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「科学的社会主義」討論欄

ソ連社会主義を考える(6)…戦時共産主義からネップへ

2000/1/31 川上慎一、50代

 ネップ(新経済政策・1921年から1928年)とは、プロレタリア権力のもとで、社会主義の物質的諸条件をつくりだすための国家資本主義の道でした。その真髄は「都市・農村間の商品交換」(『ソ連史概説』上島武著64頁・窓社刊)であり、その最も顕著な特徴は、「市場と社会主義とを結合しようとする試み」(『ソ連経済第3版』61頁)でした。
 ネップは「ソビエト政権が内部から崩壊する危機」がもたらしたものであり、また、この危機は内戦によって強要された戦時共産主義によってもたらされたものです。
 足かけ4年にわたって続いた内戦がなければ、ネップはもっと早く実施されていたと思います。当時のボリシェビキの社会主義を目指す路線にはしばしばあっちへ行ったりこっちへ来たりというジグザグが見られるのですが、少なくとも戦時共産主義の路線――その基本的な特徴はその後のスターリン体制の中で定着する――が、ボリシェビキの戦略的な方針であったとは思えません。一例をあげれば、ネップの端緒となった「食糧税」を採用するにあたってレーニンは、『食糧税について』(1921年発行)という小冊子を書いています。この前半部分は、当時のソ連経済を分析し、基本的な方向を示すことにあてられています。この部分はレーニンが新たに書き下ろしたものではなく、『現在の主な任務――「左翼」的な児戯と小ブルジョア性について』という1918年に発行された小冊子から必要な部分を引用したものです。革命の翌年に書かれたこの小冊子の中でネップにいたる基本的な構想が示されています。また、このころのレーニンのさまざまな著作を読めば、私が引用した例が特異なものではないことがわかるはずです。
 私は、レーニンがこのような“「左翼」的な児戯”に対する警告をしばしば行ったことに注目しています。これは、当時の労働者やボリシェビキの一部に「左翼」的な傾向が非常に根強く存在していたということを物語っていると思います。前にもふれましたが、革命の先進的な部隊として闘った労働者は全体として非常に革命性が高く、戦闘性の高い傾向を持っていました。これは当然ボリシェビキの内部にも反映したに違いありません。権力を打ち立てるという事業と社会主義を建設するという事業はおのずから違ったものにならなければならなりません。内戦や干渉戦争の時期の主要な闘争方法であった軍事的方法、強権的な方法、極度に中央集権化された方法――戦時共産主義の方法――は、国家権力を放棄することなく、社会主義を建設する時期には後景に退かなければならなかったでしょう。ネップはこのような過程で採用された戦略的なものでした。
 戦時共産主義の時代に、超インフレで事実上貨幣経済が破綻し、物々交換が行われるようになったとき、「貨幣が使われなくなった」=「貨幣経済の廃止」(経済の自然化)として、ボリシェビキ左派は歓迎した、と『ソ連経済第3版』(55頁)は指摘しています。必ずしも特定の政治勢力としてまとまってはいないけれども、このような傾向は、ネップがもたらしたソ連社会の新しい「資本主義化」の中で民衆の気分や感情を反映して、時として増幅されることになります。
 スターリン体制の出現は、秘密警察や一党独裁によっては説明されません。どのような独裁体制(第2次大戦後にしばしばみられた傀儡政権を別にすれば)であっても、それが成立する過程では相応の社会的な支持――それが欺瞞的な方法で得られたにせよ――が、なければ成立するものではありません。私はこの視点を維持しながら、ネップそしてその終焉からスターリン体制の出現までの過程をみていこうと思います。

 『ソ連経済第3版』、『ソ連史概説』、『スターリン主義を語る』(G・ボッファ、G・マルチネ著、岩波新書)などを参考にして、私なりにまとめてみます。
 1921年3月に「食糧税」(「比例的農業税」)が導入されました。レーニンによればこれは割当徴発のほぼ半分(『全集』第32巻396頁)になるとのことであり、税率は小土地所有者に軽く、大土地所有者に重くなるように決められました。納税後の余剰は農民が自由に処分することが認められることになり、農民が買い手――国家、協同組合、私的商人など――を自由に選択して売り渡すことが認められるようになりました。さらに、農民が土地を賃借したり、農業労働者を雇用することも一定の範囲で許されることになりました。
 工業においては、「管制高地」と呼ばれる重工業、輸送、銀行および外国貿易は引き続き国有化を維持し、直接政府の統制のもとにおくこととしましたが、そのほかの小規模な企業は非国有化され、新しい企業家に賃借されたり、わずかながらもとの所有者に返還されたものもありました。国家機関や地方機関で経済計画が編成されることになりましたが、全体としては、「市場条件によって指示されるすう勢を予測することにその行動を限定され」(『ソ連経済第3版』64頁)、かならずしも一貫性のある強力なものではなかったようです。
 こうして、1924年―25年には国家予算が黒字に転じます。新しい安定貨幣が発行され、貨幣経済が復活し、外国貿易も徐々に復活していきます。この間の事情を『ソ連経済第3版』では、「戦時共産主義は内戦を遂行するための手段を与えた。同様にネップは戦争から回復するための手段を与えた。その意味でネップはソ連の指導者にとって重要な戦略的成功であった。ネップ期間の経済回復は印象的であった。」と述べています。ネップの前半期(1925年頃まで)はこのように推移していきました。
 前半期の経済復興の原動力となったのはおもに農業でした。しかし、まもなくネップによる経済回復も壁につきあたります。たとえば「鋏状価格差」問題です。これは簡単にいうと以下のようなことと私は理解しています。
 疲弊した工業を復興させるには大量の資本が必要とされるのですが、ここへ投資すべき資本が欠乏しているため、大工業はなかなか復活しません。それどころか、工場や設備の磨損分を補填する資本さえ投入することができない状態で生産を続ければ、しだいに生産性は低下し、工業製品の生産は増大せず、価格を押し上げる結果となります。一方、農業は、技術的性格から比較的簡単に復興します。そうすると、農産物価格が下落し、工業製品価格が上昇するという状態が発生し、これを折れ線グラフにすればちょうど開いたハサミのような形になるという現象です。農業生産とみずからの生活に必要とする工業製品が不足するという事態は農民自身にとっても耐え難いものであることを意味します。
 この問題は、「資本の本源的蓄積」の問題であり、「資本」さえあれば簡単に解決できる問題であり、外国からの援助、借款が得られれば解決はそれほど難しいものではありませんでした。ここにも「孤立した革命」の悲劇的な様相があります。
 この困難はボリシェビキ指導者たちの間でも早くから考えられていたことでした。経済学者でもあるプレオブラジェンスキーやブハーリンらのボリシェビキ幹部たちによって展開された「工業化論争」がそれです。『ソ連史概説』(69頁)から要約引用します。
 プレオブラジェンスキーの主張は「国有企業の生産性が低く蓄積能力に限界がある間は、その外部で生産される経済余剰を動員・利用する以外に国有企業を発展させる道はない」というものでした。ここでいう「外部」とは、農民の富裕層やネップマンと呼ばれたネップ期に発生した商工業者(唯一生き残ったブルジョアジー)を意味しています。「社会主義的原始蓄積論」といわれる彼の見解は、「富裕層に負担をかけるということは、必ず広範な層に及ぶであろう」ということ、そして「それは農民との分裂の危機を再び招来する」という懸念から広い支持を得られませんでした。戦時共産主義時代のつらい経験は遠い昔のことではなかったのでしょう。さらに、自営商工業者に新たな課税をすれば、消費者価格にはね返り、労働者に負担が及ぶであろう、という懸念も働きました。
 プレオブラジェンスキーの「社会主義的原始蓄積論」にブハーリンが厳しい批判を加えました。彼は、「ネップの原則に忠実に、農業生産力の漸次的上昇、そこに蓄積される余剰資金の増大に期待し、それがやがて国有企業の蓄積に『無理なく』動員される」ことに期待をつなぎました。このブハーリンの見解は、経済的発展があまりにも緩慢であること、その間に農業生産は富農への依存を強めることとなり、農村の階層分化が進行すること、農業自体が工業の発展がなければ期待できないことなどの問題点を抱えていました。