1月3日付の浩二さんの川上さん宛て投稿には、計画経済についての誤解があると思います。そこがおそらく社会主義否定論の根幹になっているようです。
「計画経済は市場を考慮しない経済であると定義していいと思います。市場を考慮するのは無政府的である、したがって計画経済では市場を無視する」。
また、同じように私宛ての投稿にも次のような一節があります。
「市場経済との対比で示される計画経済は、結局は個人の自由を抑圧した上でしか成り立たない経済だと私は思います」。
計画経済は、市場を無視するどころか、市場を不可欠の前提条件とします。わが党の社会主義論においても、市場の廃絶は掲げられていないどころか、市場と計画との結合が言われているし、私的な中小企業が存続することも言われています。問題は、市場を考慮するかしないかではなく、私的企業体による利潤の無制限の追求ということを社会の根本原理とするのか、それとも人間性の発展ということを社会の根本原理とするのかです。私的企業体による利潤の無制限の追求のためには、もちろん、市場の支配を必要とします。社会主義は、私的企業体による利潤の無制限の追求が社会全体の原理となっている状態を廃棄し、市場の支配をなくしますが、これは市場そのものの廃止とは違います。
資本主義経済は単なる市場経済ではありません。市場そのものも、商品も貨幣も、資本主義が社会的に成立する何千年も前から存在していました。市場も商品も存在しない状態は、人間の社会関係が等身大の共同体の範囲内で収まっていた太古の時代か、あるいは、南米やアフリカの一部の部族にしか見られません。
旧ソ連においても、市場は存在していました。公式の非自由市場だけでなく(そこにおいては、あまり商品がなかったのはよく知られているとおりです)、「闇市場」と言われる自由市場が各地に存在し、多くの一般市民はそこから必要な物資を得ていました。主要な生活手段は、それぞれの企業からそれぞれの労働者に供給されていましたが、それだけでは十分でないので、やはりかなりの物資が市場を通じて配分されていたのです。
スターリンの誤りは、計画の技術および生産力の水準が自由市場を代替できるほど発展していないにもかかわらず、早期にかつ機械的かつ行政的に市場を廃絶しようとしたことです。そして、結局それができなかったために、きわめていびつな形で計画経済を補完する市場経済が存在し、それが計画経済そのものをも大きく歪める結果になりました。
資本主義経済は、商品経済ないし市場経済にプラスアルファしての、私的企業体による利潤の最大化原理(『資本論』の言葉で言えば、「剰余価値の無限増殖」)の支配です。この利潤原理はもちろん、市場の全面的な発達と支配を必要とするので、市場経済を歴史上、類例を見ない規模で発達させました。したがって、この利潤原理を廃棄すれば、その分、市場の縮小が起こるでしょう。しかし、それはあくまでも市場の廃止でもなければ、市場の無視でもありません。
たしかに、マルクスの『資本論』や『ゴータ綱領批判』などには、市場そのものの廃絶を示唆しているような文章があるし、その後の共産主義者が、市場の廃止を究極目標として堅持していたというのが、事実であるとしても、定義上、計画経済は市場経済の否定ではないし、社会主義は市場経済の廃止と同義でもありません。
また、浩二さんは次のようにも述べています。
「複数政党制による自由選挙のもとでの計画経済というのも、ひょっとしたら可能かもしれない。そうすると、政権党が変わるたびに計画も変更される……。想像もつきません。果たして経済は動いていくのでしょうか」。
どうして想像ができないのか、これこそ想像できません。政権党が計画経済において重大な失敗を起こし、民衆から見離され、選挙で敗北すれば、当然、下野します。新たに政権についた政党は、当然、より現実的で、より正確な計画へと、既存の計画を修正するでしょう。このような民主主義の過程なしには、真に合理的な計画経済など成立しません。それなしには、計画経済は容易に官僚主義的恣意に変質するでしょう。まさに旧ソ連において見られたものこそ、それです。したがって、ソ連のスターリニスト体制と闘ったトロツキーは、計画経済を構成する根本的要素として、市場とともにソヴィエト民主主義を挙げたのです。またトロツキーは、『裏切られた革命』の中で、ブルジョア政党をも含めた複数政党制を主張しています。