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「科学的社会主義」討論欄

吉野傍さんの「「どのようにして」と「いかなる」が問題」について

2000/1/17 浩二、40代

 1月13日付吉野傍さんの投稿にレスいたします。
 まず、「モンゴルの例を持ってこられた吉野傍さんに、概略だけでも教えていただきたく思います」という部分への回答がありません。モンゴルはどうなったのでしょうか? 吉野傍さんがモンゴルの例を持ってこられたのは、モンゴルが社会主義から資本主義に移行した、まさにこのことが「原因で」マンホールの底で暮らすようになったモンゴルの子どもたちが増えた、ということを言いたかったからだと思います。つまりモンゴルを例に採った資本主義の告発です。したがって、モンゴルにおける資本主義への移行とマンホールの底で暮らすようになったモンゴルの子どもたちの増加との間の因果関係を、吉野傍さんにはぜひとも論証していただきたく思います。よろしくお願いいたします。

浩二氏の主張によれば、計画経済は必然的に独裁に始まって虐殺に至るあらゆる害悪と犯罪を生み、最終的に崩壊するはずです。

 これはまあ、正確には「ソ連はそうだった」という注釈をつけなければなりません。なんせロシア革命は歴史上初めての社会主義革命です。前例などありません。マルクス、エンゲルスも、計画経済のイロハすらその著書には書かなかった。それゆえ、レーニンは青写真なしでことを進めなければなりませんでした。そのような状況でレーニンは「手さぐりの社会主義体制確立」をめざして奮闘し、一党独裁とチェーカーを確立しました。今でこそ、これらを断罪することができます。しかしレーニンにとっては必要悪だった。パリ・コミューンが数ヶ月で崩壊したのは秘密警察がなかったからだ。レーニンはこのように冷厳と認識していました。権力維持のために秘密警察は絶対必要だ。このことをレーニンは至上命令としていました。「善なる権力」の維持には秘密警察は必要だとレーニンは認識した。「善なる権力」を維持するためにと、百歩譲って私は思いたい。レーニンの場合、「個人的な権力志向」とは別のところに動機があったのでしょう。ここがスターリンとは違うと思いたい。レーニンは、自分が頭脳となって獲得した権力を「善なる」ものだと確信していた。一党独裁とチェーカーは、そのような「善なる」権力を維持する上で不可欠であった。その「善なる」権力は、計画経済を推進するための権力でもあった。計画経済を推進するためには政権が安定していなければならなかった。タガをゆるめればブルジョア勢力が復活し、計画経済など展望しようがなくなるからです。しかし初期の計画経済はネップにその座を譲らざるを得なかった。この時期、チェーカーの役割は低下していたようです。令状なく「敵を抹殺」することはチェーカーとて許されない情勢になった。しかしこの時期においてさえ、レーニンはチェーカーの権限を制限 することに反対しています(今回は文献からの引用は省略します)。

 レーニンのこうした権力維持への執着は、「計画経済を推進する必要上、生じたものである」とは必ずしもイコールではない。これはおっしゃるとおりかもしれません。計画経済が一党独裁とチェーカーの原因である。こうした因果論はたしかに乱暴かもしれません。あくまで「ロシアの歴史的な事実はそうであった」。このような限定をつけなければならないのはそのとおりでしょう。ではこの限定とは何か? 私は、「社会の中に計画経済が萌芽としてすら存在していない時期に計画経済をいきなり推進するには、レーニンがやったようにならざるを得なかった」と思います。要するにロシア革命における敵の出方論です。社会の中に萌芽としてすら存在していない計画経済をやろうというのです。力づくになるのは当然のことではないでしょうか? ほったらかしにすればブルジョア勢力が盛り返す。レーニンはこれを怖れました。ブルジョアどころではない、農民は計画経済など展望すらしていなかったのです。ボリシェビキの存在すら知らなかった。憲法制定議会の選挙でボリシェビキは、特に農民票からみて惨敗だった。そんな情勢においていきなり計画経済をやったわけです。一党独裁と秘密警察のもと、力任せにゴリゴリやるほか手のないことは、レーニンでなくたって自明のことだったでしょう。
 東欧諸国ではソ連のような悲惨な現実はなかったとおっしゃいますが、それではまるで秘密警察によって生活を監視されるのは仕方ないことだったと言われているように聞こえます。ソ連のような悲惨な現実のなかった東欧諸国がなぜ一度に崩壊したか。ソ連型の終焉だった。一言で言えばこうなるでしょう。ソ連型とはレーニンに始まる「力による計画経済」です。理想的な計画経済がもしあるのだとすれば、これほど迷惑な話はありません。20世紀は計画経済にとって反面教師を提示した実験の世紀だったと言えるでしょう。計画経済を将来において展望する者は、二度とレーニンの真似をしてはならない。これを歴史の教訓として明確に汲み取るべきでしょう。

キューバはたしかに一党独裁ですが、スターリン時代のソ連に見られたような大量粛清などありませんでした。同じことは、ベトナムについても言えるし、ユーゴスラビアや多くの東欧諸国についても言えます。浩二氏の必然性論は明らかに破綻しているようです。

 「計画経済が粛清政治を生み出す原因だ」と一般論的に言った場合は破綻しています。これは認めます。私はこれまで、このような一般論的な言い方をしてきたのかもしれません。それは訂正したいと思います。正確に言いましょう。「計画経済の計画を共産党が担う場合は破綻する。共産党の一党独裁を背景として計画される計画経済は破綻する」。これなら一般論として成立すると思います。

しかし問題は、なぜその民族主義、大国主義が、諸悪の根源である「生産手段の社会的所有」と「計画経済」がなくなったとたんに、以前よりもはるかに凶悪で残酷な形で燃え上がったのか、なぜネオ・ファシスト組織までもが、雨後のたけのこのように繁殖したのか、です。

 民族問題は体制の問題とは別個の論理を持っています。歴史上の残酷な戦争が資本主義を背景にしたものであるとまでは、まさか吉野傍さんもおっしゃることはできないでしょう。

これこそ、1921年にボリシェヴィキがやったこと

 まさか、ネップはボリシェビキの当初からの予定だった、既定路線だったなどと言うおつもりはないでしょうね? クロンシュタットの反乱を直接のきっかけとしてネップに移行「せざるを得なかった」のです。それが現実だったと思います。

これらの資本主義国と比べて、ソ連型社会主義がなお悪かったと言わなければなりません。

 一党独裁と秘密警察のもとでの政治は絶対の悪です。

スペインとポルトガル…イギリス…ヨーロッパ人およびアメリカ合衆国

 あのですねぇ(^^;、これを言い始めたらロシアの場合だって、ロマノフ王朝が何をやったか?を問題としなければならなくなります。ここであげておられる例はたしかに「先進資本主義国」のことなんだけど、近代資本主義の問題とは直接関係ありません。今仮に日本がまっとうな社会主義国だったとして、では「信長はあんなに残酷だったではないか? 秀吉は朝鮮を侵略したではないか?」という批判がなされたとしたらどう思われますか?

これらの現実を前にして、なお、ソ連型社会主義が資本主義よりも「いっそう悪かった」となぜ断言できるのか説明してください。

 一党独裁と秘密警察のもとでの政治は絶対の悪。これに尽きます。吉野傍さんにあっては、一党独裁と秘密警察について、まずは直接評価された上で、ソ連型社会主義はこういういい面があったというのを提示してください。
 ロシア革命は、マルクス主義という、歴史の発展法則を説いた理論を支柱とした革命でした。単なる体制変更のための革命ではありません。ベールに包まれているうちは「良心的な」考えの持ち主のだれもが憧れた革命です。それは、社会主義こそ資本主義の悪弊を断ち切るものだと、そういう理念を現実のものとした革命であると受け止められていたからです。しかし事実は一党独裁と秘密警察のもとでの政治だった。言い訳は利きません。理念と現実との乖離がこれほど著しい革命はないはずです。崩壊したのは自然の理です。

具体的なことを言っていなかったから、現実に生じた無数の具体的な悪はすべてマルクスのせいである、というのはちょっと信じられない論理ですね。

 具体的な青写真を描けないのであれば、社会主義=計画経済ということも言わなければよかったのです。何より、「ブルジョアジーの打倒」が最悪です。いったい、ひとつの階級を打倒することを目標に掲げた革命が歴史上、ロシア革命以前にあったのでしょうか? もしあるというなら具体例をあげてみてください。威勢良く煽るのはけっこうですが、階級抹殺ではどうしようもありません。マルクスはブルジョアジーを口汚なくののしることで自分の品位を下げていると感じた人が当時いるそうですが、憎悪からは何も生まれないのではないでしょうか?

計画委員会のような公的な中央機関…地方の計画委員会

 だれが何をほしがっているのか、こうした公的機関が逐一把握するわけですか? 把握した上で討議にかけ生産が決まる、と? 「複数政党制、言論・出版の自由、十分な党内民主主義、労働者の自主的・主体的関与、各種の中間団体の自主性と積極性、という諸条件」がもし万全に整備されていたとしても、ノーメンクラツーラのような新たな支配階級の誕生は不可避でしょう。

そして、人類は今後、過去の失敗から教訓を学び、新しいより人間的で民主主義的な社会主義をめざすでしょう。

 これは同意します。

 吉野傍さんの計画主体のお話に対しては「?マーク」がつくのですが、計画経済それ自体がレーニンに起源を持つような悪の政治を必ずしも生み出すとはかぎらない、ということには私も同意します。レーニンの誤りは、萌芽としてすら存在してもいなかった計画経済を力によって実現しようとしたからであると思います。レーニンの誤りは徹底的に追及されなければなりません。ソ連型の源泉はレーニンだからです。そして、今後計画経済を展望するなら、レーニンのやったようにやってはならないということを共通の認識として持たねばならないと思います。今後の計画経済がレーニンと同じ轍を踏むなら、歴史に何も学んでいないことになります。JCP掲示板での議論とあわせ、私は人間の顔をした計画経済もありうるという考えになりつつあります。吉野傍さんの提示される計画経済も、どうか人間の顔を持っている内容であることを期待したいと思います。