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「科学的社会主義」討論欄

続・浩二さんへのレス(1)

2000/2/3 吉野傍、30代

 われわれの論争もかなり量的に大部になってきており、新規投稿者を蹴散らす結果になってはいけないので、そろそろ終息させて行きたいと思っています。基本的に言いたいことは両者とも言ってきたし、対立点や平行線の部分も読者にかなり明らかになってきたと思いますので。
 しかし、せっかく、5つもまとめてレスをいただいたことだし、必要最小限の問題に関してレスをします。なお、ロイ・メドヴェージェフの著作を引用しての議論は、その本をまず入手してからでないと反論できないので、その点だけ、後日に別途、回答いたします。
 まず、浩二さんからのレス(1)ですが、まず浩二さんは「吉野傍さんは、まるでレーニンが最初から計画経済を展望していなかったかのように言われますが」とおっしゃっていますが、これはまったくの誤解でしょう。浩二さんは以前の投稿で、チェカの創設と憲法制定議会の解散と一党独裁が計画経済から必然的に出てきたという主張をされたので、それぞれの政策は計画経済とは関係がない、と私は答えたのです。どうも、浩二さんは人の書いたものを正確に読まずに、自分の思いこみで反論する傾向があるようです。レーニンもボリシェヴィキも社会主義をめざしていたのですから、当然、その一貫として計画経済もめざしていました。しかし、当初はもっと漸進的な形での社会主義化が展望されていたということです。10月革命直前のレーニンの多くの文献を読んでください。
 「レーニンはプチブルの小規模所有を認めよというカリーニンの1918年1月の提言を断固拒否したのでしょう」という質問については、それが具体的に何を指しているのかわからないので、カリーニンの提案を拒否したレーニンの発言ないし論文が『レーニン全集』の第何巻に載っている何という文献のことなのか教えてください。

「ロシア革命当初から計画経済は展望されていたということであり、現実の要請からネップはやむなく導入されたに過ぎないということです」。

 誰もそんなことは否定していません。問題は、1918年初頭から春にかけて行なわれた大規模な国有化も、「やむなく導入されたに過ぎない」ということです。ボリシェヴィキの指導者たち自身は、この「やむなく導入」された大規模国有化を本来の路線であるかのように言い、共産主義の未来が確実に近づいているかのような幻想を振りまきましたが、もちろんそれは誤りであり、ネップの導入によって、本来の路線に立ち戻ったのです。

「十月革命は戦争終結と土地問題との解決だけにとどめ、産業や銀行の国有化はすべきではなかったと思います」。

 企業主やブルジョアジーがいっせいにサボタージュし、生産を拒否し、海外に逃亡し、そのために生産がストップするような事態になったというのに、いったい、どうすればよかったとおっしゃるのでしょう?  革命というのは、ちょうどよい政策だけを実行できるような平坦な道ではないのです。ある一つの陣地を獲得するためには、2つないし3つの陣地を獲得しようとしなければならない、というリアリティを理解するべきでしょう。
 なお「銀行の国有化」については、その段階的社会主義化の最初の1歩として以前から位置づけられておりました。銀行や重要大規模産業(いわゆる管制高地)の国有化から出発するのは、ごく普通の路線です。ネップの時代だって、この両者は国有企業でした。先進資本主義国においてすら、重要産業が国有化されていた例はいくらでもあります。この日本だって、かつては鉄道や電信電話をはじめとする重要産業は国営企業ないし半国営企業でした。かつての労働党政権時代のイギリスではもっと大規模に国有企業がありましたし、フランスでもそうです。銀行と重要産業の国有化はまったく過激でも、急進的でもない措置です。

「『特殊に残酷で過酷な要素』がブルジョア民主主義革命に起源を持つからといって、レーニンのやろうとした革命の中身までブルジョア民主主義革命に変質するはずがないではありませんか? ブルジョア民主主義革命にいったい、プロレタリア独裁なる概念が存在するとでも言うんでしょうか」。

 これもまったく人の文章を不正確に読んだ結果であるとしか言いようがありません。10月革命は、ブルジョア民主主義革命の歴史的課題を実現することを内包した社会主義革命でした。その端的な例が、プロレタリア・ソヴィエト権力が憲法制定議会を召集する役目を果たしたことです。この問題については、せめてトロツキーの『ロシア革命史』(角川文庫)を読んでから、論争を挑んでください。

「レーニンがロシア革命をブルジョア民主主義革命と規定しているというなら、その言葉を引用してください」。

 誰もロシア革命がブルジョア民主主義革命だったとは言っていません。ブルジョア民主主義革命の歴史的課題を代わって完遂させる役割を果たした(農民への土地の分配、平和の実現、憲法制定議会の召集、帝政・貴族・地主権力の最終的解体、ロシア帝国支配下の諸民族の民族自決の実現、等々)ということです。

「なぜ企業はサボタージュしたんですか? ブルジョアジーは『ボリシェヴィキ政権に最も中心的に対立した勢力が』ではないということでしょう? ならばなぜサボタージュしたんです」。

 これもまったく的外れな問いです。ロシア・ブルジョアジーが対立しなかったなどと誰が言ったのでしょう。問題は、ボリシェヴィキ権力を打倒する勢力として中心的役割を果たしたのは、無力なロシア・ブルジョアジーではなく(彼らは帝政時代からフランス金融資本とイギリス産業資本に従属していた。またロシアの大企業の経営者の多くはロシア人ではなく、フランス人やイギリス人などの外国人だった)、帝政派将軍と西欧の帝国主義ブルジョアジーだったということです。
 浩二さんはさらに「現にケレンスキー内閣はコルニーロフの反乱を支持しなかったではありませんか」とおっしゃっています。いやはや。10月革命後、ケレンスキーがクラスノフという帝政派将軍のところに逃げ込んで、反乱をそそのかし、ペトログラードに進撃させたという事実を知らないのでしょうか? そして、8月のコルニーロフ事件のときも、自分たちではまったく対処できず、ボリシェヴィキに泣きついてきたという事実を知らないのでしょうか? そしてさらに、1918年の1月当時は、ドイツとの講和交渉中であり、ドイツが過酷な講和条件を突きつけて、今にもロシアを侵略せんとしていた緊迫した情勢にあったことも知らないのでしょうか? そして、憲法制定議会解散の後、エスエルの一部が実際に白軍と同盟し、時には白軍の軍事独裁政府の役職にさえ就いたという事実を知らないのでしょうか? ボリシェヴィキについてはどこまでも悪意に判断し、エスエルについてはどこまでも善意に解釈する、恐れ入った歴史の審判者です。

「吉野傍さんの言われるような状態が本当にそうであるというなら、クロンシュタットの反乱など起こり得なかったはずです」。

 これもナンセンスな言いがかりです。私が言っているのは、憲法制定会議が解散された当時の1918年1月のソヴィエトのことです。その後、周知のように、恐ろしく過酷な内戦と干渉戦が勃発し、ソヴィエトの自由も著しく制約され、他政党の活動もしばしば妨害され弾圧されました。憲法制定議会の解散からクロンシュタットの反乱まで、血まみれの3年2ヶ月が横たわっているという歴史的事実を直視するべきでしょう。
 レス(1)の最後に浩二さんは、「レーニンの実行した悪を、何もかも内戦のせいにする議論は間違っていると思います」とおっしゃっています。私がいつどこで、レーニンの実行した悪を何もかも内戦のせいにしたのでしょう。あなたがレスをしている私の投稿(00/1/19)そのものに次のような一節があります。

「総体的にはロシア革命とボリシェヴィキを擁護する人々の中にも、チェカの創設はレーニンとボリシェヴィキが犯した最大の誤りの一つであると考えている人が大勢います。私もその一人です」。

 人の意見はちゃんと正確に読んでから批判してください。とりあえず、浩二さんのレス(1)に対する回答は以上です。

 レス(2)はあまり見るべき内容がないので簡単に済ませます。

「戦争を資本主義の罪悪として告発していた吉野傍さんが、ロシア革命後の『計画経済」の雛形にもってこられたのが『帝国主義戦争遂行のためのブルジョア的計画経済』ですか。恐れ入りました。言葉もありません」。

 「恐れ入」られても困りますね。私は、ボリシェヴィキが、ドイツの戦時社会主義を一つのモデルとして考えていたという歴史的事実を指摘しただけなのですから。しかも、私はその事実を批判的に指摘しています。戦争(すべての戦争ではなく帝国主義戦争)は資本主義の罪悪ですが、その中で形成されたものを利用すること自体は、一概に否定できないでしょう。ブルジョア社会は罪悪だ、だから、ブルジョア時代に作られたものはすべて破壊して捨ててしまおう、という発想こそ、ポルポトの発想であり、極端な経済還元論です。ポルポトはこの発想にもとづいて、銀行を爆破してしまいました。クレムリンは帝政政府が造った建物ですが、それを破壊するのではなく、政府の建物としてボリシェヴィキは利用したし、今でもブルジョア政府によって利用されています。
 一般に社会主義とは、資本主義の中で形成されたものを社会主義的に利用することを基本としています。私が以前、「個人的所有の再建命題」の連載の最初で、『資本論』の一節を資料として添付しておきましたが、そこにもはっきりと、「資本主義の成果」にもとづくことが言われています。労働者の大量の血と汗と労働とが結晶しているからこそ、それを捨て去るのではなく、労働者のために利用されるのです。
 「私は『平和時』の当時のロシアにおいて、計画経済の萌芽などどこにも見られなかっただろう」というのも間違いです。まずもって、当時のロシアは「平和時」ではありませんでした。そして、計画経済の萌芽もありました。食料独占体制はボリシェヴィキがそれ以前のロシア政府から受け継いだ政策です。また、第1次大戦前においても、大規模産業と軍需産業優先の経済政策が取られており、これもまた一種のブルジョア的計画経済の萌芽です。
 浩二さんはさらに、「当時のソ連が資本主義に対してどんな道徳的手本を示していたというのでしょうか」とおっしゃていますが、これも歴史的判断としてまったく誤っています。スターリンの五ヵ年計画は、そのまったくの官僚主義的無謀さと冒険主義的性格によって、著しく計画原理の優位性を損なったにもかかわらず、巨大な経済発展を可能にしました。当時の資本主義社会は、大恐慌の真っ只中で、史上最大の失業と不況が支配していました。このあまりにはっきりとした対照性ゆえに、むしろスターリンの犯罪が隠蔽され、西欧諸国において、それまで一貫してボリシェヴィキに敵対的ないし批判的であったような人々(とくに知識人)までが、ソ連賛美に走るのです。典型的なのはイギリスの改良主義的社会主義者であるウェッブ夫妻です。またロマン・ロランもそうです。トロツキーはこれらの「ソ連の友」を軽蔑しました。『裏切られた革命』を読んでください。

「ソ連は先進資本主義国の経済的・軍事的圧力によって崩壊したのですか? 自己崩壊、内部崩壊です。これが重要です」。

 「内部崩壊」と「外部からの圧力による崩壊」とを機械的に切り離す議論はナンセンスです。ソヴィエト社会内部変質は何よりも、革命直後における内戦と干渉戦によって作り出されました(念のため言っておきますが、革命の指導者自身の主体的誤りを否定するものではありません)。その後も一貫して、きわめて遅れた社会であったソ連に対する経済封鎖、軍事的脅迫、そしてナチスによる大規模侵略という悲惨な目に会いました。外からの脅迫と圧力が厳しければ厳しいほど、内部での統制と強制は強化されます。この両者が結合して、ソ連は崩壊したのです。

「なぜ政権や地方自治体が計画を作らなければならないのでしょうか? これこそ官僚主義、ノーメンクラツーラに直結する体制ではありませんか」。

 この計画経済に関する浩二氏の議論は、これまでの議論の蒸し返しですね。浩二さんはせっかく一度は「私は人間の顔をした計画経済もありうるという考えになりつつあります。吉野傍さんの提示される計画経済も、どうか人間の顔を持っている内容であることを期待したいと思います」(00/1/17)とおっしゃっていたのに、またしても、計画経済がただちにノーメンクラツーラ支配を生むという即断がなされています。またしても単純な経済決定論です。
 以上で(2)に対するレスは終わりです。疲れたので、残りは後日にレスします。