レスを怠っているうちに、浩二さんと川上さんの間で激しいバトルが繰り広げられています。基本的に、川上さんの意見は私の意見と非常に近いのですが、やはり自分なりの回答をしておく必要があると思うので、順を追ってレスをつけていきます。まず、1月12日付の浩二さんの投稿に対するレスです。
まず浩二さんは、「計画経済を実現するためには一党独裁と言論弾圧が必要である」という表題のもと、なぜレーニン時代にチェカがつくられたのか、なぜ憲法制定議会が解散させられたのか、なぜ一党独裁が実現したのか、説明せよと述べています。また、これらのことがレーニンと関係がないと言えるのか、と言っています。
非常に明白なことですが、これらの事実はすべてレーニン指導下のソヴィエトのもとで実行されたものであり、レーニンをはじめ、すべてのボリシェヴィキ幹部はこれらの政策に対して共同の責任を負っています。彼らはそのことを隠したことはないし、ごまかしたこともありません。問題は、これらの政策がはたして「計画経済を実現」する必要性から導かれたものなのかどうかです。浩二さんは、これらの政策はすべて計画経済実現の必要性から生じていると考え、私は、当時における過酷な状況にもとづいており、計画経済とは本質的に何の関係もないと考えます。
まず、チェカですが、川上さんの投稿にあるように、チェカの創設は、1917年末にさかのぼります。重要なのは、この時点では、計画経済などまったく問題になっていなかったということです。当時、レーニンをはじめとするボリシェヴィキ指導部は、生産手段の社会的所有化を少しづつ段階を追ってやっていくつもりでした。というのは、当時の労働者階級はまだ経営になれておらず、工場管理の能力も十分ではなかったからです。レーニンは、早急な労働者管理を要求する左派に反対して、労働者統制を掲げました。つまり、経営は従来通り、資本家ないし旧管理者がやるが、その過程を労働者が工場委員会や労働組合を通じて監視および介入し、労働者の利益に添う形で実行させるということです。
しかし、このような段階的で漸次的な展望は、翌年の内戦の勃発と資本家のサボタージュによって覆されました。ボリシェヴィキ指導部は、彼ら自身の予想よりもずっと早く、主要な生産手段をことごとく国有化させることを余儀なくされました。これは1918年に入ってからのことです。したがって、チェカは、計画経済の必要性からではなく、革命直後の極度な混乱(どさくさにまぎれて、商店を襲ったり、略奪したりする暴徒が大量に発生し、とりわけ、酒蔵が襲われ、アルコール騒動が起こった)を終息させ、極寒の冬の中で飢えている労働者に早急に穀物を保証するため、そして、武装した反革命集団と闘うために、急きょ、結成されたのです。
革命防衛のための特別の機関が結成されるのは、社会主義革命の特徴でもなんでもなく、革命一般の特徴です。典型的な例はフランス革命であり、公安委員会が恐怖政治をやったことはよく知られています。というよりも、レーニンらは、フランス革命にみならったと言ってもいいでしょう。最初のプロレタリア革命であるパリ・コミューンにおいては、そのような手段はとられませんでした。フランス大革命にならって成立したチェカは、内戦の激化とボリシェヴィキ幹部暗殺事件の中で、広大な自立性を持つようになり、その極度に残忍な行動によって革命の権威を著しく傷つけることになります。
ボリシェヴィキ革命の特殊に残酷で過酷な要素は、実は、そのほとんどが、社会主義や計画経済と結びついているのではなく、反対に、彼らが手本としたブルジョア民主主義革命と結びついているのです。実際、レーニン自身、ボリシェヴィキについて「階級意識あるプロレタリアートと結びついたジャコバン派」と表現していました。「ジャコバン派のようにふるまうこと」、これこそ、レーニンのあの特有の「野蛮さ」を生み出した心理的背景です。
しかも、加えて重要なのは、当時のロシア革命が純粋な社会主義革命ではなく、むしろその歴史的使命の半分以上が実際にはブルジョア民主主義革命の歴史的任務を果たすことだったことです。当時のロシアは、ヨーロッパ世界の中で最も遅れた国であり、字が読めるのが人口の1割程度、ウラル山脈以西のヨーロッパ・ロシア部を除けば、1000年来の半封建的・農奴制的生産関係が支配している国でした。専制的帝政権力と腐敗した貴族・官僚・地主・将軍勢力があらゆる特権と専横を独占している国でした。そこでの革命の課題の大部分は、18世紀にフランス革命が実現しようとしたのと同種の課題でした。1917年2月革命は、帝政を覆しましたが、旧権力の勢力はほとんど無傷であり、民主主義革命の基本課題である「農民への土地の分配」、「民族自決権の保障」、「憲法制定議会の召集」を実現することができず、また平和も実現することができませんでした。ブルジョア勢力は、ブルジョア民主主義革命の課題をやり遂げるよりも、国内における地主・貴族・将軍勢力および国外における帝国主義ブルジョアジーと結託して、帝国主義戦争を続行することを選んだのです。
したがって、ロシア十月革命は、最も強力な封建的・農奴制的勢力とその生産関係が支配する国において、ブルジョア民主主義革命を最も徹底してやり遂げることと、ブルジョア的生産関係を覆して社会主義への一歩を踏み出すことという、歴史的に段階を異にする二重の役割を担ったのです。したがって、その革命におけるさまざまな「過酷さ」「冷酷さ」「強権性」は、社会主義革命の特殊性から生じているというよりも、むしろ、フランス革命とも共通するラディカルなブルジョア民主主義革命の特殊性から生じているのです。
以上のことは、ボリシェヴィキ政権に最も中心的に対立した勢力が何であったかを見れば明らかです。それは、ロシアのブルジョアジーでも、ブルジョア民主主義派でもなく、帝政派将軍および外国の帝国主義ブルジョアジーでした。白軍は、それが支配した地域では、ブルジョア議会主義の体制をつくるのではなく、最も反動的な軍事独裁体制をつくり、ボリシェヴィキが分配した土地を農民から奪い取って、かつての地主に返還させました。白軍が支配する地域では、ボリシェヴィキに協力した者は、全員、容赦なく銃殺されました。またユダヤ人も大量に虐殺されました。この時期に虐殺されたユダヤ人の数は、後にナチスが記録を塗り替えるまで、歴史上最悪のものだったと言われています。
後に、スターリン派の歴史学者たちは、2月革命をブルジョア民主主義革命、10月革命を社会主義革命と分類する図式を成立させ普及させましたが、それは、歴史を著しく単純化するものであり、歴史の生きたダイナミズムを完全に損なうことでもあります。
以上のような複雑な関係は、浩二さんが上げている他の問題についても言えます。典型的には「憲法制定議会」です。このブルジョア議会の短い運命は、ブルジョア民主主義革命であると同時に社会主義革命でもあるという10月革命の矛盾した性格を顕著に示しています。10月革命以前のブルジョア民主主義政府は、憲法制定議会を召集しようとせず、それを絶えず先に延ばしました。ロシアのブルジョア民主主義派には、憲法制定議会を召集する勇気も意志もなかったのです。このスローガンを取り上げ、それを実際に実現したのが、10月革命であり、ボリシェヴィキ政権でした。ここに、「ブルジョア民主主義革命」の完遂者としての10月革命の性格が現われています。
しかし、選挙の結果は、ご存知のように、都市部では、圧倒的にボリシェヴィキが優位でしたが、農村部では、プチブル農民政党であるエスエルが多数を取りました。ロシアの人口構成は、圧倒的に農村優位ですので、全体として多数を取ったのはエスエルでした。ここには、人口構成的には少数派であるが、ブルジョアジーに代わってブルジョア民主主義革命を遂行する歴史的使命を担わざるをえなかったロシア・プロレタリアートの悲劇が集中的にあらわれています。
このとき、もしエスエルがそのまま政権を担当したらどうなったか、これは歴史的推測の問題になります。しかし、それ以前にすでに、エスエルは政権担当者として、まったくの無能を示していました。彼らは帝国主義戦争をやめることもできず、また自分たちの綱領であるはずの土地分配もできず、また、ボリシェヴィキごとブルジョア民主主義を血の海に沈めようとする帝政派将軍の反革命的運動と対決することもできませんでした。1917年8月にコルニーロフ将軍がクーデターを起こしたとき、エスエルとメンシェヴィキの政府は、自分たちでは何ともできず、ソヴィエトとボリシェヴィキに助けを求めました。したがって、エスエルが再び政権を担当すれば、革命を帝政派将軍の軍事独裁に売り渡す結果になったことでしょう。
憲法制定議会選挙で革命派が少数であることが明らかになったとき、ボリシェヴィキも、連立政権のもう一方の担い手である左翼エスエルも、もう一度、1917年8月の回り道をとることを欲しませんでした。なぜなら、そのときすでにもっと本格的な内戦の可能性が生じていたからです。ボリシェヴィキと左翼エスエルは憲法制定議会を解散させることを決定しました。彼らはここでも、「ジャコバン派」流に行動することを選択したのです。ジャコバン派もまた、共和制を掲げながら、その実現にあたっては、ジャコバン派の独裁を選択しました。
しかし、フランス革命と違って、憲法制定議会を解散したからといって、民主主義的代議機関がなくなったということではありません。ブルジョア民主主義革命であるとともに社会主義革命でもある10月革命は、単なるブルジョア民主主義革命であるフランス革命と違って、「ソヴィエト」という、労働者と兵士の代議機関を持っていました。革命の指導者たちは、この新しい代議機関にもとづいて、政権を運営することにしました。このソヴィエトでは複数の政党が存在していたし、生き生きとした討論と活動を繰り広げていました。
その後、本格的な内戦が勃発し、また最も豊かで強力な帝国主義諸国が次々と軍隊をロシアに送って、革命を粉砕しようとしました。日本もこのとき、シベリアに出兵し、大量のロシア人を虐殺したことは有名です。歴史上、これほど多くの国から同時に攻撃され、また内部の最も強力な反革命勢力に脅かされた革命はありません。その規模からすれば、フランス革命が直面した危機の何十倍も深刻な危機が、ロシア革命を襲ったのです。レーニンら指導部は、革命の当初は非常に人道的に行動し、フランス革命のように反対派をギロチンに送るようなことはしないとさえ明言していましたし、実際に、反革命武装勢力を逮捕したときも、2度と武装攻撃しないという約束がなされたときには、そのまま釈放するというお人好しぶりを発揮したぐらいです。
しかし、本格的な内戦が勃発し、諸外国がいっせいに干渉し、エスエル左派による反乱、エスエル右派によるボリシェヴィキ幹部に対する暗殺行動が激化すると、ボリシェヴィキ政権は、革命当初のような穏健さをなくし、目には目を、の精神で行動し始めました。「ジャコバン派」の手本が全面的に採用され、赤色テロルが行使され、チェカもますます残酷になっていきました。白軍は最初から、いかなる容赦もなく、占領した地域で手当たりしだいに大量虐殺しました。多くのボリシェヴィキや赤軍兵士が拷問のすえ殺され、生きたまま焼き殺されました。そのようなニュースが届くたびごとに、赤軍もまた、白軍に対して容赦ない態度をとり始め、反革命分子に対する処遇は、ますます苛烈さをきわめました。その中では、多くの行きすぎ、無用な流血、醜悪な犯罪すら犯されました。このことを人道主義的立場から非難することは簡単です。私もまた、ボリシェヴィキ政権側ないし赤軍側がとった個々の措置の中には、絶対に擁護できないものが多数含まれていると思っています。
しかし、ここで重要なのは、無数の残虐さを伴ったこの激しい内戦と干渉戦争において、結局、勝利したのが、生産力の面でも技術の面でも圧倒的に不利であったボリシェヴィキ政権の側だったということです。もし、ボリシェヴィキ政権が、浩二さんの言うような、単に残酷なだけの政権だったとしたら、単に秘密警察によって権力を維持していただけの政権だったとしたら、どうして、この内戦でボリシェヴィキの側が勝利したのでしょう。秘密警察と一党独裁だけで権力を維持していたポルポトは、ベトナム軍の軽い一撃を受けただけで瓦解し、あっというまに崩壊しました。なぜボリシェヴィキは、主要なすべての帝国主義国の軍事干渉と帝政派将軍による四方八方からの攻撃にさらされながら、内戦に勝利しえたのでしょう? これこそ、レーニンのあれこれの残酷な指令や、あれこれの残酷な措置や、あれこれの残酷なエピソードによっては、けっして葬り去ることのできない根本的な事実です。
もちろん、レーニンがとったやり方と違うやり方で、内戦と干渉戦争に勝利することができたはずだ、と言うことも可能でしょう。総体的にはロシア革命とボリシェヴィキを擁護する人々の中にも、チェカの創設はレーニンとボリシェヴィキが犯した最大の誤りの一つであると考えている人が大勢います。私もその一人です。しかし、そのことは、結局、この10月革命とボリシェヴィキ政権の根本的な歴史的意味を変えるものではありません。ロベスピエールがより残酷であったか、あるいはより残酷でなかったとしても、そのことがフランス革命とジャコバン政権の歴史的意味を変えないのと同じです。たとえロベスピエールの秘密書簡の中に、何か新しい残酷な指令が含まれていたとしても、だからといって、フランス革命が反動的で無意味な革命になりはしませんし、ジャコバン政権の果たした革命的役割が相殺されるわけでもありません。
次に一党独裁ですが、これも歴史の経過をきちんと見るならば、計画経済の実施とは関係のないことがわかります。というのは、内戦の激化の中でボリシェヴィキ政権はいわゆる「戦時共産主義」という極端な国家集中経済をとらざるをえなくなりますが、この時期にはメンシェヴィキもエスエルもソヴィエトの中で合法的存在を保っていたからです。いわゆる一党独裁が成立するのは、市場経済をともなったネップに移行してからです。
第1次大戦、長期にわたる内戦とその後の飢饉、農民の反乱、クロンシュタットの反乱、など、そのときのロシアは、まさに満身創痍状態であり、かつ、絶えず新たな干渉戦争や新たな内戦の危険性におびえながら復興事業をやらなければなりませんでした。こうした包囲状態のもとで、ボリシェヴィキ政権の指導者たちは、一党独裁という道を選択したのです。この選択はその後の歴史に照らして検証するならば、明らかに誤った選択であり、ソヴィエト民主主義を破壊する行為でした。この点でレーニンを含むすべてのボリシェヴィキ指導者の責任は免れません。
しかしながら、この選択は、内戦の帰結として導かれたものであって、計画経済を実施する必要性から必然的に生じたものではありません。このことは、他のブルジョア民主主義革命の帰結と比較しても明らかです。ピューリタン革命はクロムウエルの独裁になり、フランス革命はジャコバン派の独裁になり、後にはナポレオンの独裁になりました。反革命勢力に包囲された状態のもとでラディカルな革命を遂行しようとする意志は、めざす経済の形態にかかわらず、しばしば権力の独裁的形態を生みます。
この点で、レーニンらボリシェヴィキ指導者の誤りは、社会主義の理念よりも、革命的近代主義の手法(チェカや一党独裁)にあまりにも依拠しすぎた点にあると言えるでしょう。
以上が、まずは、レーニンとボリシェヴィキ政権についての浩二さんの問いかけに対する回答です。1月12日付投稿には、さらにまだ多くの議論が出されていますので、続きは別の投稿で行ないます。