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「科学的社会主義」討論欄

吉野傍さんの「驚きました」に対して

2000/1/11 浩二、40代

 1月8日付、吉野傍さんの「驚きました」に対してレスします。
 モンゴルについては不勉強ですみませんと言うほかありません。モンゴルについても一般論で何か言うことはできるだろうし、現存した社会主義国と同じ悪弊がモンゴルにもあっただろうことは想像に難くありません。しかし、そんな形で個別に触れたくありません。市場経済に移行しつつあるキューバは、ソ連・東欧の崩壊に呼応した形では崩壊しなかった。かといってキューバは、中国のように市場経済に移行していたわけでもなかった。この事実はキューバ独特の事情によると思います。一番大きいと思われるのが、キューバの閣僚たちが庶民と同じような生活をしていたこと。その意味でキューバは、貧富の差の少ない、裏表の少ない社会主義だったと思います。こうした特殊な事情がモンゴルにもあるはずですが、なんせ無知なのでなんとも言えません。モンゴルについて何かわかったら投稿したいと思いますが、その前に、モンゴルの例を持ってこられた吉野傍さんに、概略だけでも教えていただきたく思います。よろしくお願いいたします。
 私が比較的知っているのはソ連です。ソ連崩壊後の事情も新聞、テレビで得られる程度は知っています。次期大統領と目されるプーチンは最近、大国主義を掲げた論文を書いたとのこと。それは大ロシア主義にもとづくものではないかと推測します。つまり民族的なものです。民族意識を根底にした大国主義はスターリンも実践したし、スターリンの場合は民族意識とともに、国際共産主義運動としての側面も持っていたと思います。大国主義は、社会主義だから、あるいは資本主義だからという規定を超えたところにも原因が求められるのではないかと思います。もちろん社会体制と無関係だというのではありません。けれど社会体制だけで割り切れる問題でないこともたしかだと思います。
 「「社会主義」崩壊後にロシアを襲った経済の崩壊と貧富の差の劇的な拡大」については、社会的インフラがない状態でいきなり市場経済に移行したのがまずかったことは、たしかに言えると思います。革命当時の急進改革派も、数年経って勢いを失いました。東欧諸国もしかりです。しかし、こうした事態が市場経済そのもののせいかというと、そうではないと思います。。先日のロシア下院選挙でも、「市場経済が悪い」と主張した党派はなかったはずです。ただ、今後「複数政党制による計画経済」などという主張の出てくる可能性は否定できません。
 私は資本主義礼賛ではありません。しかし、資本主義に比較してさえソ連型社会主義はなおいっそう悪かった。この事実は消えません。「悪いのはすべて社会主義そのもの、計画経済そのもの、レーニンそのもの、挙句の果てはマルクスそのものにあった」と、私は現段階では思っています。現存した社会主義は「複数政党制、自由選挙の保障された社会主義」ではなかったからです。「複数政党制、自由選挙の保障された社会主義」の原理も、まだ、だれからもどこからも提示されていない。マルクスにしても、資本主義の否定としての社会主義は提示したが、では、資本主義から社会主義への移行は具体的にどう実現しうるのか、社会化された生産手段を使っていったいだれが主体となって計画するのか、という問題は論じていないはずです。それでいてブルジョアジーの打倒は叫んだ。これでは正直言って、「資本主義社会は破壊せよ。あとは野となれ山となれ」というアジテーションでしかないではありませんか? マルクスが社会発展の法則を科学的に示したというなら、せめて、社会主義への移行条件、移行方法、計画経済のおおまかな実施方法を示していてしかるべきだと思います。しかしこうした過渡期の具体的な側面についてマルクスは何も示さなかった。となると、社会主義への移行はブルジョアジーの打倒を経るしかありえず、この意味においてレーニンはマルクスの教えを忠実に実践しました。そしてそれはけっきょく、「資本主義より早く崩壊することを運命づけられた社会主義」を作ってしまった結果になったのです。

 計画経済については、「いったいだれが計画するのか?」という計画主体の問題がつねにつきまといます。ここが解決されない限りソ連型計画経済の二の舞になります。計画経済においてはだれが計画を作るのでしょう? ここを不問に付した計画経済理論は画餅でしかありません。
 計画経済は、「いったいだれが計画するのか?」という計画主体の問題が一番重要です。マルクスやエンゲルスは、この計画主体の問題をどの程度具体的に詰めているのでしょうか。おそらく「労働者階級だ」というのがその答えでしょうが、「労働者階級」は階級という抽象概念であって、計画の実際的な主体ではありません。レーニンが当初構想していたように「労働者なら誰にでもできる」ものではありませんでした。もし「できた」というなら、ネップ時代、経営者を呼び戻して援助させるなどということは必要ありませんでした。ましてやノーメンクラツーラ階級などまったく必要ありませんでした。しかし現実にはノーメンクラツーラが新しい支配階級となりました。これは、計画経済における計画主体の問題を、マルクス、エンゲルスがまったく考慮していなかったことからくる、必然的な帰結です。この意味で、マルクス主義は必然的に崩壊したのです。
 「その崩壊後に、民衆がこうむった悲惨な状況の理由については知らない」ですが、私は崩壊した社会主義国のその後全般について知らないのではなく、あくまでモンゴルについては知らない、です。ロシア、東欧の事情については、貧富の差の拡大、失業、旧社会への憧憬などが現実に存在する以上、「「革命」後の社会は前より絶対いい」などと言うつもりは毛頭ありません。しかし、「だれも元の社会に戻ろうとは思ってはいない」ことだけはたしかだと思います。あくまで市場経済のもとで何とかしようという方向性を、現在も全体として持っていると思います。そうかといって、「複数政党制、自由選挙の保障された社会主義への展望さえ捨てている」わけではないでしょう。
 生産手段の社会的所有=悪の根源ではありません。悪の根源=生産手段の国家所有を労働者階級(=全人民)の所有と偽った現存した社会主義国、です。ただし、「生産手段の社会的所有」にしても『原理的に』、「生産手段の国家所有」という過渡期的状態を通過せざるを得ないというのであれば、そのような所有形態はソ連型となんら変わるところはなく、「悪の根源」となり得ます。生産手段の社会的所有とはそもそもどういうことなのでしょうか? 理念としては「なんだかいいことのようだ」と私も思います。しかし、では具体的に何をどうするのかという話になると、だれもこれを示していない。「本来の社会主義」を声高に叫ぶ陣営こそ、この点に対し明確な理論的提示があってしかるべきはずなのに、ソ連・東欧崩壊後10年以上経った時点でも未だに何もない。これほど人を馬鹿にした話があるでしょうか? 科学的社会主義を標榜する集団は、本来の社会主義については、まるで観念の彼方にあるもののように、神棚に祭り上げています。これではニセ宗教です。オウムとなんら変わるところはありません。生産手段の社会的所有は、可能性として追及すべき価値はあります。しかし、それの具体的構想のはっきりしないうちから現実に構築すべき「体制」では決してありえない。構想なきままにそうした体制に突入した末路は、ソ連の末路によってすでに自明ですから。

 最後に、「複数政党制、自由選挙による社会主義」と文中何度も書きましたが、先日の吉野傍さんのお話によれば、日本共産党は選挙で負けたら下野するとのこと。そうすると「社会主義日本」は、選挙後「資本主義日本」に戻ります。その後また日本共産党が選挙に勝てば「社会主義日本」に再度戻ります。「計画経済を推進する政党」が複数存在しない限り、こういうことになります。それとも、「計画経済を推進する政党」が複数存在する可能性は出てくるのでしょうか? しかし、「計画経済を推進する政党」は社会民主主義政党ではありえません。そうすると日本共産党と並んで、「計画経済を推進する政党」が複数存在しなければならないことになります。すると「一国に社会主義前衛党はひとつであるべきだ」という日本共産党の主張に抵触します。したがっておそらく、互いに相手を「分派だ!!」と叩き潰す事態になります。つまり、今の日本共産党を基準にする限り、将来の日本の計画経済は実質的に「日本共産党のみが推進する計画経済」ということになる。日本共産党以外の政党は全部計画経済に反対する政党ばかりのはずですから。「計画経済を推進する政党」が複数存在すればいいわけですが、そのためには日本共産党も、分派禁止とか「前衛党はひとつだ」といった従来の議論を訂正する必要が生じます。こうした政治的な面から考えても、計画経済はまことに前途多難だと思います。少なくとも、日本共産党が旧態依然の体質を持っている限り、「複数政党制による社会主義日本」を展望することは非常に困難であり、実質的には論理的矛盾によって、すでに「崩壊している」と、思われます。