1月11日付の浩二氏のレスに回答します。
この投稿で浩二氏は最初にキューバの話を出しています。市場経済ではなかったキューバがソ連・東欧のように崩壊しなかったことを紹介し、それがキューバの特殊事情によるものだと述べています。しかし、浩二氏の主張によれば、計画経済は必然的に独裁に始まって虐殺に至るあらゆる害悪と犯罪を生み、最終的に崩壊するはずです。キューバはたしかに一党独裁ですが、スターリン時代のソ連に見られたような大量粛清などありませんでした。同じことは、ベトナムについても言えるし、ユーゴスラビアや多くの東欧諸国についても言えます。浩二氏の必然性論は明らかに破綻しているようです。
ついで、浩二氏は、自分が比較的よく知っていると称しているソ連の例を出してきています。まず民族主義の問題について、それは体制とはあまり関係なく、昔からの大国主義と関係があると述べています。たしかに、昔も今もロシア人の意識の中には大国主義、民族主義があります。しかし問題は、なぜその民族主義、大国主義が、諸悪の根源である「生産手段の社会的所有」と「計画経済」がなくなったとたんに、以前よりもはるかに凶悪で残酷な形で燃え上がったのか、なぜネオ・ファシスト組織までもが、雨後のたけのこのように繁殖したのか、です。なぜチェチェンに侵略し、一般民衆の上に雨あられと爆弾を落としているのでしょう?
また、「社会主義」崩壊後の経済の崩壊と貧富の格差の急激な増大について浩二氏は、「社会的インフラがない状態でいきなり市場経済に移行したのがまずかったことは、たしかに言えると思います」と述べています。この場合の「社会的インフラ」とは何を指しているのか、次の投稿で具体的に説明していただきたいと思うのですが、この主張は、基本的に「ネップ」路線の正しさを認めるものとなっています。「いきなり」ではなく、徐々に移行するとはどういうことでしょうか? それはつまり、計画経済の原理と市場経済の原理とが共存する状態を認めるということです。これこそ、1921年にボリシェヴィキがやったことです。このことは、計画経済と「生産手段の社会的所有」が必然的に独裁と虐殺と、そして最終的には社会崩壊をもたらすという命題と著しく矛盾します。
浩二氏はさらに、「私は資本主義礼賛ではありません」と述べています。しかし私は、浩二氏が、『さざ波通信』への投稿やあるいは他の掲示板への書き込みで、資本主義を厳しく糾弾するような具体的な文章を見たことがありません。その一方で、社会主義を攻撃する投稿や書きこみは、無数にやっています。すべてを集めれば、何冊かの著作になるかもしれませんね。いくら、資本主義礼賛ではないと言い訳がましく言われても、それでは資本主義礼賛と受け取られて当然でしょう。たとえば、「私は日本共産党礼賛ではない」と言いながら、ただの一つも具体的に日本共産党の現状を批判する投稿や書き込みをしない人を、あなたは信用しますか?
また、「資本主義に比較してさえソ連型社会主義はなおいっそう悪かった」と述べていますが、すでに私が以前の投稿で書いたように、比較すべきは、同程度の低い生産力水準と文化水準から出発した資本主義諸国ですよね。旧ロシア、旧中国、旧ベトナム、旧キューバと同じ程度の経済・文化・教育水準にあった資本主義諸国、グアテマラやプエルトリコ、フィリピンやインドやパキスタン、ブラジル、インドネシアなどの国です。これらの資本主義国と比べて、ソ連型社会主義がなお悪かったと言わなければなりません。
また先進資本主義国にしても、
その歴史上、スターリンがやったような大虐殺を繰り返しやっていますが、その点はどう説明するのでしょう。スペインとポルトガルは中南米を支配し、先住民を大量に虐殺し、時には、病気や飢えなどでほとんど絶滅させてしましました。イギリスは世界各国を植民地化し、その過程で大量の現地住民を殺害し、餓死させました。ヨーロッパ人およびアメリカ合衆国は、アメリカ大陸の先住民を大量虐殺し、また大規模な黒人奴隷によって繁栄しました。新世界に連れ去られたアフリカ黒人は最低でも500万人以上と推定されており、そのかなりの部分が、捕らえられる過程で、奴隷船の中で、そして着いた先で――リンチ、病気、過剰労働、等によって――殺されました。反乱を起こした黒人はみな、拷問の末、最も残酷な形で殺されました。奴隷船での待遇はとくにひどく、到着するまでに8人に1人は死亡し(つまり、奴隷船の中だけで60万人以上が殺された)、死んだアフリカ人は海に投げ捨てられたので、人食い鮫が好んで奴隷船の後を追ったと言われています。ドイツは、ナチス時代にユダヤ人数百万人を虐殺し、ソ連侵略で2000万人以上の死者を出しました。日本もまた、大陸侵略で2000万人以上のアジア人を虐殺しました。そしてヨーロッパの先進資本主義諸国は、2度にわたる世界大戦によって合計で6000万人以上の死者を出しました。戦後も、アメリカは、世界中に繰り返し侵略とクーデターを仕掛け、あるいは、反共独裁国家を支援し、その過程で数十万もの死者が出ています。
これらの現実を前にして、なお、ソ連型社会主義が資本主義よりも「いっそう悪かった」となぜ断言できるのか説明してください。
浩二氏は、「悪いのはすべて社会主義そのもの、計画経済そのもの、レーニンそのもの、挙句の果てはマルクスそのものにあった」とする理由として、「こうした過渡期の具体的な側面についてマルクスは何も示さなかった」と言っています。具体的なことを言っていなかったから、現実に生じた無数の具体的な悪はすべてマルクスのせいである、というのはちょっと信じられない論理ですね。これを読んだ時、アメリカの笑い話のような訴訟を思い出しました。電子レンジで自分の飼い猫を暖めて死なせた飼い主が、電子レンジの商品説明書に「猫を暖めてはならない」と書いていなかったから、責任は電子レンジを作った会社にある、と告訴した事件です。
さらに浩二氏は、計画経済について次のように述べています。
「計画経済については、『いったいだれが計画するのか?』という計画主体の問題がつねにつきまといます。ここが解決されない限りソ連型計画経済の二の舞になります。計画経済においてはだれが計画を作るのでしょう」。
全国的な計画の場合には、当然、計画委員会のような公的な中央機関(そこには、経済の専門家、政府の担当者だけでなく、労働組合の代表、市民の代表をはじめとする、主要な利害当事者団体の代表が入る)が計画案をとりあえず作成し、それを国会をはじめとする全国的な民主主義的討論にかけ、審議を経て修正し、可決されるという過程を経るでしょう(もっとも、もっと民主主義的で発展したやり方が、今後の研究と歴史の中で生み出される可能性は否定できません)。地方自治体レベルなら、地方の計画委員会が同種の課程を経て、計画をたてるでしょう。複数政党制、言論・出版の自由、十分な党内民主主義、労働者の自主的・主体的関与、各種の中間団体の自主性と積極性、という諸条件がある限り、こうした計画策定の過程は何ら独裁もノーメンクラツーラ支配をも意味しません。
問題は、根本的に、どのように計画経済を実施するのかです。この「どのように」が決定的であり、計画経済そのものが独裁と弾圧とノーメンクラツーラ支配を生むという命題は、論理的に成り立ちません。
さらに浩二氏は「生産手段の社会的所有」について次のように述べています。
「生産手段の社会的所有=悪の根源ではありません。悪の根源=生産手段の国家所有を労働者階級(=全人民)の所有と偽った現存した社会主義国、です。ただし、『生産手段の社会的所有』にしても『原理的に』、『生産手段の国家所有』という過渡期的状態を通過せざるを得ないというのであれば、そのような所有形態はソ連型となんら変わるところはなく、『悪の根源』となり得ます」。
「社会的所有」の形態についてはさまざまなものが考えられます。マルクス自身は、私のこれまでの「個人的所有の再建命題」に関する連続投稿でだいたい明らかなように、おそらく「協同組合所有」を基本的に考えていたと思います。協同組合は、組合員がそれぞれ資金を出資しあって経営されます。したがって、協同組合の生産手段は、組合員の共同所有です。これが基本的に主要な企業体に拡大され、それが中央レベルでの民主主義的計画の枠内で生産活動を行なうというのが、『フランスにおける内乱』の中でマルクスによって提示された共産主義のイメージです。しかし、過渡期においては、国家所有も部分的にあるでしょうし、自治体所有もあるでしょう。国家所有ならただちにソ連型と同じで、「悪の根源」になるというのは、非論理的です。もしそうなら、やっぱり国家所有が基本であったキューバの特殊性について説明できません。
「国家」そのものの性質、「国家所有」の具体的なあり方、市民社会の具体的なあり方によって、実際の姿は大きく左右されます。国家が民主主義的で(複数政党制は当然として)、「国家所有」に対する労働者の規制と関与が保障されているならば、そして市民社会における市民的自由と自主性が尊重されているならば、同じ国家所有でもまったく違った意味を持ってくるでしょう。つまり、「いかなる」国家所有なのか、が決定的に重要だということです。
最後に、浩二氏は、複数政党制と政権交代のもとでの計画経済について、次のように疑問を提示しています。
「先日の吉野傍さんのお話によれば、日本共産党は選挙で負けたら下野するとのこと。そうすると『社会主義日本』は、選挙後『資本主義日本』に戻ります。その後また日本共産党が選挙に勝てば『社会主義日本』に再度戻ります。『計画経済を推進する政党』が複数存在しない限り、こういうことになります」。
共産党が政権を降りて、その代わりに、資本主義復古の政党が政権につくのか、それとも、別の社会主義政党が政権につくのかによって、もちろん、事態はまったく異なります。後者については後で述べるにして、前者については、これは一種の「反革命」ということになるでしょう。しかし、歴史においては、ある体制から別の体制に移行する過程が、たった1回きりの変革で実現したということはありません。ブルジョア民主主義革命にしても、何度か王政復古があり、その後再び共和派が革命で勝利して共和制になるという過程が繰り返されています。典型的なのはフランスです。社会主義への移行にしても、そのような過程を繰り返すでしょう。浩二さんは、ソ連が他の資本主義諸国よりも速く崩壊したことを、社会主義がだめである決定的な証拠とみなしているようですが、それはまったく非歴史的な見方です。
社会主義をめざす最初の試みはパリ・コミューンで、これは2ヶ月ほどで崩壊しました。次は、ソヴィエト・ロシアであり、これは奇跡的に70年以上生き残りましたが、10年前に崩壊しました。資本主義的共和制の歴史は、イギリスのピューリタン革命(1649年)から数えてもまだせいぜい350年であり、1000年以上あった封建制のまだ半分も経っていません。とするならば、そのような行きつ戻りつの過程をまだ今後も繰り返すでしょう。そして、人類は今後、過去の失敗から教訓を学び、新しいより人間的で民主主義的な社会主義をめざすでしょう。
次に、他の社会主義政党が政権をとる場合ですが、これは、とくに問題はないでしょう。これこそ、社会主義的民主主義の過程であると言えます。資本主義のチャンピオンであるアメリカでは、二つの資本主義政党が、政権交代を繰り返しながらも、けっして資本主義の土台そのものは変わることなく、存続しています。しかし、共産主義政党、社会主義政党は残酷に弾圧され、不平等な選挙制度によって排除されてきました。これは典型的な資本主義的民主主義です。
さて、浩二氏は、「一国一前衛党」論を持ち出して、そのような複数の社会主義政党は存在しえないと言っています。これは、ソ連の経験を普遍化したまさにスターリン主義的謬論です。私はそもそも、「前衛党」という概念に否定的であり、ましてや「一国一前衛党」というのは、コミンテルン時代のかび臭いドグマだと思っていますが、社会主義政党=前衛党ではないので、「一国一前衛党」論のもとでも、別に複数の社会主義政党は存在しえます。また、「一国一前衛党論」は別に、他の社会主義政党を打倒・解体することを目的にしたものではありません。一部の新左翼党派は、共産党の打倒・解体を公言しており(JCPウォッチにときおり登場している火河渡氏はまさにそれです)、こういう党派が政権についたら、たしかに、他党派の弾圧と解体が権力的に進められ、スターリン時代のような暗黒社会が到来するでしょうが。
また浩二氏は、日本共産党の現状を持ち出して、「そのためには日本共産党も、分派禁止とゥ『前衛党はひとつだ』といった従来の議論を訂正する必要が生じます」と述べています。この点に関してはまったく同じ意見です。そして、私はこれまでの多くの投稿の中で、共産党の現状を繰り返し批判してきたつもりです。こういう党員が現実に存在するということこそ、共産党の生命力の証しだと思っています。