この投稿では、戦時共産主義について考えてみようと思います。
革命直後には、ソビエト権力は土地の国有化を布告し、農民に土地(土地の所有形態については共同体的利用などがあり複雑ですから省略)を分け与えました。「国家や地主ではなく、農民が、どれだけ生産するかを、またその産出のどれだけを売るかを、基本的に決定した。したがって、農業総産出と市場販売分は初めて農民に依存する」(『ソ連経済第3版』ポール・R・グレゴリー、ロバート・C・スチュアート著、教育社刊)こととなりました。このような状態は、基本的には1920年代を通じて続き、ネップが終わるまでこのような状態が続きました。革命直後には、工業・都市において計画経済などはまったく問題とはなっていなかったのと同様に農業、農村においても社会主義化、集団化が考えられていたわけではありません。むしろ、エスエル左派との政治的同盟の結果であったにせよ、「農民に土地を与える」ことになったという事実は、それと逆の方向へ進むものであり、プロレタリアートと農民の階級的同盟の産物としてもたらされたといえるでしょう。ただ、革命直後のとられた措置は極めて不徹底なもので、旧地主、富農などの旧社会における農村有力者は多くがほとんどそのまま温存されてしまいました。いずれにしても、工業においても農業においてもボリシェビキの路線は全体として段階的で漸進的な展望をもっていました。
レーニンは、1918年4月に「祖国の反革命派と全戦線にわたる広範な闘争を行うにあたって、われわれは、国際ブルジョアジーがぐずぐずしているすきに乗じて、今では壊滅した反革命の胴体に、機を失せず強打をくわえた。内戦は大体において終わった、と確信をもって言うことができる。(「モスクワ労働者・農民・赤軍代表ソビエトでの演説」『全集』第27巻P236)という見通しを立てていました。しかし、実際はそれから2か月とたたないうちにチェコスロバキア軍団の反乱を皮切りに本格的な内戦、国際帝国主義の干渉との戦いが始まります。レーニンが大体において終わったと考えた内戦の何倍も困難な内戦、干渉戦争がこのあと足かけ4年にわたって続くことになります。
「戦時共産主義はロシアの内戦がボリシェビキ指導者に強制したもの」というのが一般的な見解のようです。多くの工業製品、農業資源が内戦へと向けられます。安定した国家収入もなく外国からの援助もない状態で、紙幣の増発に頼らざるを得ない経済は、販売に向けられる消費財の減少がこれにいっそう拍車をかけ、超インフレを引き起こします。程度の差はあってもこのようなインフレ圧力は20年代を通じて常に存在していました。こうして、市場交換経済が破壊寸前になり、政府のさまざまな努力にもかかわらず、市場を通じて内戦に必要な物資、都市住民のための食糧を供給することが極めて困難になりました。こうして、「余剰穀物割当徴発制」が採用されて、チェーカーや党活動家も農村に派遣され、余剰穀物を所有する富農、中農などかなり広い範囲から穀物徴発が行われます。農村では穀物を隠匿したりして抵抗し、暴動が頻繁に発生するようになります。(『ソ連経済第3版』53~54頁参照)
前掲の『ソ連経済第3版』では、戦時共産主義を、第一に「穀物の強制的徴発」、第二に「工業の国有化」、第三に「私的商業の廃止」(実際には黙認された闇市場が存在し消費財の大きな部分を供給し続けた)と特徴づけています。たとえば、工業では社会主義化に不可欠とは考えらない、わずかな労働者しか雇用していない工場まで国有化したりしています。これらの中には、多くの工場経営者が白衛軍に参加したという事実から行われた、はなはだ政治的な理由があったように思います。この意味でも、戦時共産主義が内戦のもたらしたものといえるかもしれません。全体としてみれば、内戦期に採用された戦時共産主義は、経済的側面からいえば社会主義経済、計画経済といえるようなものではなく、およそ社会主義の理念とは限りなく疎遠なものでした。いちおう、計画主体として最高国民経済会議が設けられましたが、計画経済のまねごとのようなものに過ぎません。第二次世界大戦直後(戦争末期にも)、日本でも米などの食糧が配給制であったことを思えば、ここでいう戦時共産主義とは、戦時下における統制経済と類似性が高いでしょう。わずかに異なる点――社会主義的といえるかどうかは異論があるでしょうが――として、配給(賃金)が、危険な条件下で重労働をする労働者に厚く自由業や失業者に薄かったことのほかは、全体的に非常に平等であったこと、郵便、住宅、ガス、電気、公共交通機関が無料で利用できたことなどをあげることができるでしょう。
1921年には内戦が終わり、かろうじてソビエト政権が維持されることになります。戦時共産主義下において、土地を保有し小商品生産者となった農民は穀物徴発に対して頑強に抵抗しました。穀物を倉庫にしまい込んで徴発に応じない、市場価格が下落すれば供給を止め、余剰穀物は徴発されるので作付け面積を減らして家族の生活を維持する以上の穀物を生産しない――食糧不足(悲劇的なまでの欠乏)の中で食糧の生産を制限する――という状態が広がり、食糧問題の解決をいっそう困難にし、労働者との階級的な対立が深刻な様相を帯びてきます。適切な表現ではないかもしれませんが、小規模な生産手段を保有する農民(特に中農)はある意味で「小資本家」的な存在ではあるのでしょうが、打倒すべき対象として位置づけられるべきものでないことは、今日では私たち日本共産党員の間では常識的なことです。
1918年11月、レーニンは「農村では、われわれの任務は地主を絶滅し、搾取者と投機的な富農の反抗を打ちくだくことである。このためにわれわれがしっかりとたよることができるのは、ただ半プロレタリア、『貧農』だけである。だが、中農はわれわれの敵ではない。彼らは動揺していたし、いまも動揺しているし、こんごも動揺するであろう。動揺する人々に働きかけるという任務は、搾取者の打倒、積極的な敵にたいする勝利という任務とは同一ではない。中農との協定を達成すること――富農との闘争を一瞬たりとも放棄せず、貧農だけにしっかりと依拠しながら――、これが当面の任務である。」(「ピチリム・ソローキンの貴重な告白」『全集』第28巻197頁)と述べています。これが当時のボリシェビキの原則的な立場だったと思います。しかし、戦時共産主義のもとで、実際には、中農といってもまことに小規模な農民からも過酷な穀物の徴発をしたことがうかがわれます。したがって、かなり広範な農民の中にソビエト政権やボリシェビキに対する抵抗、反乱が多発し、農村における旧地主、富農のもとで無数の暴動が起きました。これらは多くの場合、白衛軍と結びついて赤軍やソビエトの活動家との間で激しい戦闘を各地でくり広げました。
『ソ連史概説』(上島武著・窓社刊)では、「そして農民はある程度これに耐えた。土地を分け与えてくれた政権が倒れれば、地主が復活すると考えたからである。しかし、それにも限界があった。内戦の末期には各地で農民の反乱が相次ぎ、政権の危機は外部より内部にあると思われるほどであった。」(63頁)と述べています。
からくも内戦、干渉戦争を耐えぬき、もちこたえたソビエト政権は内戦が終わり、戦時共産主義からネップへと経済政策を転換していきます。