吉野傍さんの「裏返しのスターリニズム」シリーズに対して、まとめてレスします。
計画経済を実現するためには一党独裁と言論弾圧が必要である
レーニンがなぜ秘密警察チェーカーを使って権力維持に邁進したのか、説明していただけませんか? レーニンがなぜ憲法制定議会を解散させ、他党の活動を禁止し、一党独裁を完成させたか、説明していただけませんか? 「秘密警察を背景に一党独裁した」事実は決して「スターリン時代になって初めて生じた」ものではありません。一党独裁のもと、秘密警察の恐怖を背景に権力維持する構造はソ連型社会主義のもっとも悪質かつ致命的な部分でした。これがいったい、レーニンとは無関係だったと、吉野傍さんはおっしゃりたいのでしょうか?
複数政党制と党内の分派の権利を認めた民主主義的ネップ
ありえる選択だと思います。ソ連・東欧とも崩壊直前まで幾多の改革が試みられましたが、一党独裁を前提としていたので期待した結果は得られませんでした。
ソ連・東欧崩壊後の過程は、ある意味、「複数政党制と党内の分派の権利を認めた民主主義的ネップ」を追求する過程だと思います。ネップと決定的に違うのは計画経済が皆無だということ。崩壊後の各国の「ネップ」は、それぞれの国で今後独自に追求していくほかないと思います。崩壊時~崩壊直後は、それまでの反動で市場経済万歳という雰囲気が横溢していたのですが、現実には簡単に移行できるものではなかった。しかし、これをもって崩壊~市場経済への移行を推進した勢力や世論を糾弾することはできないと思います。崩壊当時の流れは、決して資本主義の陰謀とか資本主義の入れ知恵によったなどということはできないからです。
浩二さんにおいては、「生産手段の社会的所有」という下部構造が、すべてを決定しているわけです。それに対して、私は、「生産手段の社会的所有」というのは社会主義の必要条件にすぎず、もっと多くの複雑な要因を考慮に入れないかぎり、社会主義の実現の可能性も、あるいは、かつての旧「社会主義」諸国が結局「社会主義」に至らずに、官僚主義的な変質を遂げたまま崩壊した理由も、理解できないのではないか、と考えています。
社会主義の必要条件と吉野傍さんも認めている「生産手段の社会的所有」を仮にも世界で最初に実現したソ連が、なぜ「官僚主義的な変質」を遂げたのか? ロシア革命当初に戻って考察いただければ幸いです。私は「レーニンが官僚主義的な体質を作った」と考えています。吉野傍さんはどうお考えでしょうか?
歴史的事実において、悲しいかな、いわゆる先進国が社会主義に移行した例がありません。したがって、実例として考える場合、ソ連型に集中するのはやむを得ず、元祖ロシア革命が考察の中心となります。「ロシアは果たしてレーニンのとった道しか取り得なかったのか?」という問題です。そして、「生産手段の社会的所有」を実現する上においても、「果たしてレーニンのとった道しか取り得なかったのか?」ということ。憲法制定議会を解散するならするでなぜ新しい議会を作らなかったのか? なぜ一党独裁の道にひた走ったのか? これはあの当時としては必然だったのか? 「「生産手段の社会的所有」が社会主義の必要条件にすぎない」のはもちろんだと思います。しかし、ロシア革命の現実において、果たして「生産手段の社会的所有」は「必要条件にすぎな」かったのかどうか? むしろ、「生産手段の社会的所有」を実現するというこの一点において一党独裁、人権抑圧が必然だったのではないか? 私の問題意識はここにあります。
「生産手段の社会的所有」が社会主義の必要条件にすぎないのはそのとおりでしょう。けれど、たったひとつのこの必要条件(暗黙に、市場経済から計画経済への移行も含むものとする)は、他の条件とは比べ物にならないくらい巨大な比重を持っていると思います。したがって果たして「必要条件にすぎない」として、他のもろもろの条件とほぼ同等に「いろいろある条件のうちのひとつ」と扱うことができるのかどうか、はなはだ疑問であると言わねばなりません。つまり、「下部構造が上部構造を規定するのか、それとも決定するのか」といった意味の微妙な違いの詮索など、この場合まったく不毛だと思います。人類史上、自然な形ではその萌芽すら現れたことのない計画経済をやろうというのです。「「生産手段の社会的所有」は社会主義の必要条件にすぎない」などと、果たして過小評価できるものなのでしょうか?
「生産手段の私的所有」のもとで起きたし現在でも起きている多くの悲惨な実例については、わからない、の一言で済ませています。
同じことを何度もしつこく書かないよう願います。「わからない」は、私はモンゴルに対して書きました。勉強不足の部分についてわからないとそのとおり書くことがどうしてこれほど非難されなければならないのか、「信じられない感覚だ」と申し上げるほかありません。
資本主義については、私もまるごと認めるつもりなど毛頭ありません。資本主義は一部の金持ちが私利私欲によって勝手放題やる可能性のある体制です。その部分をも認める度量など、残念ながら私にはありません。
こういう資本主義をじゃあどうするかという道はいろいろです。大きくは、改良するか根本から変えるかの2つです。そして、世界史の現段階では、「根本から変える」道が崩壊または衰退の一途をたどっています。「根本から変える」道は「歴史の発展法則から見て必然だ」とされた。それが100年たたないうちにこのあり様です。資本主義の害悪以上の害悪が『これまで考えられてきた根本から変える道』には存在しているとみるのが妥当なのではないでしょうか? 資本主義は一部の金持ちが私利私欲によって勝手放題やる可能性のある体制です。その害悪がおっしゃるように現実に起きています。しかし、この体制をよりよく変える道が、これまで考えられてきたような社会主義のみにあるとは、もはや言えないのではないかと思うのです。
根本的な解決として今後考えうるのは、「需要と供給の調整システムとしての市場経済のもとで、生産手段を社会的所有する」道ではないのかと、私は夢想しています。こんなものが果たして原理的に可能なのかどうか全然わかりません。しかし、歴史上自然な形ではまったく現れなかったし、これからも現れるとは思えない計画経済よりは、実現できる確率は高いと思います。資本主義が悪いからといって、歴史上自然な形で現れることのない不自然な人工的システムでは、今後も到底解決には至らないでしょう。不自然なことをやろうとすればどこかに無理が来るのです。計画経済は需給関係の調整、手に入れる物資の選択の問題、何より「いったいだれが計画するのか?」という計画主体の問題があります。まことに不自然です。だから、この不自然な体制を貫徹するにはどうしても力が必要になります。それが秘密警察であり一党独裁だった、というのが私の作業仮説です。