① 私が引用した「社会主義へ前進する最低限度の可能性を有した」というところから、それなのになぜ、「本来の社会主義にならなかったのか」という疑問を浩二さんは提起しています。
② また、「社会主義とは『市場経済の廃止~土地、産業の国有化』。要するに土台=下部構造の革命的転換です。これなくして社会主義はありえないと、かの上田耕一郎も言っているところのものです」(浩二さんの投稿からの引用)
③ さらに、「『市場経済の廃止~土地、産業の国有化』は社会主義の最低条件、かつ根本条件であり」(同)として、いずれも、「本来の社会主義にならなかったのか」という疑問を浩二さんは提起しています。
浩二さんのこれらの論議の進め方はちょっとおかしくはありませんか。「最低限…」、「これなくして…」、「最低条件…」などは、いずれもあることがらの「必要条件」を述べています。論理的にいって、「必要十分条件」が満たされて、あることがらの結論・帰結がえられるのですから、社会主義のための「必要条件」は整ったのになぜ、「本来の社会主義」が実現しなかったのか、という論理は成立しません。
⑤ では、なぜ、このような根本的な経済的転換=土台=下部構造の革命的転換をやって『さえ』、「本来の社会主義」にならなかったのか?(同)
同じ理由で、この⑤は成り立ちません。
私は、(こういう表現は適切ではないでしょうが)、「本来の社会主義」を実現するためには、「ソ連社会主義」には「足りないものがあった」ということをいっているのです。そして、何が足りなかったか、どこが間違っていたかということを考えましょう、ということを提起しているのです。
浩二さんも「資本主義万々歳ではない」とか、「アメリカ帝国主義のやり方には腹を据えかねる」といっているわけですから、そうであれば、資本主義のオールターナティブとして、まだ、「社会主義」しかないのではないかと思われる今の段階では、ほんとうに社会主義が不可能かどうか考えてみませんか、ということです。
私は、マルクスの唯物史観が間違っていると思います。土台=下部構造(=経済構造)が、けっきょくはすべてを決めるのだと、こういう単細胞思考(あえてこう言い放ちます)が敗北したのだとしか、私には思えません。
下部構造を変えれば社会は変わる。こういう教えがマルクスによって与えられました。(同)
私は「土台・上部構造」の論争には辟易した経験がありまして、これについて浩二さんに申し上げるようなものを持ち合わせていませんが、かつて投稿した部分をもう一度引用します。
「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する」(「経済学批判序言」マルクス・エンゲルス全集第3巻6頁)という思想、簡単にいえば、「経済的諸関係が社会発展の規定的要因である」という思想こそが史的唯物論の基本命題であり魂でしょう。科学の発展によって、部分的な個々の命題が否定されることはありうるでしょうが、この魂は現代においてなお有効であり否定されるべきものではありません。
この程度に自分自身は理解しています。いずれにしても個々の命題の機械的適用こそが浩二さんのいう「単細胞的思考」に道を開くのではないかと思います。
私の一連の投稿は、ソ連社会主義についてのものであり、しかも、その全歴史、全過程を肯定していない、ということを明らかにしています。浩二さんは、ポル・ポトの例を持ち出していますが、私はこれを考慮の対象にしたことはありませんし、これを社会主義に含めて論ずるつもりもありません。
浩二さんへとのやり取りはひとまずこの辺にして、また、ソ連社会主義に関する投稿を続けたいと思います。
浩二さんへ。機会があればまたそのときにお相手をしてください。