1月19日付、吉野傍さんの浩二さんへのレス(1)についてです。大変遅くなりましたが、残りについてもボチボチレスしていきたいと思います。
浩二さんは、これらの政策はすべて計画経済実現の必要性から生じていると考え、私は、当時における過酷な状況にもとづいており、計画経済とは本質的に何の関係もないと考えます。
どんな社会的状況で計画経済を実行するかの問題だと思います。その意味では当時レーニンがとった処置は「本来の計画経済」とは言えないでしょう。しかし、この一文の計画経済を「ソ連の計画経済」と特定した場合は、本質的におおいに関係があると思います。ロシア革命直後、理想的な計画経済が即座に実行されるはずがなかったのはそのとおりですが、だったら初めから市場社会主義、あるいは市場経済の改革が目指されていたかというと、そんなことは全然ありません。1918年3月の演説でレーニンは「社会主義がどういうものであるかわれわれは知らない」と述べています。しかし、知らないにもかかわらず、なぜ産業や銀行を国有化したのでしょう? 漠然とではあっても、市場経済=商品経済を否定し計画経済にもっていく展望があったからこそです。1919年、ボリシェビキの新綱領には「商業を計画だった生産物の分配へと転換することを不断に追求する」旨の要求が書き入れられましたが、ここにも計画経済を展望する姿勢が見られます。ネップ導入についても、これをボリシェビキに先立って要求したのはエス・エルやメンシェビキであり、ボリシェビキにおいてもトロツキーはネップ導入一年前にネップ的な政策を提案しています。これらを否定したのがレーニンのボリシェビキであり、レーニンは「こうした提案をする者は反革命だ」と罵倒さえしています。つまり、ロシア革命当初から計画経済は展望されていたということであり、現実の要請からネップはやむなく導入されたに過ぎないということです。
だからといって、レーニンが革命当初にとった路線が「本来の計画経済」だと言うつもりはまったくありません。むしろ、「本来の計画経済」とは全然異質の、強制による計画経済を目指したからこそ、あのような事態を招いたものと思います。
吉野傍さんは、まるでレーニンが最初から計画経済を展望していなかったかのように言われますが、それはなぜでしょう? 現実に本来の計画経済が出現していなかったからといって、展望されてもいなかったと、どうして言えるのでしょう? 産業や銀行を国有化したのは労働者管理のためですか? では、労働者管理によって市場経済を民主的に推進するのが目標だったとでも言うのでしょうか? もしそうであれば、なぜレーニンはプチブルの小規模所有を認めよというカリーニンの1918年1月の提言を断固拒否したのでしょう? 理由を教えてください。直接「計画経済のためだ」という理由ではないでしょう。しかし、商業をなくし、生産、分配を国家の計画に基づいて推進するという展望がないのだとしたら、このようなレーニンの対応は理解できないのではないでしょうか?
中身ははっきりわからないが、「商業をなくし、生産、分配を国家の計画に基づいて推進する」という展望があったればこそ、レーニンはネップ導入まで執拗に商業的な動きを封じ込めたのではありませんか? これがどうして「計画経済とは本質的に何の関係もない」のでしょうか? 計画経済と本質的に関係があったからこそのことではありませんか?
私はあなたの理屈がまったく理解できません。
「当時の過酷な状況も」、レーニンの、まさにこうした強引なやり方から来ているものです。これについて、ロイ・A・メドヴェージェフは『1917年のロシア革命』で次のように述べています。
・ソビエトの文献で長いこと、内戦と干渉こそが戦時共産主義や赤色テロルの政策を生んだとの説が定着していた。しかし実際はその逆だった。当時誰も戦時共産主義政策とは呼ばなかったボリシェビキの極めて厳格な経済政策こそ、テロルや内戦を引き起こしたのであり、食糧徴発やテロルの激化がその内戦を長引かせ、深刻化させたのである。実質的には内戦は、貧農委員会と食糧徴発隊による富農一掃からすでに始まっていたのである。
・1918年春の資本に対する「赤衛隊的攻撃」とソビエト・ロシアに強制的に共産主義体制を導入しようとした試みとは1917年の革命の成果を確実にするどころか反動の脅威にさらし、国に辛い試練を受け内戦の犠牲者を出す運命を負わせることになったのである。
十月革命は戦争終結と土地問題との解決だけにとどめ、産業や銀行の国有化はすべきではなかったと思います。ましてや零細商業まで廃止し、農民の商業活動まで打ち砕いてはなりませんでした。計画経済を展望として持つのはいいのです。しかしレーニンすら「社会主義がどういうものであるか知らない」と言っているくらいの段階で、なぜ商業を否定し過激な国有化を実施したのか。これなくして戦争終結はできなかった、土地問題も解決できなかったというなら仕方ありません。しかし果たしてそうでしょうか? 社会主義=計画経済を展望する勢力が政権についてこそ戦争を終わらせることができたというなら納得できますが、その勢力が、では実際に経済を根本から「性急に」変えることが許されたのかどうかは、別問題だと思います。それは歴史が答えを出していることだからです。
当時、レーニンをはじめとするボリシェヴィキ指導部は、生産手段の社会的所有化を少しづつ段階を追ってやっていくつもりでした。というのは、当時の労働者階級はまだ経営になれておらず、工場管理の能力も十分ではなかったからです。
まるで日本共産党がやろうとしている民主的改革をレーニンはやろうとしたんだ、みたいな言われ方ですがそうでしょうか? ボリシェビキは、商業の廃止と全商品の国家独占を当初から目標としました。ロシア中央銀行はロシア革命初日に国有化されています。一ヶ月後にはあらゆる民間の銀行が政府管理下におかれ資本が没収されています。これが「少しづつ段階を追って」なんでしょうか?
ボリシェヴィキ革命の特殊に残酷で過酷な要素は、実は、そのほとんどが、社会主義や計画経済と結びついているのではなく、反対に、彼らが手本としたブルジョア民主主義革命と結びついているのです。
混同もはなはだしいとはこのことです。なるほど、手法はブルジョア民主主義革命からとってきたのでしょう。しかしレーニンの目指したのはブルジョア民主主義革命なんかではありません。「特殊に残酷で過酷な要素」がブルジョア民主主義革命に起源を持つからといって、レーニンのやろうとした革命の中身までブルジョア民主主義革命に変質するはずがないではありませんか? ブルジョア民主主義革命にいったい、プロレタリア独裁なる概念が存在するとでも言うんでしょうか? ブルジョア民主主義革命の徹底というなら、なぜ自由選挙が行われなかったのでしょうか? なぜ一党独裁になったのでしょうか?
当時のロシア革命が純粋な社会主義革命ではなく、むしろその歴史的使命の半分以上が実際にはブルジョア民主主義革命の歴史的任務を果たすことだったことです。
初めて聞く説です。「純粋な社会主義革命」ですが、なぜ「純粋な」という形容詞がつくのでしょうか?。それとレーニンは、ロシア革命をブルジョア民主主義革命とどこで規定しているのでしょうか?
その革命におけるさまざまな「過酷さ」「冷酷さ」「強権性」は、社会主義革命の特殊性から生じているというよりも、むしろ、フランス革命とも共通するラディカルなブルジョア民主主義革命の特殊性から生じているのです。
レーニンがロシア革命をブルジョア民主主義革命と規定しているというなら、その言葉を引用してください。
以上のことは、ボリシェヴィキ政権に最も中心的に対立した勢力が何であったかを見れば明らかです。それは、ロシアのブルジョアジーでも、ブルジョア民主主義派でもなく、帝政派将軍および外国の帝国主義ブルジョアジーでした。
ならば、なぜ企業はサボタージュしたんですか? ブルジョアジーは「ボリシェヴィキ政権に最も中心的に対立した勢力が」ではないということでしょう? ならばなぜサボタージュしたんです?
なぜなら、そのときすでにもっと本格的な内戦の可能性が生じていたからです。
おかしな理屈ですね。内戦回避のために憲法制定議会を解散させた、ということですか? 散発的な武力衝突はたしかにこの時期から起こっています。しかしそれは内戦とまで言えるものではありませんでした。「エスエルが再び政権を担当すれば革命を帝政派将軍の軍事独裁に売り渡す結果になったことでしょう」というのは確定した事柄ではありません。現にケレンスキー内閣はコルニーロフの反乱を支持しなかったではありませんか? エス・エルが政権を担当すると軍事独裁への道を開くことのなったのですか? そう断言される理由は何ですか?
しかし、フランス革命と違って、憲法制定議会を解散したからといって、民主主義的代議機関がなくなったということではありません。ブルジョア民主主義革命であるとともに社会主義革命でもある10月革命は、単なるブルジョア民主主義革命であるフランス革命と違って、「ソヴィエト」という、労働者と兵士の代議機関を持っていました。革命の指導者たちは、この新しい代議機関にもとづいて、政権を運営することにしました。このソヴィエトでは複数の政党が存在していたし、生き生きとした討論と活動を繰り広げていました。
憲法制定議会の選挙後、自由選挙がソ連で一度も実施されなかった理由を聞かせてください。
なぜクロンシュタットの反乱が起こったのでしょうか? クロンシュタットの水兵は「政府は労働者の代表ではない」とその要求の最初の項目として掲げ、断言しています。吉野傍さんの言われるような状態が本当にそうであるというなら、クロンシュタットの反乱など起こり得なかったはずです。
なぜボリシェヴィキは、主要なすべての帝国主義国の軍事干渉と帝政派将軍による四方八方からの攻撃にさらされながら、内戦に勝利しえたのでしょう? これこそ、レーニンのあれこれの残酷な指令や、あれこれの残酷な措置や、あれこれの残酷なエピソードによっては、けっして葬り去ることのできない根本的な事実です。
私もなぜだろうと不思議に思います。ボリシェビキにあれだけ過酷に扱われた農民にしても農奴制に戻されることは絶対いやだった。ボリシェビキに対抗した側も決して結束した勢力ではなかった。革命後にボリシェビキが実施した政策は誤りだらけだったが、革命への流れを決定的につかんだのはボリシェビキをおいてほかになかった。その流れは決して作為的なものではないから、その流れに逆行することはできなかった。ボリシェビキは工業都市を基盤にしていた。いろいろな理由が考えられると思います。
この10月革命とボリシェヴィキ政権の根本的な歴史的意味を変えるものではありません。
どんな意味でしょうか? 私は十月革命が実現したこと自体には歴史的に重大な意味と意義があると思っています。けれど、レーニンのとった性急な方針は、その意味と意義を、大きく損なったと考えます。
しかしながら、この選択は、内戦の帰結として導かれたものであって、計画経済を実施する必要性から必然的に生じたものではありません。
内戦が一段落したあとにこそ、なぜ一党独裁が必要だったのでしょうか?
内戦は決して、「レーニンのとった路線に非はなかった。悪いのは敵だ」という理由で起こったものではないと思います。
レーニンの実行した悪を、何もかも内戦のせいにする議論は間違っていると思います。このような思考方法はすべてを敵のせいにする粛清思想です。