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「科学的社会主義」討論欄

再び浩二さんへ

2000/1/6 川上慎一、50代

 この見解によれば、莫大なお金を持って大量の株式を保有していても、株主総会に出る以外には企業の経営にかかわっていなければ彼は資産家は資本家ではない、ということになります。

 浩二さんに「教える」などというようなものを私はもちあわせていませんが、上記のことについて私の考えを書きます。
 「彼は資産家は資本家ではない」は私の入力ミスで、「彼は資本家ではない」とするつもりでした。あの文脈の中で私がいいたかったことは、資本主義か社会主義かを論じるときには、所有形態はきわめて本質的なことがらであるということでした。あそこで持ち出した例がいちばんふさわしかったかどうかについては多少の疑問がないわけではありません。現代社会において、莫大な資産を有する人が資本家として機能していないことは実際にはあり得ないでしょうから、「資産家=資本家」という図式はだいたいは成り立つと思います。これともう1つは、莫大な資産を持たないけれども、実際に重要な決定権や執行権をもって企業の経営者として機能している人は資本家として位置づけられることは当然だろうと思います。彼らは結果としてそれ相応の収入、社会的地位を受ける取るでしょうから。
 かつて、かなりの人々が一種の貯蓄として株式投資をするようになり大衆投資家ということばが登場したころ、「現代社会には資本家は存在しない」とか「みんなが資本家」だとかという俗論が出されたことがありますが、こういう俗論に対しては『ソ連の「社会主義」とは何だったのか』から私が引用した部分が有効でしょう。
 ずいぶん昔のことになりますが、レーニンの著作(どの著作だったか思い出せないのですが)の中で、「髪の毛が何本になったら禿というか」という意味のことを読んだことがあります。厳密に定義をすることは何事においても大切なことでしょうが、数量化して定義をすることができないことがあります。私たちは同じようなことにしばしば直面します。私は、こういうときには「両極」を明確にしておくことにしています。たとえば、たくさんの会社の社長を兼務している○○球団のオーナーなどが資本家であることや、浩二さんや私の身のまわりにいるかもしれない、わずかな蓄えで株式を購入している人などは資本家とはいえない、ということについては疑問の余地がないわけですから。
 「個人がブルジョアジーであるかどうか?」ということを問題にすることに、それほどの意義がない、という点については浩二さんのご指摘の通りだと思います。現代資本主義においては、企業どうしがたがいに資本関係を維持しあっているのですが、「ブルジョアジーとしての特定の個人」を特定できるかできないかという議論は別にして、このことが資本家階級=ブルジョアジーの存在を否定することにはなりません。
 戦後、政治経済の民主化措置として財閥解体が行われましたが、今日でも三井系、三菱系、住友系などという旧財閥グループがなお健在であり、世界的に見てもモルガン、ロックフェラーなどという少数の世界的な財閥が健在であり、旧来の財閥寡頭支配そのままではないにしても、世界経済に君臨し、政治にも隠然たる影響力をもっているようです。(書名を思い出せませんが)、これらの少数の財閥をたぐっていくといくつかの特定の家系にたどり着くという話を読んだことはあります。ただし、資本家「階級」を問題にすればいいわけですから、これ以上そのことについて追及する気は私にはありません。

「資本主義の悲惨さを上回る悲惨さで崩壊した計画経済」という図式……。

 以下の数点について、浩二さんに考えていただいて、レス投稿を期待します。
① 「悲惨な実態」とか(私の表現の)「否定的な現象」とかいうものは、おもにスターリン時代に集中的に起きたことだと思いますが、具体的にはどのようなことを想定していますか。私は、このような悲惨な実態、否定的な現象は、社会主義の理論から派生する避けがたいもの、必然的なものではないだろうと思っています。そして、これを経過することなく、新しい「社会主義」へ到達する道を模索すべきであり、それは可能ではないかと思っています。これらについては引き続き、時間を見つけて私の考えについて投稿するつもりでいます。
② ソ連が存在していた時代には、発達した資本主義諸国は、それぞれの国の労働運動などが原動力となって、かなり高度に発達した「福祉型国家」へと前進しました。そして、ソ連崩壊から10年を経過した現在、これらの国々で、かつて成立したさまざまな社会保障、社会福祉が崩壊しつつあり、膨大な失業者をかかえ、解決の窓口がみえない深刻な生活不安が増大しています。資本主義そのものを世界政治、世界経済という相互の連関の中でとらえれば、その「あり方」にソ連の存在がきわめて大きな影響をあたえていたと考えなければならないと私は思いますが、浩二さんはいかがでしょうか。「貧乏したって自由な方がいいぜ」といっておられる時代は間もなく終わるかもしれませんが、浩二さんはそうは思いませんか。
③ ソ連や東欧諸国などにおいて社会主義の崩壊後、すさまじい勢いで貧富の差が拡大し、それこそ「悲惨な実態」がリアルタイムに進行しています。これをもたらしたものはいわゆる「民主化」といわれる政変でした。世の中には、これらのできごとに対して、「急激な資本主義化がいけない」とする見解がありますが、私はこれらのできごとは、資本主義化の必然的な帰結だと思います。

 計画経済においても「商品」(人間の何らかの必要性を満たすという意味での生産物)が流通しなければならないことは明らかでしょうから、そういう「商品」が流通する場としての「市場」は存在し続けるでしょうし、消費の動向は生産者へフィードバックしていかなければ計画経済は成り立ち得ないでしょう。だから、計画の策定においては生産者自身が参加することなくして計画経済はあり得ないと思います。こういう点では資本主義経済は恐ろしいほど、売れるものを見つけだし、売れるように改良し、生産していきます。もっといえば人為的に需要をつくり出しさえます。
 余談ですが、私はMSDOSの時代から細々とパソコンをいじっていました。ウィンドウズ3.1のころに「486」を買い、ウンドウズ95が出て「ペンティアム」を買い、2年ほどして「MMX」を買い、ウインドウズ98で「ペンティアムⅡ」のノートを買い、現在は「MMX」をメインに使っています。この中でハードの寿命がつきるまで使ったものは1台もありません。買った私が悪いのでしょうが、ハードメーカーとソフトのメーカーが消費者心理をつかんで、いかにしたら大量に売れるかという戦略のもとに営業していることは明らかです。

 バラバラの個人ではなく統一された主体が経済を動かすべきである。ならばその「統一された主体」とはだれなのか? 政府、政党。そうしたものにならざるをえません。そして歴史はまさにこれが実践されたと思います。  結果がどうあれ、ソ連などの社会主義国はこの意味で忠実にマルクスの言葉を実践した、と私は理解しています。

 浩二さんの投稿では1つの段落になっているものを2つに改段しました。かつてのソ連における改革経済についてはほぼ浩二さんの投稿の前半の部分の通りだったと思います。そして、それがソ連崩壊の1つの要因だったと思います。しかし、これ以外に計画経済の存在形態があり得なかったかといえば、これはもう少し検討しなければ結論を出すことはできないと思います。経済計画をつくるという過程は非常に政治的なものであり、政治システムのあり方と切り離しては考えられません。浩二さんが常々ご指摘のように、ソ連の政治は長期にわたってノーメンクラツーラがその担い手でした。マルクス主義の創始者たちの思想の中に、未来の政治システムを論じるものの中で、そういうものの存在を防ぐためにはどうしたらよいか、という萌芽的な考えを読みとることはできますが、これらが生成し発展してくることに警鐘を鳴らすようなものに私は出会ったことはありません。レーニンは官僚主義に対する厳しい批判をくり返しましたが、レーニン自身もノーメンクラツーラの発生を予測していなかっただろうという印象を、少なくとも私はぬぐえません。したがって、上に引用した浩二さんの文章の後半の部分については私は真実であると認めることはできません。
 ロイ・メドヴェーデフは「わが国の勤労者の大部分は、六〇年代の終わりになっても、あいかわらず政治上受動的であり、国の政治生活に、政治上経済上のもっとも重要な問題の解決に十分に参加していない」(『社会主義的民主主義』24頁石堂清倫訳・三一書房1974年刊)と述べています。マルクス主義の(私たちの)通常の理解からすれば、「国の政治生活に圧倒的な勤労者が積極的に参加する」ことを肯定的にみるというのが常識です。だから、浩二さんがそういう趣旨の発言をされるのであれば、それは私の理解するマルクス主義とはかなり違うということになります。特に、「ソ連などの社会主義国はこの意味で忠実にマルクスの言葉を実践した」とすれば、マルクスの思想の中にかつてソ連で行われた「計画経済」なるものが、マルクスの思想のいずれと合致するのかを、私に教えてくれなければなりません。
 このロイ・メドヴェーデフの指摘するような実態であったからこそソ連崩壊が準備され、帝国主義諸国や多国籍企業の策動によって、あるいは買収され、あるいは恫喝されたノーメンクラツーラたちが、社会の指導的な位置にありながら民衆の闘いを有効に組織することができず、「ソ連社会主義」崩壊に至ったと考えています。非難されるべきは、民衆を政治から遠ざけ、民衆の利害とは離れた独自の利害を持ったノーメンクラツーラであろうと思います。
 いずれにしても、市場経済や計画経済については、私自身の考えはまだじゅうぶんにまとまってはいません。私自身の考えがもう少しまとまってからあらためて投稿するつもりでいます。もう少し書きたいところがありますが、今日はもう時間がなくなってしまいました。またの機会に投稿します。