浩二さんの1月6日付川上さん宛て投稿に、史的唯物論について非常に興味深いことが書かれています。
「私は、マルクスの唯物史観が間違っていると思います。土台=下部構造(=経済構造)が、けっきょくはすべてを決めるのだと、こういう単細胞思考(あえてこう言い放ちます)が敗北したのだとしか、私には思えません」。
「経済構造がすべてを決定する」という思想は経済決定論といって、最も俗悪な史的唯物論解釈であり、スターリニズムに典型的な思考パターンでした(もっとも、スターリニズムの場合はその裏返しである、「国家と党がすべてを決定する」という極端な主意主義的発想もあったのですが)。マルクスはかつて、そのような俗悪な経済決定論を振りまわしてマルクス主義者と名乗っていた人々を揶揄して、「私はマルクス主義者ではない」と言っています。
典型的なスターリニストであって後に反共主義者に転向した人々は、たいてい、自分がスターリニストであったときのきわめて俗流的なマルクス主義をマルクス主義そのものだとみなして、マルクス主義の致命的欠陥をあげつらったものです。浩二さんはそのパターンを典型的に踏襲しているようです。
マルクスが言ったのは、経済的土台が社会全体の構造を「規定する」ということです。「規定するとは制限すること」だというのは、スピノザから受け継いだヘーゲルの思想であり、マルクスもまたその基本思想を受け継いでいます。マルクス自身の表現によれば、歴史を作るのは人間であるが、ある与えられた一定の諸条件のもとで歴史を作る、ということです。
マルクスが、土台と上部構造という比喩を使ったのは、一方では誤解の源泉になったとはいえ(非常に静的なイメージなので、歴史のダイナミズムに合致しない)、他方では、それなりの意味もありました。つまり、土台の形状は、その上にどのような上部構造が立つのかの基本的構造を規定するが、その形や用途のすべてを決定するわけではない、ということです。
立派な土台の上に、手抜き工事だらけの家を建てることもできるし、立派な建造物を建てることもできます。旧「社会主義」国の場合は、土台そのものが立派な建造物を建てるのに非常に不利であった(貧困な生産力や遅れた文明など)うえに、はじめて家を建てる試みであったために試行錯誤のぶっつけ本番であったこと、建てている途中で、その家を破壊・放火しようとする隣の住人が多数いたこと、そして実際に何度も破壊されたこと、家を建てる柱や壁の材料も極端に不足し、かつ傷んでいたこと、建てる側の人間もしばしば無知で無能で、傲慢であったこと、また、家の設計図も、漠然とした見取り図しかなく、書いていない部分をほとんど想像で補わなければならなかったこと、またその見取り図の読み方もかなり間違っていたこと、等々のために、強い雨風(世界市場の圧力)や中の住民の不満のために崩壊してしまった、ということでしょう。
ところで、これまでの浩二さんの書いたものをよく読んで見ると、下部構造がすべてを決定するという思想を持っているのはむしろ浩二さんのようです。浩二さんは、「生産手段の社会的所有」が、大量粛清や言論弾圧や一党独裁やその他すべての悪を必然的に作り出したと論じています。まさに、浩二さんにおいては、「生産手段の社会的所有」という下部構造が、すべてを決定しているわけです。それに対して、私は、「生産手段の社会的所有」というのは社会主義の必要条件にすぎず、もっと多くの複雑な要因を考慮に入れないかぎり、社会主義の実現の可能性も、あるいは、かつての旧「社会主義」諸国が結局「社会主義」に至らずに、官僚主義的な変質を遂げたまま崩壊した理由も、理解できないのではないか、と考えています。
こうした複雑な事象を理解する上で、まずもって私は、マルクスがそもそも「所有関係」という基本的な問題において、本当はどういうことを考え、言っていたのかを確認することから始めました。それが、「個人的所有の再建命題」についての一連の投稿です。これはまだほんの端緒であり、「社会主義」の崩壊という現実を解明するまでには、なお多くの階段を上る必要があります。
しかし、浩二さんは、そのような手続きをすっとばして、いとも簡単に、諸悪の根源は「生産手段の社会的所有」であり、このことからすべてが決定されていたのだと結論づけます。その一方で、「生産手段の私的所有」のもとで起きたし現在でも起きている多くの悲惨な実例については、わからない、の一言で済ませています。「生産手段の私的所有」であったファシズムのもとで、なぜスターリニズム以上の大虐殺が実行されたのか、「生産手段の私的所有」の支配する世界でなぜ、5歳未満の子供が毎年1200万人も貧困や戦争や治療可能な病気で死んでいるのか(ユニセフの発表)、諸悪の根源たる「生産手段の社会的所有」が崩壊した国々で、なぜ多くの民衆が以前よりもはるかに悲惨な生活を強いられ、なぜ毎年のように戦争が起こり、なぜ大虐殺が起こっているのか、こうした一連の疑問についても、浩二さんはまったく答えてくれません。
旧「社会主義」国については極端な経済決定論者である浩二さんは、資本主義国と資本主義世界に関しては、まったくの未決定論者に変貌してしまいます。いったいどうしてでしょうか?