではなく、むしろ社会的消費手段だということです。住居、社会福祉、医療、教育、交通手段、文化などの諸領域においては、個人的消費手段の個人的所有よりも、社会的消費手段の社会的共有の方が、重要な意味を持ちます。みんなが持ち家を持とうとすることによって、土地の高騰が起こり、それによって貧しい人がますます自分の家を入手できなくなるという矛盾、福祉や医療の問題を個々人の自立自助で解決しようとすればするほど、ますます貧しい人は福祉も医療も受けられなくなるという矛盾が、私的所有を基本としている資本主義経済においては起こります。この問題に対する解決は、個人的消費手段の個人的所有の再建だけでは解決できないわけです。先進資本主義国は、個人的消費手段の個人的所有という点に関しては、高い水準の達成を実現しましたが、この社会的消費手段の社会的所有に関しては、高度経済成長時代には一定の前進を見ましたが、昨今の「新自由主義」の時代、すなわち資本主義の本性がより剥き出しになる時代においては、ますます貧困になりつつあります。教育も医療も福祉も年金も削られる一方であり、このような動向に対して闘っているのは、共産党を始めとする社会主義勢力です。
 このことをふまえるなら、社会主義の使命をもっぱら「消費手段の個人的所有の再建」に置く考え方には、現時点から見て大きな制約があることは明らかでしょう。もちろん、この「個人的所有」を、「生産手段説」が言うような「個人的所有」の意味に理解するなら、つまり、排他的な「私的所有」と違って、社会的所有と矛盾しないものとしての「社会的個人の所有」と考えるなら、「消費手段の個人的所有」は、「社会的消費手段の社会的所有」と十分両立することになります。しかし、林説をはじめとする「消費手段説」は基本的に、「個人的所有」というものを、個人が排他的に所有する行為と理解しているので、この点に関してはやはり限界があると言えるでしょう。
 もう1つの限界は、個人的消費手段の個人的所有が過剰に進むことによって生じる社会的矛盾やエコロジー危機や人権侵害などの問題が考慮されていないことです。浩二さんとの論争の中で私は「クルマ問題」を取り上げましたが、クルマ問題はまさに、「個人的消費手段の個人的所有」が過剰に進むことによって生じる社会問題を端的に示しています。交通事故そのものは資本主義だから生じるというものではありませんが、しかし、個人的必要も社会的必要も越えてひたすらクルマを大量生産し、それを諸個人に購買させ、さらに、それをできるだけ使用させ、そしてまだ十分使用できるのに買いかえさせるという内的衝動は、利潤獲得を第一とする資本主義に内在しているものです。最近、トヨタは、「そろそろ買いかえモードじゃない?」というコマーシャルを大量に流していますが、これなどはその典型です。
 このようなクルマの大量生産と大量消費と大量廃棄によって、大量の天然資源とエネルギーが浪費され、大量の有害物質が排出され、自然が破壊され、住環境が著しく悪化し、大量の交通事故と交通事故死が生み出されています。その一方で、第三世界諸国には、個々人のクルマどころか、公共的なクルマの数さえ足りておらず、物資を必要なところに運ぶことさえままならない状態にあります。東チモールでも、クルマの不足のために、せっかくの国際支援物資が行き届かないという問題が生じています。
 こうした深刻な問題を直視するなら、19世紀資本主義を前提にした「消費手段の個人的所有」説ではまったく不十分であり、むしろ、一定の範囲で「個人的所有」の公共的制約を実施することこそ、先進国における社会主義的変革の課題にしなければならないと思います。この場合の「公共的」とは、環境、人権、社会的・経済的公正という社会的理念を内容としています。
 そして、先進国における「個人的所有の公共的制約」なしには、先進国の中の貧しい層や第三世界諸国での「個人的所有の再建」もまた不可能という意味で、「個人的所有の公共的制約」は「個人的所有の再建」と対立的なのではなく、むしろ補完的なのです。
 以上で、いちおう「個人的所有の再建命題」についての連続投稿を終わります。今後の討論の流れしだいでは、このテーマで再投稿することもあると思いますが、今回ので私が言いたかったことはとりあえず完結です。