1月24日付、吉野傍さんの浩二さんへのレス(5)についてです。
資本主義のもとでも一党独裁と秘密警察を持っていた国は歴史上いくらでもあります。
資本主義を超える革命を起こしたはずのロシア~ソ連の暗黒面を、資本主義の暗黒面と比較することに、いったいどのような意味があるのでしょうか?
その比較においても、「資本主義は一党独裁と秘密警察を持っていたが社会主義国はそうした抑圧機構は持っていなかった」というなら、なるほど現存した社会主義国は理念通り立派だったということになります。しかし事態はまるで逆です。
「一党独裁と秘密警察のもとでの政治は絶対の悪。これに尽きます」と書きました。ソ連型の根本的な罪悪がこのふたつに尽きる以上、これ以上の根拠をあげろと言われてもできません。
あえてその先の根拠をさぐるとすれば、やはりレーニンにその根源を求めなければならなくなります。
レーニンはネップ導入後、ソ連が安定を回復したまさにその瞬間、他党の活動を禁止し、党内では分派を禁止し、レーニンの考えに従わない知識人らを国外追放しました。
安定を回復した段階でなぜレーニンはこういうことをしたのか? それは、ネップによる安定がソ連共産党の存在理由を脅かす状況を提示したからです。ネップはボリシェビキの本来の政策ではまったくありませんでした。メンシェビキなど他党の主張していた政策をネップとして実現したものです。小規模な商業が国内を安定に導き農民の反乱も起こらなくなりました。こうなるとボリシェビキ流の中央集権体制はゆらぎます。他党の活動を許し、自由選挙を実施すれば、政権離脱の危機が訪れないともかぎりません。それをレーニンは怖れたのだと思います。
なぜでしょうか? 自由選挙を行なって政権を譲り渡さなければならない事態になったとして、それがなぜソ連にとって好ましくない道でしょうか? 好ましくないと感じるのは政権を離脱する政党であって、国民がそれを選択したならそれは国民にとっては好ましい事態です。それをレーニンは拒否しました。「自分の理想とする社会から遠ざかることになる」。しかし、そんなこと、国民の知ったことじゃありません。
レーニンは権力維持のために一党独裁と秘密警察を必要としました。もはや「国民のため」という視点はありませんでした。自分の理想とする社会主義が「国民のため」であるというなら、国民の意思を問い、チェックを受ける必要があります。これをレーニンは避けました。
自分の意思が正しいかどうか他者に確認する。このような基本を根本からないがしろにした体制=ソ連型。これ以上の悪がほかにあるでしょうか?
「一党独裁と秘密警察のもとでの政治」は、一言で言うなら閉ざされた政治システムだということです。それがなぜ悪いかと言われるなら、公理であると言わなければならないでしょう。閉ざされた政治システムのもとでは、資本家の横暴に屈する代りに、一握りの政治家=独裁者に屈することになります。それを国民自ら選択したというならあきらめもつきましょう。しかし一党独裁のもとでは選択の余地すらありません。
「資本主義のもとでも一党独裁と秘密警察を持っていた国」は、具体的にはどの国でしょうか? 国名と年代を教えてください。
また、ソ連型社会主義が絶対悪なら、つまりそれ以上悪いものなどこの世にないとしたら、ソ連型社会主義を打倒するためならどんな手段を使っても、「よりまし」ということになります。
ソ連型社会主義は絶対悪であり、これ以上悪いものはこの世にありません。
悪いことをやったかどうか、必ずしもそのこと自体を言っているのではありません。その「悪さ」を当の国民が指摘することのできない体制だったこと、その「悪さ」を自由選挙によって国民自らチェックすることのできない体制だったこと。要するに欺瞞に固められた体制だったというのが絶対悪たるゆえんです。
「ソ連型社会主義を打倒するためならどんな手段を使っても」いいなど、私は一言も言っていません。吉野傍さんは悪いものは「どんな手段を使っても」打倒していいとお考えですか?
ソ連型社会主義は資本主義国によって打倒されたんですか? 冗談ですよね? 内部崩壊です。ソ連型社会主義は存在理由をどこにも見つけられなくなったために内部から崩壊するよりほかに道がなくなったのです。ソ連型社会主義が悪いからといって、外部からこれを攻撃していいはずはありません。北朝鮮の民衆も、決してそういう意味で支援を求めてはいません。民衆自ら変える道しかありません。外部の人間は言論でこうした人々を応援するしかありません。物質的手段を相手から求められた場合は別ですが。
そうではなく、ブルジョアジーの支配とそれを成り立たせている資本の支配を打倒するということです。
だとすれば「ブルジョアジー打倒」はレーニンを初め、多くの誤解を生んだ意味において適切な表現ではないと思います。ブルジョアジーの支配を打倒するといっても抽象的に打倒することなどできません。資本の支配の打倒にしても同じです。階級闘争史観においてブルジョアジー打倒と言った場合、それは階級としてのブルジョアジーを殲滅するという意味に容易に取ることができます。誤解を招く最たるスローガンではないでしょうか?
中央の公的機関が立てるのは、あくまでも大雑把な計画であり、全体の生産の枠組みです。そして、その大雑把な計画の枠組みは、前年度の実績などを参考にしつつ決定されます。たとえば、パソコンに対する需要が、毎年、20%づつ増大しているとすれば、当然、計画期間は、今年度のパソコンの生産を、前年度の20%増で計画するでしょう。しかし、その台数は、別に1桁の単位で決定する必要はいささかもありません。約100万台というので十分です。全体として、資源と労働力をどのように分配するのかの、枠組みと指針さえ決まっていれば、その枠組みと指針に大きく矛盾しない範囲で、個々の協同組合企業は自主的に自らの生産規模や生産内容を決定します。そして、このような大雑把な計画がどの程度妥当であるかどうかは、市場による検証で明らかとなります。
何のためにこんなことをやるんでしょうか? このシステムのもとでは失業がなくなるのでしょうか? それはなぜですか?
市場動向をにらんで生産計画を立てているのは現在の個々の企業だって同じですよね? だったら何も、わざわざ中央の公的機関が計画を立てる必要など、ないではありませんか?
しかし、現在の企業は利潤優先で計画を立てるからまずい、それゆえ失業が生じるというわけですね? すると、吉野傍さんのシステムではいわゆる利潤優先ではなく雇用や分配を優先するシステムということになりますが……基本的にソ連型とどこがどう違うんでしょうか?
いくらおおざっぱな計画ではあっても、それによって資源と労働力の分配が決まるということであれば、その計画はノルマとなんら変わりはなく、非常に大きな強制力を持つことになります。
パソコンの例を挙げておられますが、こうした品目ごとの計画を中央機関が立てるというなら、そんなのは二度手間であり、今のまま、個々の企業に任せるべきです。
「その枠組みと指針に大きく矛盾しない範囲で、個々の協同組合企業は自主的に自らの生産規模や生産内容を決定し」にしても、ソ連型と何が本質的に違うのでしょうか?
餅は餅屋にまかせるべきです。
中央機関が計画を立て個々の企業におろすという発想自体、現存した社会主義国のやり方と本質的に同じだと思います。
主体はあくまで個々の企業であり、ここを変えてはならないと思います。政府は調整機関に徹するべきだと思います。そうした中でどこかが一人勝ちし、利益を独占するようなことはできない体制にする。しかしこれとて多分に「理想的」ではあります。
中央機関が計画を立てるシステムは、おそらく資源が絶対的に枯渇したような場合、統制経済という意味でしか有効ではないと思います。中央機関が計画を立てるシステムは、平時に用いるべきシステムではないと思います。
必要と労働に応じた分配こそ、社会主義・共産主義の原則です。この原則こそ、真に人間的で、文明的であると、私は確信しています。
「餅は餅屋に」と言ったのは、どうしたって経営に才能のある人間、物を作るのに長けた人間、そうした分業はいつまでたっても避けられるはずはないと思うからです。「一方の極に絶対的な貧困、他方の極に歪んだ豊かさ」は、いずれ、「他方の極に歪んだ豊かさ」をも滅ぼすことにつながります。そういう状態は自分の首を絞めることである。「他方の極に歪んだ豊かさ」をそういうふうにじんわりと追い込んでいく必要があると思います。