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「科学的社会主義」討論欄

レーニン書簡に関するいくつかの誤解について

2000/1/28 吉野傍、30代

 1月17日付けの浩二さんの投稿で紹介されていたレーニンの書簡について、浩二さんの説明にはいくつか重要な誤解があると思います。また、訳文にも問題があると思われます。まず、浩二さんの文章の該当個所を以下にそのまま引用します。

「レーニンの1922年3月の秘密書簡には、次のように書かれているそうです。
『テロルは法律で排除すべきではない。それを誓約するのは自己欺瞞であり、ごまかしにすぎない。むしろ、回避したり粉飾したりすることなく、はっきりと理的に裏づけて法制化すべきである。テロル条項は、適用範囲をなるべく広くとれるように制定されなければならない。法の正義に関する革命意識と革命的自覚だけが運用面で適用の条件を決定づけるからである(『KGB』、フリーマントル著、新潮選書、1985年3月25日第21刷、p.26)』。  よろしいですか? レーニンは秘密警察が『法律を度外視して』テロを行なうよう進言しているのです。しかも、そのテロ行為をできるだけ障害なしに行なえるよう、奨励しているのです」。

 訳文にも浩二さんの説明にも多くの誤りがあります。まず、この手紙は、秘密書簡でも何でもなく、ちゃんと『レーニン全集』(第33巻)に収録されている文献です。全集には1924年に最初に発表されたとありますから、1924年以来、この書簡は知られているのです。
 第2に、この手紙は、別にチェーカーの長官に宛てたものではなく、司法人民委員であるクルスキーに宛てたものです(ちなみに、1922年3月ではなく、5月の手紙)。したがって、ここで言われている「テロル」は、秘密警察によるテロルではなく、裁判所が、裁判をした上で執行するテロルのことです。しかも、チェーカーは内戦中はたしかに裁判機能も持ち、それがチェーカーによる恐るべきテロルをもたらしたわけですが、ネップ導入後の1922年2月に、チェーカーはゲー・ペー・ウーに改組され、その際、チェーカーから裁判機能が分離され、チェーカーだけで逮捕・銃殺はできなくなりました。したがって、このレーニンの書簡は、チェーカーによるテロルの奨励を意味するものではありえないのです。  第3に、浩二さんは「『法律を度外視して』テロルを行なうよう進言している」と説明していますが、そんなことはこの書簡のどこにも書いていません。反対に、テロルの適用範囲および条件を「法律化」せよと言っています。「法律を度外視して」云々という誤解が生じたのは、おそらく、書簡の訳文にも問題があったからだと思われます。レーニンの書簡の正確な内容を以下に引用します。

「裁判所はテロルを排除してはならない。そういうことを約束するのは自分を欺くか、人を欺くものだろう。これを原則的に、はっきりと、偽りなしに、飾らずに基礎づけ、法律化しなければならない。できるだけ広範に定式化しなければならない。というのは、革命的な法意識と革命的良心だけが、それを実際に、また多少とも広範に適用する諸条件をつくりだすからである」。

 「法律でテロルを排除するべきではない」と言っているのではなく、「裁判所はテロルを排除するべきではない」とレーニンは言っています。この違いは重要です。つまり、この書簡は、あくまでも裁判所が法律にのっとってテロル(すなわち死刑)を適用するさいの基準について述べているのです。
 この基準としてレーニンは、「革命的な法意識と革命的な良心」とを挙げています。このような基準がきわめて曖昧であるだけでなく、きわめて危険なものであったのは、言うまでもありません。平和の時代に移行したかぎりでは、厳格な法規定、恣意性をできるだけ排除した制度的整備、被逮捕者や被告の権利の保護、裁判の公開性と民主的手続きの保障、そして死刑の廃止こそが必要でした。そのようなことをせず、ボリシェヴィキ活動家の革命的良心に引き続き依拠しようとしたことは、レーニンの致命的な誤りであったと言えるでしょう。
 しかし、レーニンが常にテロルを欲していたかのように言うのは誤りです。内戦がほぼ終結したかに見えた1920年2月には死刑の廃止が布告されています。しかし、これはその数ヶ月後にポーランドがソヴィエト・ロシアに攻め入り、多数のロシア人民・ウクライナ人民が殺され、新たな深刻な戦争が起こったことで、再び死刑は復活しました。ポーランドに勝利した後も、さらに全国各地で反乱が起こり、こうして、2度と死刑は廃止されませんでした。実は、10月革命後も死刑は廃止されていたのですが、これもチェコスロヴァキア軍団の反乱の勃発によって1918年5月に復活しています。