浩二さんの2000/1/12付けの吉野さん宛の投稿で、いくつか検討しておきたい部分がありますので、私の考えを投稿します。
ソ連社会主義については、きちんと手順を踏んで歴史的事実にもとづいて討論していく必要があります。それをしないといくつかの事象を短絡的に結びつけて、とんでもない結論を引き出すことになりかねません。
「レーニンがなぜ秘密警察チェーカーを使って権力維持に邁進したのか、説明していただけませんか? レーニンがなぜ憲法制定議会を解散させ、他党の活動を禁止し、一党独裁を完成させたか、説明していただけませんか? 『秘密警察を背景に一党独裁した』事実は決して『スターリン時代になって初めて生じた』ものではありません。一党独裁のもと、秘密警察の恐怖を背景に権力維持する構造はソ連型社会主義のもっとも悪質かつ致命的な部分でした。これがいったい、レーニンとは無関係だったと、吉野傍さんはおっしゃりたいのでしょうか」。
浩二さんがここでいっている「チェーカー」とは革命直後の1917年11月にできた「反革命・サボタージュおよび投機行為取締全ロシア非常委員会」(略称ヴェー・チェー・カー)のことを指していると思います。初代長官はジェルジェンスキーでした。この組織は、その後、国家保安部(1922年)→合同国家保安部(1923年)→内部人民委員部(1934年)、そして1938年にはかのベリヤが長官に就任します(『クレムリン権力のドラマ』441頁から要約引用・木村明生著・朝日新聞社1988年刊より)。
浩二さんは、この投稿で「秘密警察を背景に一党独裁」という政治体制がスターリンによるものではなく、レーニンも責められるべきであると決めつけています。これを歴史的な事実を背景として考えてみます。
レーニンは1922年5月に脳卒中で倒れ、一時回復したものの同年12月に再び倒れ、しだいに活動から遠ざかることとなります。その後はソ連邦と党の将来を懸念し、スターリンを排除するために最後の余力を命つきるまで傾注しました。したがって、レーニンが第一線で政治にかかわったのは1922年までと考えていいでしょう。
この間のロシアの歴史がどのようなものであったかを検討することなく、レーニンの政治が秘密警察による一党独裁、恐怖政治のように描き出すのは、どのように浩二さんの投稿を好意的に読んでも同意することはできません。
この間の歴史を、『ソ連邦史』第1巻(ボッファ著、大月書店刊)や『レーニン』(M・C・モーガン著、番町書房刊)の巻末の年表や本文から拾ってみます。
1918/1 | 憲法制定議会の解散 |
/3 | エスエル左派政府から脱退 |
/4 | 日本軍ウラジオストックに上陸 |
/5 | チェコスロバキア軍団の反乱 |
/7 | エスエル左派の反乱 |
/8 | レーニン狙撃される |
/11 | 第一次世界大戦終了 |
1919/3 | コルチャックの攻勢 |
/3 | デニーキンの攻勢 白衛軍が各地で攻勢に出る |
/6 | デニーキン軍の攻勢に対して「最大の危機」、「すべてをデニーキンとの闘いに傾注せよ!」(レーニン)を書く。 |
/10 | ユデーニッチのペトログラードへの攻勢を持ちこたえ撃破 |
/10 | コルチャック軍をシベリアへ向けて追撃 |
1920/2 | イルクーツクでコルチャック銃殺 |
/4 | デニーキン敗北 |
/6 | ヴランゲリの白衛軍クリミアより攻勢に出る |
1921/3 | クロンシュタットの反乱 |
/3 | ネップ始まる |
/4 | 南部の飢饉始まる |
1920年末までは、過酷を極めた内戦の時期であったことがこの時代の最大の特徴です。
革命で権力を確立した直後には、旧勢力を中心とする反革命勢力の死にものぐるいの闘いが展開されるものです。比較的近いところでは、チリのアジエンデ政権でも成立直後からITTを中心としたコングロマリットがCIA(総体としていえばアメリカ帝国主義)などを通じて、直接にあるいは間接に悪質な反政府活動を展開し、チリ国内の資本家たち、たとえば、運輸関係の企業が大規模に(資本家の)ストライキをしたりして、国内経済を大混乱に陥れました。国内外の乱暴極まりない反政府活動によって、チリ経済は麻痺してしまいました。チリには長い議会政治の歴史がありました。だから、得票率36%ほどの得票ではあったけれどもチリ議会は慣例にしたがって、アジエンデを大統領に選出したのでした。そして、アメリカ帝国主義による度重なるクーデターの要求にもチリ軍部の最高幹部は簡単には応じませんでした。(たぶん)2年ほどこのような事態が続いて、国内的にもまったく何ともならないところまできて、例のピノチェット(当時の陸軍最高幹部)が凄惨なクーデターを起こしたというのが大体のあらすじです。
この投稿の趣旨からは離れて少し脱線します。チリのアジエンデの実験は新しい革命の試み――すなわち、選挙を通じて合法的に平和的に革命をめざす――として非常に注目されたものでした。この路線は第2次大戦後の資本主義国の共産党、労働者党の多くが追求した路線でもありました。イタリア共産党が「歴史的妥協」路線を採用したのはほぼ同じ時期です。ユーロコミニズムの諸党がプロレタリアートの独裁を放棄したのもチリのアジエンデの実験の失敗と深いかかわりがあるとする指摘もあります。私の結論だけをいえば、資本主義国の国際共産主義運動がどうしようもないほど日和見主義に堕落した、ということです。発達した資本主義国の革命路線の問題は、いずれはそれにかかわる人々が答えを出さなければならない問題だと思っています。
本論に戻りますが、革命直後、より正確にいえば、革命権力がある程度の安定を打ち立てるまでは、相対的に安定した時代とは異なった政治が必要となることは、別にプロレタリア革命の場合に限りません。この不安定な時期を乗り切るためには、革命権力が組織した軍事力、警察力をもその重要な手段として行使し新しい政権の基盤を固めなければなりません。これも、革命といわれような大変革――従来の支配階級が支配階級でなくなるような変革――の場合には一般にみられることであって、特にロシア革命に限ったことではありません。
ロシア革命直後の列強の干渉、内戦は、よくぞ革命政権が持ちこたえたといえるほど強力なものでした。これはロシア革命が「一国革命」、「後進国革命」であったことと深い関係があるのですが、まず、都市住民の飢えを解決するために、穀物を徴発しなければならなかった、これが農民の中に広範な不満を鬱積させた、また、迫り来る経済危機がもたらす動揺が都市労働者の間にも広がった、このような深刻な危機がロシア社会を覆ったのです。このような社会的背景のもとに各地で白衛軍が帝国主義の支援を受けて大規模に反乱を引き起こしたのです。「死か勝利か」という時代でした。平和な時代ではありません。戦争それも内戦です。それぞれの時代にはそれぞれの時代の論理しか通用しないのですから、20世紀初頭のロシアを考える上で、2000年の日本に住む人の感覚でものごとを考えて正しい結論に達するはずがありません。内戦の時代には内戦の論理しか通用しないのです。
したがって、レーニン時代に「反革命・サボタージュおよび投機行為取締全ロシア非常委員会」がつくられたことがどうして「秘密警察を背景に(した)一党独裁」体制を意味するのでしょうか。
もう少し具体的に見てみます。1918年3月、ブレスト講和条約(第4回ソビエト大会で批准)に反対してエスエル左派が人民委員会議(政府)から引き上げます。その後、もともとテロリズムの伝統があったエスエルはそこに立ち戻って、ボリシェビキの指導者の命をねらうようになります。ペトログラードで最も人望があったヴォロダルスキーやウリツキーが暗殺され、7月にはドイツとの戦争再開をめざしてエスエル左派活動家がドイツ大使を暗殺し、同党党員の指揮するチェーカーの一部隊(チェーカーはボリシェビキの1党支配の道具とはいえない)の反乱を指揮し、電信局を占拠し、ジェルジンスキーらを捕虜にするという事件が起きています。さらに8月にはレーニン自身がカプラン(エスエルの女性テロリスト)に狙撃され重傷を負っています。このような事態に直面して、ソビエト中央執行委員会は「赤色テロルを認める決議」を通過させました。そしてやがてエスエルの事実上の非合法化へと進んでいくことになります。こういう歴史があります(『ソ連邦史』第1巻108頁・113頁より要約引用)。
こういう時代背景を考えてもなお、「反革命・サボタージュおよび投機行為取締全ロシア非常委員会」を設けて闘うことが非難されなければならないことでしょうか。
浩二さんのいうように「秘密警察を背景に(した)一党独裁」体制――暗黒政治・恐怖政治――に近いものががソ連の歴史の中で存在したでしょう。しかし、それはレーニンが指導した時期ではありません。レーニン没後の数年間もそういう時代ではありませんでした。スターリン体制が確立した1930年代以降――第2次大戦中を除外しますが――のことです。また、フルシチョフのスターリン批判後も、政治的自由や民主主義があったとは認められないまでも、スターリン時代とは質的に異なります。
党内民主主義についても同じようなことがいえます。スターリンによる非道な人民支配は同様に党内支配でもありました。スターリン体制によって政治的にも肉体的にもその生命を奪われた党幹部はトロツキー、ジノビエフ、カーメネフ、フハーリン……など枚挙にいとまがありません。
これに対してレーニン時代はどうだったでしょうか。たとえば、10月革命の武装蜂起のときに、最後までこれに反対した中央委員が2人いました。ジノビエフ、カーメネフです。ジノビエフなどは党外の新聞に武装蜂起する日まで公表して、蜂起に反対する論陣を張りました。蜂起は戦術ですから、いつ、どこで、どれほどの規模でなど秘匿するのが常識です。彼らの行動は「革命の敵」ともいうべきものでした。さすがにレーニンは憤慨しました。それでも、彼らの自己批判を受け入れたのでしょう。その後のロシア革命の中でジノビエフもカーメネフも枢要な位置で活動しました。スターリンによって粛清されるまで。党幹部が失脚して、その結果、生命まで奪われるというようなことは、スターリン時代を除けばソ連社会ではレーニン時代を含めてなかったでしょう。いろいろな面からみて、まずは、レーニン時代とスターリン時代とは区別されるべきだろうと思います。したがって、「秘密警察を背景に(した)一党独裁」体制はレーニンによるものでもなく、社会主義の理念から必然的にもたらされたものでもありません。
スターリン体制については、なぜ生成したか、何をもたらしたかなどが個別に検討されるべきだろうと思っています。スターリン時代には、ソ連社会が少々の反革命行為によって権力が揺らぐことはないという「安定期」に入りましたから、そういう時代に「反革命・サボタージュおよび投機行為取締全ロシア非常委員会」が形を変えて、質的にも陰湿になって存在し続けたということ自体がおかしいのです。
また、ソ連社会主義を考える上で共産党の問題は避けて通ることのできない本質的なものです。分派の問題もその1つです。レーニン没後の党内闘争は単なる権力闘争ではなく、社会主義建設をめぐる路線上の対立でもありました。どんな時代、どんな社会であっても政策、政治路線をめぐる対立はあるのが当たり前であって、1つの党の中で満場一致などということが――ほぼ無条件にといっていいほど――そこに民主主義が存在しない証拠です。当時のソ連の政治体制の中では、ソビエトの中で徹底した民主的な討論が行われるべきですが、事実上ボリシェビキの1党支配が成立した段階では、党内で徹底的な民主的な討論が行われなければなりませんでした。しかし、スターリン体制においては形式上も党機関の正規の手続きを踏んだやり方でものごとが決定されてはいませんでした。長い間、党大会も中央委員会も開かれない時期さえありました。
かつて、私は、投稿<ロシア共産党十回大会(1921年)の決議について 99/8/24>の中で、レーニンにおいては分派の禁止は共産党の一般原則ではない、という趣旨のことを述べました。こういう原則は情勢に応じて可変的なものだろうと思っています。相対的安定期に入れば自由な討論、生き生きとした民主主義が保障されるべきであって、そのことが正しい政治路線に到達する最大の保障であるといえるでしょう。レーニン没後の共産党に求められたのは、何よりも社会主義建設の正しい路線でした。労働者階級の権力を守るという一点において固く団結することを前提として、その後、最大の路線対立となった、ネップの路線を守るのか、急激な大工業化、集団化に進むのかという政治方針をめぐる対立は、特定の幹部をめぐる対立でもあったわけですから、失敗すれば人的交代をともなった路線変更によって修正される可能性があったでしょう。
もともと政治というのは近現代においては階級闘争の集中的表現ですから、私的所有が廃絶された社会でなお今日の自民党のような政党が存在するかどうかは、その可能性の方が低いと私は思うのですが、いずれにしても、プロレタリアートの政党を自認するボリシェビキの中にあってさえ、非常に深刻な対立があったわけですから、複数の政党が存在する可能性はあるでしょう。社会の発展段階に応じても可変的なものでしょう。私は「時代や社会情勢にかかわらず1国1前衛党」が正しいとは考えていません。もちろん自然にそうなることは否定しませんが。トロツキーなどは生粋のボリシェビキではなく、メジライオンツイという党派からボリシェビキに集団入党しているのですから。
ついでにもう一言いっておきますと、浩二さんのマルクス主義や社会主義の理解の中に、スターリン時代に形成された「通俗的理解」、「俗流の見解」といったものがあるように感じられてなりません。それを前提として、マルクス主義の破産、社会主義の破産を主張しているようですが、もしそうであれば、それはスターリン主義の破産に過ぎません。また、ソ連社会主義についてのきちんとした総括を日本共産党が行なうべきであるというのは私の持論でもあり、「さざ波通信」に何らかの共感を持って投稿している人たちは、今日の党の路線に何らかの異論を持っているわけですから、すべての点において日本共産党の公式見解を持っているとアプリオリに前提して、討論するのも適切ではないと思います。党員はすべて一枚岩のごときものであるというのも具体的な実状から離れたスターリン流の理解です。
スターリン時代、スターリン体制というのは年代としてはソ連社会主義の半分近くを占めるのですが、それでもそれがマルクス主義や社会主義の理念に必然的なものであるとはいえないという意味で、特殊な時代、体制でした。私ごときものにそれができるかどうかは別問題として、私なりにそのことについて時間をかけながら投稿するつもりでいます。わずかな投稿で結論づけることができるような内容ではありません。それを性急に答えを出そうとすればそれこそ「単細胞的な思考」(浩二さんが使った言葉です)になることは避けられないでしょう。
憲法制定議会解散についても書きたいのですが、もう疲れてしまいました。別な機会に書きます。ただ一言だけ申し上げると、これはカウツキーとレーニンとの間で論争されたことでもありますが、両者の間には民主主義観に大きな相違があります。浩二さんはご自分で「資本主義はしょせん金のあるものが勝ちという社会」という意味のことを述べてみえます。このことをもっと突き詰めて考えれば、それは必然的に民主主義の問題に行き着くと思います。他人の労働をわがものにすることができる権利が前提となってこのような社会が成立しているのです。この権利は永遠不変の基本的人権でしょうか。これを資本主義国では「経済活動の自由」と表現します。この原理を永遠不変の原理とすれば、永遠に「金のあるものが勝ちという社会」を変えることはできないということになります。また、議会制民主主義(代議制)を至上の政治制度であるとすれば、ソ連社会主義の実験からは何も学ぶものはないでしょう。しかし、この政治システムはブルジョアジーの発明したシステムです。資本主義社会に最も適した政治システムであり、社会主義においてはこれは止揚されなければならないものです。社会主義においてそのまま存続できるようなものではありません。原理的には違った民主主義が存在しうると思います。現代日本の政治、特に議会がどれほど民衆の意思と離れた存在となっているかを考えるだけでも、どのように止揚すべきかというヒントは浮かんでくると思うのですが。
新しい社会は土台に見合った上部構造をつくるでしょう(このように書くと、たぶん浩二さんは、生産手段の社会的所有が成立したのにできたのはスターリン体制だったのはなぜか、とおっしゃるでしょうが、それについてはまたの機会に書きます)。
それはおそらくは私たちが日常目にしている代議制とは異なったものになるかもしれません。
「崩壊当時の流れは、決して資本主義の陰謀とか資本主義の入れ知恵によったなどということはできない」と浩二さんは述べて見えますが、私は社会主義の崩壊そのものに「資本主義の陰謀」があったと思っています。それについては、私の投稿の予定にしたがって、順を追って書くつもりです。