1月19日川上慎一さんの「浩二さんの投稿について 」にレスします。
そういう時代には、戦争の論理、内戦の論理が支配するということであり、政治にかかわるものであれば、だれであろうとその論理の外に身を置くことができない、このことを大前提として確認したかったからです。
まず確認します。「戦争の論理、内戦の論理が支配する」とはどういうことでしょうか? 私の考えは、「戦争がいかなる理由で起こったにせよ、戦争状態であるかぎりは、国際法で軍隊の一員と認められる人間は国際法にしたがって行動する」ということです。非戦闘員を殺害しない、捕虜は国際法にしたがって扱う、などのこと
がこれにあたります。
川上慎一さん、チェーカーは軍隊なのですか? 国際法でいうところの戦争に参加する軍隊にあたるのですか? チェーカーは赤軍とどう違うのですか? これにお答えください。秘密警察の役割と、戦争に参加している軍隊の役割とを混同する議論はやめてもらえませんか?
浩二さんは、反革命や帝国主義国の側から行われた行為にはまったくふれず、もちろん非難もしていません。そういう行為はなかったのですか。こういう討論の進め方は浩二さんにほぼ一貫してみられる傾向で、それはその説得力を著しく損なうものです。
再度お聞きします。チェーカーはいったい軍隊なんですか? 秘密警察ですよ。混同してもらっては困ります。「反革命」とは何をさしておられますか? 川上慎一さんの論理でいくと、将来日本共産党が政権を取り社会主義を実現しようとした場合、それに対して言論的な手段を含め、抵抗する人間は「反革命」と規定され、秘密警察による抹殺の対象になってもいい、という理屈につながるのです。
「反革命や帝国主義国の側から行われた行為」を言うことによって、レーニンの創設した秘密警察を弁護する議論は、スターリンの行為をも弁護する議論になります。そうでなければ理屈が合いません。
あなたは食料調達に応じなかった農民をチェーカーが虐殺したことには一切触れようともしない。どうしてですか?
だから、浩二さんが私に対して反論するとすれば、戦争、内戦の時代にあっても、レーニンは「反革命・サボタージュおよび投機行為取締全ロシア非常委員会」のようなものを使って、暴力をもって対抗すべきではなかった、というべきです。そういう立論の仕方ならばそれなりの論理は通じます。
レーニンがチェーカーなる秘密警察を作ったのは間違いだと断言します。戦争、内戦の時代にあっても、物理的なテロ以外の手段でレーニンの政府に従わない人間を秘密警察で処分したことは完全な間違いです。物理的なテロに対しては物理的に応ずることも必要です。しかし、「自分の気に入らない政府」に対して、物理的なテロ以外の手段で抵抗する人間に対してはテロを用いてはならない。こんなことは、今後の日本の進路を考える上でイロハであるはずです。
一般にマルクス主義はテロルや陰謀を否定します。これが一般的な理解であり、テロルや陰謀で革命を進めるという立場でもありません。しかし、内戦という特殊な状況で、ボリシェビキの指導者だけではなく、ソビエトの活動家、赤軍兵士がテロルの対象となって実際に殺され、襲われているときに、浩二さんはどうしろというのでしょうか。テロルを甘受し、殺されて当然だ、といいますか。
相手側の物理的なテロに対しては物理的に応ずる必要もあります。しかしチェーカーなる秘密警察は、それをはるかに逸脱した行為をしました。私はこれを言っています。
20世紀初頭のロシアがおかれた状況の中で、ロシアの労働者、民衆が革命に立ち上がり、プロレタリア権力を確立しました。
これは事実ですか? ここをも疑ってかかならければならないはずです。しかし川上慎一さんにあっては、レーニンの獲得した権力は労働者のための権力であったと、アプリオリに(!)おっしゃられる。川上慎一さんは何を根拠に、レーニンが「プロレタリア権力を確立した」と考えておられるのでしょう? こんなこと、私はすんなり認めるわけにはいきません。
ロシア革命後に実施された憲法制定議会選挙において、ボリシェビキは第二党に甘んじました。それゆえレーニンは、暴力によって憲法制定議会を解散させました。憲法制定議会にかわる議会も、レーニンは作ろうとはしませんでした。一党独裁はレーニンが、その基礎を固めました。これについてはどうお考えでしょうか? レーニンの打ち立てた権力が労働者階級のものであるなら、数年に一度、自由選挙によって信任を得る必要があります。しかしレーニンは、本来の意味での自由選挙など、やろうとはしませんでした。
レーニンの革命が「プロレタリア権力を確立した」ことを、ぜひとも論証していただきたい。できるんですか?
特に秘密警察を研究しようとは思っていません。
ソ連の歴史を考察する上で秘密警察を除外することができません。秘密警察こそ「特に」研究することが必要だと思います。川上慎一さんはなぜ、歴史を重視すると言いながら秘密警察を重視されないのでしょう? 「社会主義は自由にものが言えない社会だ」というのは、現存した社会主義国においては事実でした。なぜそうだったのか? を問う上において、秘密警察は考察の絶対的な要素としなければならないはずのものです。
私は「しんぶん赤旗」=不破指導部の行き先をこそ危惧しています。
どのように危惧されているのでしょう? 私は、川上慎一さんとはおそらく逆の意味で危惧しています。中途半端な批判に終わるのではないかということです。今後、レーニンを考察する上で、不破委員長がチェーカーを正面から取り上げるのだろうかと、私は危惧しています。ひょっとしたら触れないのではないか?、という意味で。
本来の社会主義を言うなら、失敗した社会主義を徹底的に批判することが必要です。そうでなければ何一つ教訓を汲み出すことはできません。マルクスがこう言った、レーニンがああ言った、などというのを、いつまでも後生大事に祭り上げていてはどうしようもありません。