投稿する トップページ ヘルプ

「科学的社会主義」討論欄

ソ連社会主義を考える(7)…ネップの終焉

2000/2/1 川上慎一、50代

● ジグザグの道
 プレオブラジェンスキーとブハーリンを軸に展開された工業化論争は、当時のロシア社会が社会主義に進む道として模索されたものであり、おそらくは、これ以外の道はなかっただろうと思います。ただ私は、この2つの道は二者択一ではなく、この2つの道の間をジグザグしながら、試行錯誤をくり返しながら進んでいくことができただろうと思います。
 「鋏状価格差」問題にしても、決して簡単な問題ではありませんでしたが、大工業の回復、発展がなければ農業そのものの発展が期待できないところへ達していたのであれば、富農層やネップマンに負担をさせて大工業への資本投下を進めることが絶対的に不可能であったわけではありません。
 採用した政策はそれぞれの局面において、それなりの効果を生み出すでしょう。あるいは予想外の困難な事態を引き起こすかもしれません。このようなときには政策を変更すればすむことです。このためには自由な政策討論が不可欠でした。国家や党に内在した問題、政治システムの問題は、別な機会に考えてみたいと思いますが、ソ連における社会主義建設の道は、試行錯誤が避けられないものであり、直線的な道はなく、ジグザグしながらの道以外にはありえませんでした。

● 資本主義の復活がもたらしたもの
 ネップの終焉からスターリン体制確立までの過程は、一面では政治闘争の過程として、他面ではネップのもたらした経済情勢の帰結として考察されなければならない、と私は思います。スターリン体制が、単に秘密警察を武器としたスターリンによる権力闘争の結果、確立したなどと考えることは、歴史の事実とは異なるし、その生成を合理的に説明することもできません。そして、それはまた「スターリン体制によってその原型が確立されたソ連社会主義」の崩壊を説明することもできません。
 ネップは「資本主義の復活」であり、「市場経済の復活」という側面をもっていました。少し具体的にみてみます。
 ネップ導入後にも、しばしば、農民の「穀物売り惜しみ」という現象がありました。これは、市場価格(ときには政府の公定価格)が低いときには出荷を制限し、価格が上昇したときに出荷するというものです。一種の投機的行為です。これに対して、政府はその都度、価格を上げたり、ひどい投機行為に対しては取り締まるなどの対応をしてきました。このような「売り惜しみ」、投機行為が可能であったのは、ある程度の農業余剰を持つ農民ですから、富農が中心であったことは間違いないでしょう。ふたたび農村において階層分化が進行していきます。
 じゅうぶんな生産力のない工業製品は価格が上昇します。そこで政府は価格の上限を設定するなどの努力をします。鉄道などの輸送機関の回復が極めて緩慢であり、極めて不十分であったことなどから、農民が工業製品を買うことは大変困難なことでした。ここで、ネップマンと呼ばれる自営商工業者(ときとして投機業者)が登場し、買い占めて30%~60%増しの価格で農民に売りつけたといいます。ネップマンの商売は一種の闇市場――必要悪という側面も持っていました。政府は彼らに課税をするなどの対応をしましたが、悪質な買い占め、投機が続き、しだいに社会主義の敵という扱いを受けるようになります。投機は資本主義、市場経済に不可分に付随する本質的なものです。
 社会主義における最も主要なものは計画経済であり、市場経済が部分的、補足的に行われるのではないか、と私は今のところ思っています。それは計画経済と市場経済とが原理的に対等な形で両立しうるのかという疑問が私の脳裏から離れないからです。これらの点についてはもう少し自分の考えをまとめたいと思います。  いずれにしても、圧倒的な「商品飢饉」――より根源的には後進国革命すなわち計画経済の諸条件が圧倒的に不足していたということ――がこれらの諸問題の背景にあったことは認識しておかなければならないでしょう。
 さらに、大量の失業者が存在しました。『ソ連経済第3版』では、農村の失業者は600万人~800万人、都市では100万以上と指摘しています。
 ここまで述べてきたことは、いずれも資本主義の宿弊ともいうべきものでした。ネップはソ連経済の一定の復活をもたらしましたが、一方ではこのような資本主義の宿弊を顕在化させるものでもありました。これが、労働者や貧農という革命の主要な担い手の中の「左翼」的傾向を増幅させることになったのではないかと私は考えています。ネップ期間中のスターリンの路線は必ずしも一貫したものではありませんでしたが、ここに至って、スターリンが示した急激な国有化、集団化を受け入れる一定の大衆的基盤が存在したのではないかと思います。スターリンの路線は、レーニンがしばしば警告を発した「左翼」的な傾向に迎合したものであったというべきかもしれません。
 ネップの終焉からスターリン体制に至るもう一つの重要な要因は、世界情勢からくる「戦争の危機感」でした。社会主義ソ連に対する国際帝国主義のさまざまな干渉、圧迫はまことに厳しいものでしたが、それにしても、スターリンを初めとして歴代のソ連指導者には、過剰とも思える反応が一貫してあります。それはそれとして、1927年のイギリスとの国交断絶、極東における日本との緊張、など迫りくる戦争の危機感が反映し、急激な大工業化という課題が浮上し、ネップの路線に対する不安感が増大しました。  こうしてネップは終わり、スターリン体制の確立へと進むことになります。